贖愛

lampsprout

贖愛

 喫茶店で一番苦い珈琲を啜る貴女に、僕は何気なく嘗ての恋愛を聞く。すると貴女は、普段の無表情を崩し、きゅっと眉を顰めて唇を動かしたのだった。



 ◇◇◇◇



『君にだけは、住所を伝えておこうかな』


 そう言って、顔も知らない恋人は突然住所の記されたダイレクトメールを送ってきた。きっと私の知らない、何か別の思惑を秘めたまま。いつも通り、とある誰かの日常を演じて。彼は大事な話をほとんど教えてくれないけれど。



 ――いつか、逢いに来て。



 ◇◇◇◇



『好きだよ』


 知り合って1、2年経った頃、私は何気なさを装いつつ、そんなメッセージを送った。恋人として付き合うとは微塵も考えていなかったにも関わらず。当然、彼は面食らったような反応を返した。SNS上で話しているだけの人間に告白されれば、戸惑うのも当たり前だった。


『それはどういう意味かな』

『別に、気にしなくていいよ』


 煩わせるつもりは無かったし、そうなれば罪悪感に堪えられないと思った。自分が抱くのがそもそもどんな種類の情かも分からない。私なんか気にしなくていい、そう繰り返してその話は有耶無耶になった。

 そして随分経ってから、彼から付き合ってほしいと言われた。一度も会っていない相手、それでも私に躊躇は無かった。勿論彼が本当に同い年の異性なのか、他に恋人はいないのか、そういったことを確かめる術はどこにもない。私にはそれで良かった。

 友人や家族に伝えるつもりは毛頭なかった。たとえ現実の恋人だろうと、私は滅多に明かさないけれど。



 ◇◇◇◇



 彼と知り合う以前から、私はネットに趣味で作ったアクセサリーを公開していた。アクセサリーを写した写真だけを適当にアップしている、極々シンプルなアカウントだ。そのことはまだ親友にも言っていない。なのに、ある時彼にばれてしまったことがあった。


『ねえ、あのアカウント、君のでしょう』

『雰囲気で分かるよ。見たことあるから』


 確かに数枚、彼に作品を見せたことがあった。アカウント名も彼と話しているものとそう変わらない。だけどまさか見つかるとは思わなかった。


『なんで分かったの』

『内緒』


 指摘されて驚きながら、私だと気付いてくれたことが内心嬉しかった。セキュリティ上はあまり良くないかもしれないけれど。彼なら何でも良いと思っていた。

 私たちの共通点は一体何だったのか、今となっては分からない。家で居心地が悪いこと、同級生と親しくなれないこと、何にも興味がないこと。何時間も何日も互いの他愛ない話をする毎に、詳しい事情は何も知らないのに、いつしか心臓の一部になっていた。



 ◇◇◇◇



 ある日突然連絡は途絶えて、彼からのメッセージは一切届かなくなった。私は来る日も来る日も待ち続けた。正直、何の予兆も無かったわけではない。何となくそんな気はしていた。なのに私は、引き止めなかった。

 私なんかが連絡しても、況して押しかけても、迷惑にしかならない。SNS上とはいえ何年も話し続けた彼に対し、私は未だにそんな怯えを抱いていたのだ。

 ……否、それでさえ言い訳に過ぎなかった。自分から誰かに連絡するのが心底苦手で、怖くて、どうしても決断出来なかった。真相を知って後戻りが出来ないくらい絶望するのを避けていた。彼なら、と甘えた自分勝手な考えから、彼の状況を慮れなかった。

 あのとき連絡していれば、あの日何とかしていれば、そうずっと後悔している。後悔先に立たず、何度考えただろう。どうせやり直せても変えられないけれど。……謝っていれば取り戻せるなんて都合が良すぎる考え方。辛いなら愚痴ばかりでいいのに。話が出来るだけでいいのに。もう一度話せるなら何も要らないとまで考えた。仮に、信じ続けていた年月総てが詐欺と言われても。


