透明色の風鈴

霞流 あおい

第1話

その日私は、初めて父の世界に足を踏み入れる。

埃が被った机とベッド。床に散乱した数年前の新聞。未だ手付かずのままの枯れた植物。

窓を開けて貰えず揺れることもできない風鈴。

……少しずつ、前向いてくから。

今、私は、父と向き合う。




中学生最後の夏休み初日。

美術室。


外では無数の蝉がジージーと叫んでいる。きっと暑さに悲鳴をあげているのだろう。閉め切った窓を突き抜けて聞こえてくるそれは私の集中力を削いでいった。

うるさいったらありゃしない。


「はあ」

「なんやねん、でっかいため息ついて。らしくないな」

「うわっ」


突然自分の背後から聞こえた声に背筋が凍る。振り返ると見慣れた顔がそこにあった。驚いた顔をする私に、ソラはにやりとした。


「また部活抜け出してきたんか」

「外あっついから涼みにきた」

「どあほ」


野球部なんて今が一番忙しい時期だろうに、こいつはと言えば。けたけた笑うソラに私はまた大きいため息をついた。


「あーっまたため息かいな」私を指差しながら云う。「原因なんやねん、俺優しいから話聞いたる」

「二回目のため息はソラが原因なんやけど」

「いやー、ごめんて」


ソラはまた笑った。2人きりの美術室にただ響くソラの笑い声に私は面白おかしくなって「相変わらず能天気やな」と言うとやっぱりソラは笑った。つられて口元が綻んだ私は、やっぱりこの人には適わないとつくづく思った。

一頻り笑ったあと、「いい加減話さんかい」と言わんばかりの表情のソラへ、私はまっさらな画用紙を指でトントンと叩いた。


「夏休みのコンクールの絵、何も思い浮かばんのよ」


美術部である私だがこれまでコンクールの絵を提出したことは一度もなかった。先生に苦言を呈されたこともあり今年こそはと頑張っているものの何も思いつかない。誰を描くのかは、決まっているのだが。


「……約束か?」


私は静かに頷く。ソラは何とも言えぬような顔で私を見た。ソラがそんな顔しなくても。思わず口にしそうになったが、私は苦笑いして誤魔化した。

暫く黙考していたソラは無言で私の筆を手に取り、パレットの絵の具を徐に掬い、バケツの水でぐちゃぐちゃにした。

私は水中で混ざっているであろう色たちをただじっと眺めていた。




「今日はもう帰れ」とソラに云われた私は一人で帰路についた。気を使わせてごめんと謝ってもソラは何食わぬ顔で笑った。

人物画を描くのは昔から苦手だった。間違った色で人を描いてしまうと、失礼にあたってしまう。その人の決められた色で塗るのが正しい。私の見る人間とみんなの見ている人間は違うのに。

「何故人間の顔が青色なの?」と言われたあの日から、苦手なのだ。


小さい頃、父と約束をした。

「くやしい」

幼稚園で描いた母の似顔絵を手に持ちながらぼろぼろに泣く私は言った。

「色塗りが変って云われたの」

父は静かに本のページを捲った。その目は未だに本に向けられていて、絵はおろか私を見てくれさえしない。そんな父に段々と腹が立ってきた私は悪あがきのつもりで言った。

「いつかお父さんの似顔絵、色の着いたやつ。描くから」

悪あがきの、つもりだった。本に夢中だった父はいつの間にかじっとこちらを見ていた。

無口な父からの返答は期待してなかった。頷くか軽い応答だけして、いつものようにそっぽを向くと思っていた。

「楽しみにしてる」

驚がくした。何を云われたのか一瞬理解できなかった。びっくりして固まる私をよそに、すぐそっぽを向いた父は、また本のページを捲りだした。いつも静かにそこにいる父だった。

私に興味なんて全く無い父が、私の方を見てそんなことを云うなんて、普段なら絶対に有り得ないこと。当時はこっちを振り向いてくれたことが嬉しくて仕方なかった。

病弱だった父はそれから一年経たぬ内にこの世を去った。父とのたった一つの約束さえ果たせなかった私を、私は、益々嫌いになっていくほかなかった。

そして父がいなくなってからその言葉を噛み砕くほど、自分への嫌悪を強く感じた。


それから毎年、私は父の絵を描こうとしたが、筆が上手く動くことはなかった。否、父が私に期待を抱いた、父が私に正解を求めたときから、と言うのが正しいかもしれない。だれかに期待をされるほど、重たいものはない。そう思うのは今も昔も変わらない。


