罹患者僕の覚めるまで
「初めまして。大宮皐月と申します」
透かし彫りの入った座卓を挟んで向かい側、真夏だというのにカーディガンを羽織った彼女は、静かに言ってお辞儀した。合わせて、耳にかけられた短い髪が一束、さらりと流れ落ちた。
「初めまして。鴨井湊真です」
丁寧にお辞儀を返す。隣に座っている両親の視線を感じた。
母さんがにこやかに話しだす。
「久しぶりじゃない、希恵子」
「ええ、前に会ったのは去年の秋だったかしら」
向かい側、彼女の隣には、その母──大宮コーポレーション専務取締役、大宮希恵子さんが座っている。家具や雑貨を中心に日本全国に支社を持つ大手企業。僕の父さんが経営する会社より遥かに昔から有名である。
そんな偉い人とその令嬢がなぜ定期的にうちなんかと会食するのかと言えば、母さんと希恵子さんが中学校以来の親友だからだ。
ならば二人だけで会って話せばいいじゃないか……と思ったりはする。母の考えは息子には理解できないことが多い。
ちなみに二人とも名の知れた中高一貫お嬢様学校を卒業している。ひょっとしたら皐月さんもそうかもしれない。三人の何気ない所作には流れるような上品さがにじみ出ていた。父さんも経営者なだけあって、こういう場には慣れているのだろう、落ち着いた様子だ。
僕だけが場違いに思える。失礼はないか、これで合っているのかとびくびくしている。僕はこういう場が得意ではないのだ。父さんも、それはわかっている。なのに、昨日「明日大宮さんと食事するから来るように」とLINEがきた。
「実は陽真、外せない仕事が入っちゃって、あ、湊真って皐月さんに会ったことないんじゃない? と思って連れて来たのよ」
やはり母さんの提案か。
陽真というのは僕の兄だ。一言でいうとすげぇ奴。二十四才で父さんを手伝い、海外企業との商談から他社との共同事業の総括までこなす。経営者になるために生まれたような男。
「そうだったの。多忙なのねぇ。湊真さんは、大学生かしら?」
「はい、三年です」
はきはきした発音を心がける。話を振られれば答える、あとは気配を消す戦法でいこうと思っていた。メインで話すのは母さんと希恵子さんで、父さんと皐月さんもあまり口を開かない。なおさら、「二人だけで飯でもなんでもすりゃいいのに」という思いが募る。
それにしても、会社の重役には相手を委縮させるような目や、どうにも胡散臭い目をしている人が多い。けれど希恵子さんは柔らかな目をしていて、目を見て話すのが苦ではなかった。
「三年生? じゃあ皐月と同い年だわ」
そうなのか。もっと若く、いや幼く見えた。
「こいつは美大で、油絵を描いているんですよ」
父さんが余計なことを口に出す。
皐月さんが小さく声を上げた。
「あ、鴨井湊真さんって、世界油絵コンクールの……」
「昔の話です」
慌てて遮った。なぜ知っている。
「そういえば、ええ、入賞したことがあったかしら」
まるでふと思い出したように母さんが言う。
「深い青色の海の絵でしたよね。ネットで見かけて、綺麗だなって思っていました」
皐月さんが僕の目を真っ直ぐ見て言う。
「ありがとうございます」
つい目をそらしてしまった。いつもの、目線から逃げようとする癖だ。やってしまった。横から、父さんの圧を感じる。こうなるってわかってたくせに。
「よくご存じですね」
挽回するように言葉を続けた。もちろん視線は戻す。
「その、今、実は少し絵画……油絵について、調べているんです」
「まぁ、皐月さんも絵を描かれるの?」
「そうなの、皐月?」
「いえ、描きはしないのですけれど」
男二人に流れる空気に気づかないふりをした母さんが、話を引き取る。そのまま女子トーク。
僕は父の方を向かないようにする。今あなたがしているだろう目、僕はその目が大嫌いなんです。
大嫌い……大嫌い……。