 状況が変わらず1ヶ月が過ぎた頃から、急激に体調が悪くなった。痩せ細るようなものではない。ある程度は食べられるし、もともと代謝が良くないので安静にして寧ろ太った気がする。だけど、酷いときは一日中気分が悪い。外出先で吐き気がすることも増えた。

 すっかり言うことを聞かなくなった身体を無視して、私は汎ゆることに手を出し始めた。例えば、今まで出来もしなかった先生への質問を捻り出してみたり。受験勉強の合間に校外の学修イベントに参加したり。つまらない人間でなくなれば、器用になれば、何とか出来るかもしれない。そんな焦りに突き動かされていた。

 ――だけど所詮、自分に出来ることには限りがあった。1つを究めることも、幅広い知識を得ることも、共に中途半端なまま。ただ精神だけが磨り減っていく。私の努力が足りないからだ、死ぬほどの思いをしていないからだ、そう思いつつも、結局真の努力は出来ない碌でなし。



 ◇◇◇◇



 逢えなかった間の話は最期まで何も聞けなかった。そして、愛してると言い損ねたことが脳裏にこびりついている。……それでもいつか逢えるのならと、どんな不調も堪えていた。醜いエゴを取り繕わず手を掴んだのなら、どうなっていただろうと考えながら。なのに最初から無駄だったのか。私が縋った小さな数字は、所詮勘違いだったのか。



 ◇◇◇◇



 彼と連絡がつかないまま、高校の卒業式が終わって半月経った。明日は大学の合格発表だ。そして恐らく不合格。そんなときに、私は部活の後輩と2人で喫茶店を訪れていた。

 所属していた書道部は各学年5人ほどで、全員が学年問わずゆるやかに仲良くなっている。だから、活動していた頃は時々こうして誰かと出掛けることもよくあった。

 最近の部活の様子や、勉強の具合など、当たり障りのない話に一段落ついたころ。後輩が嫌に歯切れが悪く切り出した。


「あの、こんな時期に悪いんですけど」

「うん」

「……僕と付き合ってくれませんか」

「…………はあ?」


 予期していない後輩の爆弾発言に、私は暫し固まった。フィクションなら珈琲を派手に吹き出しているところだと思う。今のは幻聴だろうか。

 ……そうだ、そうに違いない。幻聴だ。私に需要なんかあるはずがない。

 しかし無情にも、話は動転している私を無視したまま続いていく。


「先輩、聞いてます?」

「……何を」

「好きです、先輩。もし良ければ付き合ってください」


 既に後輩の首元を見るのが精一杯なのに、向かいから私の顔への視線を痛いほどに感じる。最早カップしか見つめられない。事実は小説よりも奇なりとはこのことか。


「……マジで?」

「マジです」


 我ながらあんまりな返事だった。後輩が気の毒だ。……もう何がなんだか分からない。折角日常に浸っていたのに、一気に現実味が無くなった。ふわふわする奇妙な浮遊感。さっきまで私は、喫茶店で穏やかに珈琲を啜っていたはずなんだけど。


