ほんの酔狂
エイドリアン モンク
ほんの酔狂
お酒は飲み過ぎないようにしましょう―健康診断で言われるお決まりの言葉だ。
Aは酒を飲みすぎることは無かった。
いつも飲まれているのだ。
Aが酒を飲み始めたのは大学生の時だった。サークルの歓迎会で、先輩に無理やり飲まされた。
味は覚えていない。だが、初めて酔っ払ったときの感覚は鮮明に覚えている。
体がふわふわした感覚になり、思考がぼやける。Aにとってかつて経験したことのない心地よい感覚だった。
Aはいつも怯えていた。持って生まれた性格なのか、恵まれない家庭環境がそうさせたのか、本人にも分からない。
いつも周りの空気を読み、自分を押し殺すことが生きるすべだと思っていた。
酒はそんなAを変えた。酒を飲んでいる間だけ、Aは自分を縛り付けるものから自由になれる気がした。
Aと酒は友達になった。親友といってもいい。つらい時も悲しい時も酒はいつもAに寄り添ってくれた。その優しさにAは甘えた。
大学卒業間近のある日の朝、目覚めるとAは自分の服が血まみれであることに気付いた。
服を脱いで確認したが、自分の血ではなかった。代わりに、こぶしは傷だらけだった。酔った勢いで誰かと喧嘩をしたのだ。幸い、このことは大事にはならなかった。
Aは震えた。だが、恐怖ではない。
喧嘩なんて、素面なら絶対にできない。気の弱いAでも腹が立つことはあるし、手を出したくなるほど憤ることもあった。
だが、Aの気弱さと理性がそれを抑えていた。
酒がAの凶暴性を解き放してくれた。
酒がAを無敵にした。
だがさすがに、この経験を人に語ることはかった。その後は普通に就職して、社会の歯車として働く日々を過ごしていた。
ある日の仕事帰り、同期のBがAを食事に誘った。
Aは居酒屋に行こうと提案したが、Bは酒がないところがいいと言うので、職場の近所のファミレスにした。
「俺は同期だけど、それ以前にお前とは友人だと思っている」
唐突にBが言った。
「お前もそう思っているよな?」
「ああ、まあ……。どうした、改まって?」
「これから言う事を、気を悪くしないで聞いてほしいんだけど、お前は人当たりもいいし、仕事もそつなくこなす。いい奴だ」
言葉を選ぶようにBが話し始めた。
「それはどうも……」
Aが注文したハンバーグ定食が運ばれてきた。
「でも、それは酒が入っていないときだ」
ハンバーグを刺したフォークを置いた。
「取引先と飲むときはお前なりにセーブしているのだろう。それはまあいい。問題は仲間との飲み会だ。……この間も荒れただろう?」
「……そうだっけ?」
「そうだよ。覚えてないのか?だから、お前が来るなら、もう飲み会に参加しないと言っている奴もいるんだぜ。なあ、飲み方を少し考え直した方がいいんじゃないか?」
Bは本気でAのことを心配してくれている。
酒を断てば、無敵の自分とは会えなくなる。それでも、心配してくれる友人に勝る理由なんてあるだろうか?
答えなんてわかりきっている。
「分かった。俺、酒をやめるよ」
「別にやめろって言っているわけじゃない。少し減らしてほしいって話で……」
「いや、やめるよ。せっかくお前が忠告してくれているんだ。素直に忠告を受け入れるよ」
Bは安堵のため息をついた。
「分かってくれてよかったよ。酒に飲まれなければ、お前はいい奴だからさ」
Aは自分が求めていた物にようやく気が付いた。
Aが欲しかったのは酔いに任せて自我を失う時間ではない。
安心できる仲間と腹を割って自分らしくいられる時間だった。
ようやく大切なものに気付けた。
今日はいい日だ。
カーテンが開けっ放しの部屋に、朝陽が差し込む。
Aは散らかった自分の部屋で目が覚めた。今日も、ベッドにたどり着く直前で力尽きて床で眠ってしまっていた。
下半身の付近には大きな水たまりができている。尊厳など、とうに失っていた。
ゴミが散らばった床からスマホを探した。
時計は十時と表示されていた。今日は平日だが、仕事に行かなくてもいい。先月、酒の席で酔いに任せて嫌いな上司を殴り、即刻クビになった。
久々にラインを開いた。夢の中でBが出てきたからだ。
知り合いのほとんどは、Aをブロックしていた。それはBも同じだった。
心底失望した―これがBからの最後のメッセージだった。
Aはスマホ置いて立ち上がった。服は何日も着替えておらず、無精ひげは伸ばし放題だ。
台所には所狭しと酒が置かれている。男は一番強い酒の瓶を開けた。
瓶から直接酒を飲んだ。喉が焼けるように痛みを感じた後、酔いが回り思考がぼやける。体が浮いたような感覚になる。
また無敵の日々がはじまる。
ほんの酔狂 エイドリアン モンク @Hannibal
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