母さんが、そうだわ! と高い声をあげた。
「湊真、あなたのアトリエに皐月さんを招待したらどうかしら?」
「まあ、素敵」
は、と声が出そうになった。しばらく心を無にしていたようで、話の流れがつかめない。
何を言っているんだろうか母さんは。アトリエって、僕が絵を描くために借りているアパートの部屋のことだろうか。希恵子さんも勘違いをしている。全然「素敵」なんかじゃないのだ。あんなアトリエとは名ばかりの、狭くて汚い部屋……。とても大企業のお嬢様を呼べるほどのものではない。困りながら彼女の方を見ると、ちょうど目が合った。
「行ってみたいです。もし、よければ……」
まじか。どうすればいい。
思わず父の方を向いてしまう。
父は僕の方は一切見ず、にこやかに言った。
「皐月さん、油絵に興味が? 素晴らしいじゃないですか。なあ、湊真」
困った、ここに僕の味方はいないようだ。知ってたけど。
「頼むタッキー、お前しかいない」
右手でスマホを持っているので、左手だけで手を合わせた。電話相手には見えていないとわかっていてもやってしまう動作だ。
「別にいいけど」
「ありがとうまじ助かる」
「ジャンボたこやき十個入り」
「……うぃす」
「この忙しい時にそんな頼み事を受けるんだからな、割安な方だろ。だいたいお前は夏の作品終わってるのか? 女の子と遊んでる場合か?」
「終わっ……てないですやばいです何も思い浮かびませんインスピレーション枯渇してます助けて」
「知らねぇよ。まあ掃除は好きだからな、手伝ってやる」
「感謝~」
一週間後、僕が絵を描くために借りているアパートに女の子が来ることになってしまった。何をすればいいかなんてわかりきっている。
掃除だ。
しかし僕はあまり掃除が得意ではない。そこで、同じ油絵専攻で綺麗好きの友達、滝場に電話して、手伝いを頼んだ。
「んじゃ木曜日に」
「おうよー」
快く……というべきかどうかはさておき、彼は夏休み中にもかかわらず家に来てくれることになった。アパートは駅から少し遠いと告げると、親の車借りるわ、と軽く言う。そういえば最近免許を取ったんだっけ。アパートの場所と名前を教えて、スマホを置いた。これでとりあえず、なんとかなるだろうか。
木曜日、午前十時。皐月さんが来るまであと三日になった。僕が一人暮らししているマンションから徒歩一分のアパートの一室。その玄関に、僕と滝場はいた。
「おい。湊真。これ……」
「ああそうだよなやっぱ汚いよな。一日で掃除終わるか? 明日も来る?」
「お前……そうなんじゃないかと思ってたけど、結構お坊ちゃんだよな?」
「は?」
皐月さん関係だろうか? 滝場には女の子が来るとしか説明していないが。
「絵を描くためだけに普通の美大生は1LDKなんて借りねぇんだわ」
だって家とは別にしたかったのだ。誰にも邪魔されない空間がほしかったのだ。
ここに人を呼ぶのは、今日が初めてだった。
「キッチンなんて使ったこともねぇけどな」
小さめの冷蔵庫と最低限の食器、カップ麺だけを置いている。ダイニングには机すらない。たくさんのキャンバスとイーゼル、バケツに入った筆、絵の具が染みついたパレット。それらが床に山を作っている。
通り道こそあるものの、どう見たって人を招待なんかできる状態ではない。
「棚とか使えよ……お前家はまあまあ綺麗だったろ」
滝場が顔をしかめながらリビングへ繋がるドアを開ける。八畳の狭いリビングは、ダイニングとは対象的に、中央に布のかかったイーゼルが一つ。その前にスツールが一つ。サイドテーブルの上に、絵の具が出されて固まったパレットと絵筆、ペインティングナイフ、筆洗い、汚れた布と新聞紙。床に直置きされたものはない。
開きっぱなしの備え付けクローゼットから、絵の具や画溶液やブラシクリーナーのボトルがのぞいている。カーテンをつけてない窓から差し込む弱々しい光に、埃の粒子が舞っている。