「先輩、僕に彼女がいたの知ってますか」

「全く、微塵も」


 先輩らしい、と後輩は笑う。聞けば部活内では周知だったそうだ。私はとんだ世間知らずだったらしい。


「まあ5月くらいに振られちゃいましたが」

「……へえ」


 あっけらかんと話す後輩に、私は返す言葉もない。こういうのは晴れ晴れと話すものなのだろうか。


「結構ショックだったんですけどね、先輩のおかげで少し立ち直りまして」

「え、私、何かしたっけ」


 そんなことを言われても、まるで心当たりがない。先ほどの事実を知らない私が知るはずも無いけれど。


「いつも一方的に僕が連絡してますけど、誕生日だけ連絡くれたじゃないですか」

「……あー」


 確かに去年と今年は短いお祝いメッセージを送っていた。理由は単純、先に私が後輩に祝ってもらったからだ。私の誕生日は5月、後輩は6月。でないと祝う度胸はない。

 ……それにしても、まさか何気ない誕生日祝いがフラグになっていたとは。この後輩、誰とでも話す人たらしのくせに。つくづく世の中は分からない。


「落ち込んでたのもあって、余計に嬉しかったです」

「……それは良かった」

「で、彼氏とかいるんですか?」

「……」


 漸く多少は腑に落ちたものの、相変わらず意味が分からない。混乱しすぎて、さっきから二語文しか喋っていない気がする。

 ただ、嫌ではなかった。寧ろ有り難いし、嬉しいことだとは思う。……もう受けてしまおうか、と思った。嫌いなら一緒に喫茶店なんか来ないんだから。別にいいや、と投げやりな自分が、確かにそこにいた。

 ……だけど私には、ずっと引っ掛かっていることがある。こんな状態では不誠実だった。そしてこの人には、最低限誠実であるべきだと思った。

 ……気が付けば、口が勝手にすらすらと話し出していた。



 ◇◇◇◇



 隣に居る間は舞い上がりもしないのに、失くしたときだけ心臓は物理的に痛み始める。



 ◇◇◇◇



「じゃあ、真面目に返事するけど。あ、他言無用で」


 顔を近づけ低い声で始めた私に、後輩が小さく頷いた。


「半年前まで、付き合ってた人がいて。別れたというか、音信不通になってるんだよね」


 後輩の目が、丸く見開かれる。


「誰ですか?」

「ネットの知り合い。もう5年の付き合いかな。だからかなり信用してる」

「直接会ったことは?」

「無い。住所は知ってるよ、それなりに近所だった。行ったことは無いけど。結局、私の住所も教えてない」


 それを聞いて、後輩の顔が少し安堵に緩む。まあ当然の防犯意識だろう。


「あまり褒められたことではないし、馬鹿げてるのも分かってる。でも、私は実際あの人を信頼して、ずっと待ってきた。同い年かどうかすら証明できないのにね」


 自嘲気味に嗤うと、後輩が同情するように顔を歪めた。そんなのは期待していないのに。


「金銭の授受は無いから、詐欺ではないし。ただ私がおかしくて、しつこいだけ。一回も、私から連絡したことなんか無いくせに」


 滔々と流れるように説明は紡がれた。いい加減、誰かに吐き出したかったのかもしれない。だとしたら私は、後輩の告白を利用した酷いやつだ。優しくも何ともない人でなし。

 ……それに話せば話すほど、当初の考えが揺らいでいく。やっぱり、私は、


「――でも、だからこそ、私は待ってるの。いつも連絡をくれたみたいに、また向こうから戻ってくるかもしれない。そう思うと、どうしても忘れられない。全部私のせいなのに」


 最後は、少し声が震えてしまった。情けない。それに、自分のせいだと言い聞かせるのも、そう考えていれば誰にも余分に責められないと思うからかもしれないのだ。なんて浅ましいんだろう。


「まあ、5年の会話全てが詐欺だと言われても、私には否定する材料が無いんだけど」


 私はへらりと笑って締め括った。これで大方の義理は果たしただろうか、と後輩の表情を窺う。


「じゃあ」

「……うん、今は、断るよ。ごめんなさい。嫌ではないんだよ、寧ろ有り難い」

「分かりました。また、普通にお茶しましょう」


 そう言って笑う後輩を見て、途端に申し訳なくなった。今は、と私は言った。だけどきっと、この人と付き合う日は永久に来ない。色々話しながら、二度と忘れられないことを確信してしまった。