色の見えない私が色を塗るというのは間違っていたと思う。その出来事をきっかけに、私は色塗りをすることをすっかりやめてしまった。




「ただいま」


いつもより重く感じる玄関の扉を開けると、慌てて階段を駆け下りてくる母の姿が見えた。

息を切らした母の手には眼鏡ケースが握られている。


「お父さんの仕事部屋から眼鏡出てきた」

「それがどうしたん」

「かけてみ」


何で私がお父さんの眼鏡なんて掛けなあかんのや。

つい先程まで父のことを考えていた私に眼鏡をかけないという選択肢はなかった。

眼鏡をかけた私は、目前に広がる光景に目を疑った。目を何度もぱちくりさせた。夢だろうか。夢であるに違いない。

モノクロだった私の世界に突然現れた無数の色。

押し寄せる情報の量に、目をちかちかさせながらも色を理解しようとした私は混乱の果てに叫んだ。


「なんやねんこれ!?」




「ソラ!!!」

「うるっさいなあ、なんや__」


玄関扉を開けたソラが私を見てぎょっとした。

まるで魂を抜かれたような顔でひどくまぬけだ。私は込み上げる笑いを抑えきれず、わっと吹き出した。そこでまたソラはぎょっと目を見開く。


「なんや、イメチェンか?」

「見えるようになってん、色が!!」


ソラは は? と頭の上に疑問符を浮かべたまま、訝しげな顔をした。


「ほんまに?揶揄ってるだけとちゃうやろな」

「ほんまやて」

「じゃあ今俺が着てるシャツの色答えてみい」


ソラはいつものように、にやりと笑ってみせた。

まだ色と色の名前が一致していないのにも関わらず、私は考えた。今すぐにでもこの喜びと新鮮さをだれかと分かち合いたい。


「なんや、あの」


こんがらがる頭とちかちかする視界が交差して、更に私を困惑させる。

しまいにわたしは真上を指差した。


「空みたいな色!」


少しの間のあと、ソラは笑ってグッドポーズをした。



「あれがな、水色……そら色や」

「ソラがそら色の服着てるっちゅーことか」

「うまく言うなや」


色の着いたソラが笑った姿はいつにも増して眩しかった。そんな色を纏って、そんなふうに笑うなんて知らなかった。私が知るソラとはまた違う。

色って、こんなに素敵なのか。

みんなが見ている色を、私も一緒に共有したかった。私は色の着いた世界を、ずっと見てみたかった。

父が"楽しみ"と云っていた世界の色を知りたい。正解の色を探したい。


「なあ、旅しよーや!」


私はソラの手を掴んで、言った。

突拍子もない私の言動にソラはびっくりした顔を見せたが、すぐ「はいはい」と呆れ気味に云った。

目的地なんて決めてもいないのに、けれどどこか確信を持ったかのように、私たちは走り出す。



道中、色々な色を見た。

道路のコンクリートは私が見ていた灰色と同じ。木々の葉っぱ、あれは緑色だったらしい。水色という色が存在する以上、水は水色だと思っていたが違ったらしい。目を丸くして透明色の水を見る私を見てソラは笑いを堪えていた。

ソラは、初めて色を知る私の反応に笑いつつも、色について丁寧に説明してくれた。

近所のお姉さんに会ったときには、「仲良いなあ」なんて云われてしまった。恥ずかしそうにはにかむソラはやっぱりいつもと違ったように見えた。


気付けば、空はそら色とは違う色に染まっていた。夕焼けとはこれのことを言うのだろう。


「空ってこんなに素敵やったんやなあ」

「せやな」

「私が思ってる何倍も」


言おうとして、やめた。ソラの顔が夕焼けみたく真っ赤に染まっていたからだ。


「何やねん」

「別に」

「照れんなや」


ソラって、そんな風に顔を赤くするんだ。

顔を隠そうとしたソラの手を咄嗟に掴んだ。


「そろそろ帰ろ」


ソラは、私の方を見ずに無言で頷いた。




『世界の色は、僕らが思っている何倍もうんと綺麗で美しくて、素敵や』__


旅を終え、家に帰った私はどうやら床で眠っていたらしい。かけていたはずの眼鏡はいつの間にかケースにしまってあった。色とりどりな世界からの解放は、思っていたより私を安心させた。

「生物は急な変化に弱い」と謳ったのは父だった。「僕たちが見る世界とみんなが見る世界は違う」と謳ったのも父だった。

みんなが見る世界を目の当たりにした私は、その言葉を今更理解した。

卑屈な私が見るには世界は綺麗すぎる。嫌悪を強く感じるくらい、素敵で、美しい。父もそう感じたのだろうかと思うと私は何故か泣き出しそうだった。

父を描いて、色を塗るそのときまでどうか、綺麗な世界のままでいてほしい。


透明色の風鈴が風に揺れる音がした。


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