「……すげぇな」
滝場の感想がそれだった。「汚ねぇな」以外の意味も含んでいそうな言い方だった。
「こっちは?」
隣の部屋へ繋がるドアを開けようとする。
「あーその部屋はいいよ。綺麗にしてるから」
食い下がるかと思ったが、滝場は「あっそう?」とあっさりドアノブから手を離した。
「じゃあ始めるぞ」
「うす、師匠」
僕の家から掃除機とブラシを持ってきて、リビングから片付ける。僕がリビングにある書きかけのキャンバスを片そうとするのを、
「アトリエ感出しといた方がいいだろ?」
と滝場が止めるので、汚い布と新聞紙を捨てるだけにした。
画材をリビングに移し、ダイニングとキッチンを掃除する。滝場が持ってきていたガラスクリーナーで窓も拭いた。掃除って重労働だ。なんで滝場はいきいきとしてるんだろう……。
昼になったので二人でカップ麺を食べて、後半戦に入った。玄関を掃いて廊下を拭いて、エアコンを掃除してトイレも洗面所も綺麗にして、「ここまできたから!」と言ってなぜか風呂場まで掃除しようとする滝場を止めて……。
全てが終わったときには日が沈みかけていた。
「すんげぇ楽しかったな!」
「すんげぇ疲れた……」
でも確かに綺麗になった。床を拭くだけでこんなにも雰囲気って変わるのか。キャンバスはリビングの壁際に綺麗に積んだ。収納する場所がなかったのだ。
お礼を兼ねて滝場を夕食に誘ったが、まだ夜に運転するのは不安だから早く帰りたい、と言われた。
「んじゃあな、たこ焼きな」
「まじでありがとう。気をつけてな」
「おうよー」
滝場の車を見送って、僕も家へ帰った。
滝場は気づいただろうか。いや、大丈夫だろう。
約束の日。意外にも彼女は駅から出て来た。そりゃお嬢様だって公共交通機関も使うだろう。
前よりもラフな格好だ。グレイラベンダーのワンピースの上から、やはり長袖の白いカーディガンを羽織っていた。
「こんにちは。本日はお招き頂きありがとうございます」
「こんにちは」
親の目がない分話しやすい。こうして駅の雑踏の中で話せば、相手だって普通の人だ。
アパートまでタクシーで向かう。歩けない距離ではないので普段は歩くのだが、今日は猛暑だし、特別だ。タクシーの運転手は珍しく無口な人だった。
降りると同時に、むわっと体に纏わりつく空気。暑いだけならまだしも、湿気がひどくて敵わない。
ゆっくりと彼女も車を降りる。両足を地面につける動作が驚くほど綺麗で見とれてしまった。
「本当に、狭くて汚いんですけれど……」
予防線を張りつつアパートの外階段を上る。鍵をドアに差し込めば、なんだかいつもより情けない気がする開錠音。
ひやり、迎えるのは澄んだ冷気。冷房をかなり強めに効かせていた。
「お邪魔します。……わぁ」
心からの感嘆の声だと思った。何が響いたのかよくわからないが、嬉しい。しばらくして彼女ははっとした様に言った。
「すみません、じろじろ見てしまって。これ、つまらないものですがよければ」
差し出された紙袋には、ケーキの箱が入っていた。しかも有名店のシールが貼ってある。
「えっありがとうございます、すみません気を使わって頂いて」
あ、やらかしたかもしれない。手土産を持ってきてくれた相手に謝るのは逆に失礼ではないか。心の中で焦りながら受け取った紙袋を冷蔵庫へしまう。三時くらいになったら食べよう。……昨日紅茶は買ってきておいたけどそれでいいのだろうか。コーヒーも用意しておくべきだったか。と急に湧き上がる不安。
「あの、楽にしましょうよ、お互い。親がいなければただの大学生だから」
感情が全て出ていたらしい僕の顔を見た彼女は、くつくつと笑った。図星をつかれてえっ、とかあっ、とかそんな声しか出ない。
「ね、敬語やめよう?」