 毎日思い返していても、日々薄れていく記憶。それが再び鮮やかに焼き付きそうになるのを、私は感じた。


 愛だの恋だの、面倒くさくて下らないと思っていた。実際、自分の感情など面倒なことしかなくて酷く疲れる。まさかこの程度のことで自分の体が壊れるとは思わなかった。そして後輩まで気にかけないといけなくなり、尚更ややこしい話になった。

 ――それでも、全部自分本位で、愛かどうかなんて自信が無いけれど。私は諦めきれなかった。



 ◇◇◇◇



 恐らくそこかしこに散りばめられていた小さな嘘や隠しごとの数々を、責められるほどに私は清廉潔白ではない。何故なら私だって、呼吸をするように小さな誤魔化しを重ねてきたのだから。



 ◇◇◇◇



 案の定大学には不合格で、1人予備校の手続きを済ませた帰り道。私は電車で数駅分の遠回りをした。携帯でメッセージを確かめながら、黙って歩を進める。やがて、少しずつ目的の建物が見えてきた。


 ――彼の住所が示すマンションの前、少し遠目に佇む少女に、私の目は奪われた。私なんかとは違う、華奢な立ち姿。日光を浴びても尚黒々と輝く貫庭玉のような美しい髪。軽く右足を引き摺るような歩き方。

 予期していた性別とは異なるけれど、それは確かに『彼』だった。会ったことなど無い、だけどそう確信できた。凛とした、何もかも私の知る人々とは違う雰囲気が物語っている。いつだったか、自分は右足が不自由なんだと話していたことを思い出す。

 遅れてマンションから出てきた知らない男性と楽しそうに談笑する横顔に、私は酷く安堵して、同時に激しく嫉妬した。私なんか要らないんだ、と強く絶望した。……私が居ない間、彼が不幸であって欲しかった、そう捉えられかねない感情。


 最低だと私は自分を罵りながら、そのマンションを後にした。苦しくて苦しくて仕方がない。何で、どうして、ぐるぐる同じことを考えた。そんなの全部、自分勝手な私が悪いのに。胃が嘗てないくらいにしくしくと痛み、食道に違和感を覚えるけれど、冷汗をかきながら必死に歩いた。肩口で切り揃えた髪が首に張り付いて気持ちが悪い。周囲の雑音が脳に染み込んで、激しい動悸と嘔吐感を催した。

 ――それでも、綺麗で愛しい横顔が、頭から離れなかった。



 ◇◇◇◇



 何を目的に、誰と過ごしてきたのか、たとえ教えてもらえなくても。謝罪なんて要らないから、ただ居なくならないで欲しかった。そう願える財力も権力も、私の手には無かったけれど。



 ◇◇◇◇



 ――マフラー越しに外気を吸い込めば、湿った雪の匂いが肺を凍らせた。あれから何ヶ月も経って、辺りは薄く雪に覆われている。

 ……結局私は今も、後輩とのやり取りを続けている。あくまで先輩としての素っ気ない振る舞いを崩してはいないけれど、やはり喫茶店での出来事から何かが変わってしまった。流石にあんなことを言われれば、後輩の言動の節々に私への気遣いを感じ取ってしまう。それなのに何も変えない私は、本当に狡い人間だ。いっそのこと、もう一度はっきり断ったほうがいいのに。


 あと少しで、私にとって1年振りの大学受験がやって来る。私はそれを言い訳にしながら、ずっと何も気付かない振りをしている。何かの間違いかもしれない、そんな愚かな願いを胸に、未だにあの人を待っている。

 大好き、愛してる、そんな言葉で切り取れないほど不可解な感覚。流れる時間と共に、話していた頃の感情の輪郭は既にぼやけて見えなくなってしまった。そうやって何度も夢にまで見た、あの人からのメッセージを消せないまま。



 ◇◇◇◇



 ――恋バナなんて嫌い、と貴女は冷めた声で吐き捨てた。記憶の底に沈む誰かに、苦しげな視線を送りながら。

 凍てつく貴女は何を隠して、清浄な日常を演じているのだろう。

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