祟りの始まり 4

「はやくっ! ここから、はやく逃げるよっ……!」

「で、でも……こ、腰が抜けて……あっ……足に力が……」


 崩れ落ちた美穂ちゃんの身体を抱き抱え、何度も起こそうとするけれど、美穂ちゃんの身体が浮き上がってはまた落ちる。背が私より低いと言っても、美穂ちゃんは成人した女性。私の力では限界がある。そうこうしているうちに、私たちに気づいたのか、血塗れのユキヒコさんは嬉しそうな顔をしてこちらに近づいてくる。その姿はまるで友達を見つけて駆け寄る子供のようで、私はさらに力を込めて美穂ちゃんを引き上げる。でも——


 ——無理だ。私の力じゃ、美穂ちゃんを抱えられない。


 黒々とした血塗れの頭部を持ったユキヒコさんが、どんどん私たちに近寄ってくる。


「はやくっ! 立って! お願い! 美穂ちゃん!」

「私だって立ちたいんです! でも、でも……足に力がっ……」


 ユキヒコさんの声がどんどん大きく聞こえてくる。


「お顔を綺麗にいたしましょ〜そしたら戻ってこれるから〜お清めお清めお清めて〜川に流してお清めて〜綺麗なお顔をもらいましょ〜御面様の言うとおり〜」


 歌いながらステップを踏んでユキヒコさんは私たちのそばまでやってくると、私たちのまわりを周り始めた。さっきよりもなにを歌っているのかが鮮明に聞こえる。


「お顔を綺麗にいたしましょ〜そしたら戻ってこれるから〜お清めお清めお清めて〜川に流してお清めて〜綺麗なお顔をもらいましょ〜御面様の言うとおり〜」


 怖くて動けない美穂ちゃんと同様に、もう私も動くことができないでいる。ユキヒコさんの顔はどう見ても普通ではなく、完全にここではない世界にぶっ飛んでいる。もう、話が通じるような相手じゃない。


「やめて、やめて、もうやめて」と、美穂ちゃんが泣きながら呟き続ける。そんな美穂ちゃんの目の前に、ばさっとユキヒコさんがしゃがみ込み、私はその顔を見た。限界まで目を見開いたユキヒコさんの目は、黒目が大きくなったり小さくなったりを繰り返している。


「あのねぇ。僕ねぇ。御面様の声を聞いたんだよぉ。あのねぇ。御面様はねぇ。僕の大好きなレイちゃんをこうやったらいいよって教えてくれたの。ふふふ。雷で焼けちゃった汚い顔を切って、川に流すとね、レイちゃんは綺麗なレイちゃんになって戻ってきてくれるんだって。えへへ。だからね、僕してあげたの。ね。いいことしてるでしょう? 僕のだっい好きなレイちゃんがね、綺麗なレイちゃんになって戻ってくるんだよ! きゃはははははは! 見てて! こうやってね、レイちゃんの汚い顔を川に流しちゃうんだ!」


 嬉しそうに私たちにそう言うと、胸に抱えていたレイさんの頭を自分の頭の上に掲げ、ユキヒコさんは川へと走っていった。それはそれは軽やかで、小石の河原を走っているとは思えないほどに颯爽に川まで駆けてゆく。白いティーシャツの背中が川まで到着したのだと分かるくらい小さくなったところで、ユキヒコさんはこちらを振り向き大きな声で叫んだ。


「僕いい子だからー! レイちゃんの綺麗な顔をもらいに行ってくるねー!」


 そして、くるりと向きを変え濁流の川の中へと入っていく。


「うそでしょ……」


 ユキヒコさんの着ている白いシャツと、レイさんのご遺体の履いている白いズボンが、重たい灰色の世界に浮き上がっている。轟々と流れる川の流れにユキヒコさんの白いシャツが、見え隠れしながら下流に流れていくのを私は見ていることしかできなかった。完全に見えなくなったユキヒコさんの白いシャツ。残されたレイさんのズボンの白色だけが、「私はここだ」と言っているように河原に残っている。


「とにかく、ここにいちゃダメだよ、はやく、立ち上がって行こう、美穂ちゃん!」


 傘を手放し、よいしょっと脇に手をかけ思いっきり引っ張り上げると、今度は美穂ちゃんの身体が浮き上がり、すくっと立ち上がることができた。


「なんで……なんでこんなことに……」


 泣きながら美穂ちゃんが私にしがみついてくる。私もなぜこんなことになったのか、全く意味がわからない。ただ分かることは——


「御面様……」声にならない声で呟くと、世界が真っ白になるほどに雷が光り、唸り声のように山々が低く雷鳴を響かせた。ユキヒコさんが歌っていた歌が頭の中で何度も何度も流れる。


 ——お顔を綺麗にいたしましょ〜そしたら戻ってこれるから〜お清めお清めお清めて〜川に流してお清めて〜綺麗なお顔をもらいましょ〜御面様の言うとおり〜


「御面様に祟られる……だ……。行こう、美穂ちゃん、ここは危険だよ!」


 私は美穂ちゃんの手首を掴み、二人分のバッグを持ってセンターハウスに向かった。木下さんにこのことを話して、私たちは山の家に行きたい。じゃないと私たちまで——


 ——御面様に祟られる。


 美穂ちゃんの手首を握り、急いでセンターハウスに向かう私の視界の隅に、リカさんがさす赤い傘が見えた気がした。

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