あの目が、少し細められたままこちらを見ている。笑われている、とか僕も笑わなきゃ、とは思わなかった。
会話の上手い人だなと思った。
リビングで、絵やら画材やらについて説明する。彼女はドラマでよく見る新米刑事のように熱心に質問してきた。クローゼットも開け、道具を見せる。整理整頓しておいてよかった。
「ペインティングナイフ、持ってみてもいい?」
はい、と言って渡す。彼女はそっと受け取った。フランス人形みたいな白い手と、年季の入ったそれは不釣り合いに見えた。彼女はしばらく眺めていたが、ふいにそのエッジを逆の手の甲に押し当てた。
「ちょっ……」
慌てて腕を掴み取り上げる。
「あっごめんなさい。……切れたりはしないのね」
「ナイフっていっても切るものじゃないから。でも手入れしてないと刃が鋭くなって、肌なんて余裕で切れるよ……危ない」
彼女はもう一度小さくごめんなさいと言った。
「……油絵に、興味があるの?」
食事会のときに「絵は描かない」と言っていたが、じゃあどうしてこんなに意欲的なのかわからなかった。
「あ、油絵に興味……っていうか、えぇと」
初めて彼女が口ごもった。照れているような表情。
「ねぇ、お腹減ってない?」
「えっ」
だから僕は提案する。
「持ってきてくれたお菓子食べようよ、そんで話そう」
キャンバスをどけ、サイドテーブルを片付ける。しまった、座るものがスツール一つしかない。ちょっと待っててと彼女に言い、隣の部屋から低めの椅子を持ってくる。
「どっちも背もたれなくて座りにくいけど……あ、ねえ、紅茶飲める?」
「全然! むしろ好き」
安心して冷蔵庫からペットボトルを取り出しカップに注ぐ。ケーキ……桃のタルトとチョコレートの、なんだ、ザッハっていうんだっけ、そんなやつも皿にのせる。
「ありがとう、鴨井くん、どっち食べる?」
「先選んでいいの?」
「私が食べたいと思ったのを買ったから」
ちょっと考えて、チョコレートの方をとる。僕がそれを食べたかった、というより、彼女に桃のタルトが似合うと思ったからだ。
「いただきます」
フォークを押し付ければ、それはふわりと沈む。口の中に広がる濃厚なカカオと仄かなリキュールの香り。美味しい、というより、美味って感じ。
「……紅茶、もっとちゃんとしたのを用意すればよかったな」
「全然。ちゃんと美味しいんだから」
当たり障りのないことを言い合った後、彼女は唐突に話始めた。
「実は私、大学で映画サークルに入ってるんだけど、今撮ってるものの主人公が画家で」
「ああ……それで」
映画。お茶でも点てていそうな彼女のイメージからは思いつかなかったが、なぜか意外には思わなかった。むしろ似合うと思った。
「そう、それで色々聞かせてもらったの。やっぱネットより実物見た方がいいね。うん」
「大宮さんは、役者なの? それとも監督さんとか?」
「うーん演出、って感じかな。うち極小サークルだから皆役者と兼ねてるんだよね」
「へえ、すご」
「すごいのはそっちでしょ、あの絵……さっき見たあの空の絵、好きだわ、なんか、吸い込まれそうで。淡いのに深いっていうか、なんて言うんだろう」
積みまくったキャンバスの一番上、去年描いたやつを彼女は見やる。
「そう……ありがとう」
「軽い」
瞬間、彼女の声が鋭くなる。それは、ふくれっ面だろうか。
「え?」
「自分の絵なんか、って感じがした、今の言い方。私は本当に鴨井さんの描く空が好きなんだよ、ネットで調べてるときに見た絵も空だったし。だからあの絵の作者と会えて、アトリエに招待してもらって本当に嬉しかった。食事会なんてつまらなかったけど、本堂に行ってよかったって思ったの。……えっと、いや、映画作りの情報集めにちょっと、利用できるなってゲスいことも考えたけど」
熱を帯びた彼女の言葉は段々とボリュームダウンする。
