黄金虫

アルバート・ウォッシュ

黄金虫

 私は悶々とした気分を抱えながら鬱蒼としたジャングルのように立ち並んだ家々の間を鉛のように重い学生カバンを提げて歩いていた。鞄の中に返却された定期考査を忍ばせていて、それが心の蟠りとなっているのだ。心の蟠りになっているというのは決して結果が芳しくないということではない。

 私は寧ろ一般的に言えば成績優秀な方だった。そしてそれは周知の事実であり、考査の時期になるとさぞ熱心に勉強していることだろうと皆が噂した。しかしながら、実際はというと、全く以てそんなことはなかったのである。それは、考査の時期が近付いてくると勉強しようと決心するほど普段本など読みもしないのに長い間途中までしか読んでいないままになっていた本を読みふけって、結局勉強しないままにええいままよと考査を受ければ何故か好成績を取れてしまうというような調子なのである。実際の問題というのは、努力家という中身の伴わない評価を背負い続けるのはどうしようもなく苦痛であるということだった。

 私は遂に家に向かう足取りが止まってしまい、近場の公園でしばしの間心を落ち着かせることにした。そして硬いベンチに腰を掛け、ため息をひとつついたそこで私は、ささやかながらも少々惨たらしい光景を目にしたのであった。

 蟻の集っている黄金虫の死骸である。

 その惨たらしさというのは決して私個人の昆虫に対する嫌悪感などではなかった。それは、人間の矮小さを嘲るような雄大な自然をこの小さな公園の小さな一角に写し取ってきたかのような光景で、それゆえに惨たらしいのである。その光景を見ていると次第に心の内から畏敬の念が湧き出してきて、私はその光景に釘付けになった。

 そしてその光景を眺めているうちに私はふと、これまで見てきた黄金虫の大半は黄金色ではなかったことを思い出したのだった。私の知る黄金虫というのは、確かに金属に似た光沢を持ってはいるものの、皆緑色で、黄金という名前には相応しくないようなものばかりである。そして私は、黄金虫は我々がその名を用いて呼ぶ度にどれほど身の細るような思いでいるのだろうかということに考えを巡らせざるをえなくなったのだ。あぁなんと憐れな黄金虫よ。私が黄金虫ならせめてその名前が呼ばれないように、人のいないひっそりとした場所で暮らしたいものだと思ったのだった。

 私は暫くそうやって公園で時間を潰していたが、ついに覚悟を決めて家に帰る決心を固めた。いくら家に帰るのに気乗りしないといっても、家に帰るのが遅くなって心配をかける方が後々のことまで考えると面倒だった。

 私は家の洗面台で手を洗いながら、居間をどう抜けようかということを考えていた。そそくさと去ってしまってはやましいところがあるかのように見えるし、かといって長居していては考査の結果の話題を出されることは必至だった。

 そんなことを上の空で考えているうちに手を洗い終わってしまい、同じことを考え続けているままに居間へと向かう。そして、ソファに腰掛けてテレビを付けると、依然として同じことを考えながら画面右下の時刻表示と膝の上の鞄を交互に眺めていた。

「ねぇ、考査って今日返ってくるんじゃないの?」

「まぁ」

 私は曖昧にそう返事を返す。視線はテレビの右下に向けたままだった。

「じゃあ見せな」

 私は渋々考査の結果を母に手渡すと興味のないようなふりをしてテレビに視線を戻した。内心は母の反応が気になってしょうがない。

「悪くはないね」

 母は何枚かの答案をペラペラとめくると何にもないようにそう呟く。

「うん」

 私は母から顔を背けるようにしてそう曖昧に答えた。私の成績を眺める時母はいつも満足げであり、それとは対照的に私は母を満足させるような娘ではなかった。そして私は母の満足げな表情を見るたびに、私はこんなにも純粋に私のことを自分のことのように喜んでくれている存在を欺瞞しているのかということに考えが至って胸が締め付けられるような思いになるのだった。

「頑張ってるじゃん」

 私は奥歯を噛み締め、密かにこぶしを握りしめていた。私が最も恐れている言葉である。その言葉は称賛というよりは寧ろ痛烈な皮肉だった。せめて「頑張ってもないのに」と言ってくれたらどれだけ気が楽だろうか。

 母が試験答案をめくっている音を聞いている間、私は何度もあの光景を思い浮かべていた。黄金虫の死骸に群がる蟻の群れ。黄金虫の名を捨て、ただの有機体の塊となっていく。黄金という文字通り輝かしい偽りの名誉は墓標に刻まれることも人々に顧みられることもない。私は今やそれに強い憧れのようなものを抱いていた。もはや母の前でいじいじしている場合ではない。今すぐにでもやるべきことがある、そう強く感じる。

 私は我慢ならなくなって、母がその場を去るやいなや家を飛び出した。家々のジャングルを縫って駆け回って、あの公園、あの場所へと颯爽と駆けていく。

 公園に戻り黄金虫を見かけたベンチに向かうと、そこにもう黄金虫の姿はなかった。そして私は、まさにその場所で大の字になって寝そべったのである。人目を憚ることはなかった。私は心の中で唱える。出てこい破滅の使者よ。出てきて私を優等生の烙印ごと巣に持ち帰り、願わくは骸も残さぬように食らいつくしてくれ。だがそんな私の祈りも虚しく、よく照った日に暖められた砂の熱気をただ背中から感じているだけで無為に時間が過ぎていく。それでも私は意固地になってただひたすらに待ち続ける。もう引き下がることはできなかった。

「おい見ろよ! 誰か倒れてる!」

「この姉ちゃん生きてんのかな」

 そうしているうちに公園で遊んでいる小学生に見つかってちょっとした人だかりができた。私は無理に気付かないふりをして微動だにしない。

「おらっ!」

 すると彼らの中の一人が無邪気に私の脇腹に蹴りを入れる。そして私は遂にじっとしていられなくなって横向きになってか細い声で呻く。そして私はその時、こんなことをしても無駄なんだというあまりにも当然であるようなことに打ちのめされたのだ。アリは私を食らいつくしには来ない。私はただこれまで通りの生活を送るしかないのである。私は泣くことすらままならず、ただ無気力に公園で寝そべり続けていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

黄金虫 アルバート・ウォッシュ @lievre_de_mars

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る