「そ……っか。うん、嬉しい。僕ので良かったら、全然利用して。そんでいい映画作ってよ。……どんな話なの?」
映画について話す彼女は、なんだかとても「生きている」感じがする。映画が好きでたまらないという表情だった。仲間だと思えた。
静画と動画。違いはあれど創作者。作品に向き合う態度は変わらない。頭に天才的としかいえないような構造が浮かんできて、それを実現化したときのあの高揚感を、ぱたりと先が思いつかなくなって進退を繰り返し、時間だけが過ぎていくあの焦りと孤独を、あまりに上手い他の人の作品を見た時の純粋な尊敬と妬みが混じった劣等感の苦しさを、出来上がった瞬間の解放感と微かな寂しさを、彼女もまた知っている。
それでも創り続ける僕らはきっと、同じ病に罹っている。
だから、油断したのだろう。
小休憩の後、彼女はドアを指さした。
「隣の部屋は、生活スペース?」
「あ、ううん、あっちはなんていうか、趣味、的な。見る? ……驚くと思うけど」
趣味、なんてレベルじゃない。僕の宝物たちの部屋だ。
このときの僕は、拾って来た石を母親に見せびらかす幼児と何ら変わりはなかった。誰も、滝場すらも入れたことのない部屋に彼女を入れたいと思った。彼女なら、大丈夫だと思った。
いいの? という彼女の目は、躊躇いよりも好奇心の色が強い。
どうぞ、と言って彼女を招き入れる。一歩入った彼女は、声を上げた。目は壁際、たくさんの水槽にくぎ付けになっている。何段にも積み重なって、青い照明に照らされて、まるで水の中。部屋自体がアクアリウムだった。
「これ、全部」
「そ、金魚」
何年も前から少しずつ買い集めて、育てて来た彼らだった。飼い始めた理由はもう覚えてない。ただ、疲れた時に、この部屋の真ん中に寝転ぶのが好きだった。綺麗なものに沈むような感覚が好きだった。僕の秘密基地で、聖域とも言える場所だった。
彼女はそっと近づいて彼らを見る。来訪者に彼らは驚き、姿を捉えられまいと逃げる。何も知らない顔で、ガラス越しに無垢を晒す。赤、朱、白、黒、金が混じって、離れる。あぶくが漏れる。
彼女も深く息を吐いた。それがあぶくになってこの青い部屋を登っていくのを、僕は妄想した。
「あれ、これ……この子、怪我してる?」
頭の上にふさふさとした飾りのついた、花房金という種類だった。
「ああ、これは元からこういう種類だよ」
僕はさらに目線を右上に誘導した。彼女は驚く。
目の下に風船を抱えた水泡眼。隅の方で大人しくひれを動かしている。目が寄って上を向いている頂点眼も同居している。
「面白い」
「でしょ」
僕は嬉しくなった。彼女は順々に水槽を見ていく。それは飯田丹頂で……といちいち説明したくなるのをぐっと堪え、聞かれたことにだけ答える。金魚も、美術品も、静かな自分だけの世界で鑑賞するのが一番だ。ゆっくり移動する彼女の一歩後ろを、さながら従者のように着いていく。
やがて彼女は、部屋の奥まで来た。
「青い……」
一番大きな水槽に、一番大きな金魚が入っていた。透き通った尾が悠々と水に靡く艶やかな和金、親しみのある形なのに、部屋のどれもが持ち得えない美しさ、いや、高潔さを持っていた。
その理由は彼の色にある。
青。青い、金魚。青文魚のくすんだ鉄のような色ではない、いやそれはそれで良さがあるのだが、これは違う。
染め上げられたような、サファイアブルー。思わず手を伸ばしてしまいそうな鮮やかさと、それを静かに拒絶するような危なげな儚さが混在している。それゆえ鑑賞者は、ただ立ちすくんで見入るしかない。どうにもできない美しさ。僕の最高傑作。それを人に初めて見せた。そんな無意識の歓喜と興奮で、この時の僕は舞い上がっていて、だから、彼女の顔がふと曇ったのに気づかなかった。
「これは、ライトなの?」
「そう、青く見せてる」
僕は照明を切って種明かしをする。
三方から当たっていた光がなくなって、金魚から色が抜け落ちた。
彼は元は、真っ白の体を持っていた。
「白くても綺麗じゃない? どうして?」
「うーん……」
言い淀んだのは、理由を言葉にするのが難しかったからだ。
「真っ青な金魚って、いないじゃん。だから作ろうと思って。別にショッキングピンクでもエメラルドグリーンでもよかったけど、やっぱ青が一番綺麗じゃん」
「ああ、鴨井さんの絵、青いのが多いよね」
「うん、青は好き。海も空も青いけど、触れられないじゃん、水は掬えば透明だし。でも見ればそこに青があるっていうか、そんな距離感が好き。日本語下手だな僕」
なんだか恥ずかしくなって僕は、再び水槽のライトをつける。白い金魚は姿を消して、唯一無二の青い金魚が現れる。彼はぱしゃっと身を翻して水草の後ろへ隠れた。
「初めてネットで見たあの海の絵も、青かったね。何重にも青かった。ここには見当たらなかったけど、どこかに飾ってるの? コンクール入賞してたもんね」
「ああ、あれか。あの絵は……どこ行ったんだろうね、昔のだからわからないな。見せられなくてごめん」
「あ、そっか、気にしないで。でもちょっと残念だな。あんなに素敵な絵なのに」
「ありがとう。でも僕はあの絵、あんま好きじゃないんだ。小学生のときに近所の教室に通わせてもらって、好きで書いてたら知らない内に受賞しててさ。多分ほんとに偶然だったんだ。なのに、それで父さんがお前は絵が描ける、絵を描けって、近所の教室を辞めてハイレベルな画塾に入ることになって。それでスキルも身についたし、今もまぁ美大でなんとかやっていけてるんだけど、なんていうか、父さんがほしいのは名声……に通じる結果なんだ。コストに見合ったリターン。だからあれ以来結果を出せてない僕に、父さんは多分呆れてる。有象無象に溺れてる僕に。最初は期待に応えなきゃって思ってたけどもう入賞なんて目指してない、絵で食べていけるとも思ってない。ちゃんと仕事探して、働かなきゃいけないけど、絵しかやってこなかったから他に何が出来るのかわからない。……たまに思うんだ、あの絵が入賞してなかったら、今もっと楽だったかなって」
「そうなんだ。……うん、賞目当てで作品作り出したら終わりだもんね、普通は。それでもなんとかなる才能を持ってる人なんてほんと一握りだよ」
「そう、美術は利益じゃない。でも僕は、苦労して描いて、出来上がって、誰も評価してくれなかったら嫌になる。二度と描くかよって思う、まあ描くんだけど。矛盾だ。創作病だよ」
死ぬほど面白くない僕の独白が、静かな部屋に積もっていく。
「ああ、それで」
ふと彼女は言った。
「それで青い金魚なんだ」
どきっとした。彼女の聡さに怯える自分がいた。
「代わりなんだね。自分の」
素晴らしい作品を、脚光を浴びるような作品を作れないから。一番にならないから、特別にならないから、目立たないから。自分に出来なかったこと全部を小さな魚に押しつけて、偽物の青い金魚を作って、狭い砦で満足してる。
汚い気持ちに自分でも気づきたくなくて、絵の具を塗り重ねて隠した。その塗装が今剥がれる。突然光を浴びて眠っていた自分が悲鳴を上げる。
真っ黒な目を見開いた、叫び。
初めて人に触れられて、僕の根底に流れる感情が巻き上がる。
嫌い。自分が。自分のことが、大嫌い。
油断した。怪物の目が覚めてしまう。
「あの、ごめん、大丈夫? ごめん、気に障った?」
「ああううん、全然、大丈夫。そう、そうかもしれない」
背中に原因不明の冷や汗をかいて、目を細め口角を上げる。彼女は少し不安そうな顔をしていた。
どこか遠くから、五時を告げるチャイム。きっと空はまだ明るいが、これからだんだん色を落としていくだろう。
「そろそろ帰らないとだめかも」
「ああ、そうだね、駅まで送るよ」
金魚の部屋から出る。窓の外は曇り始めていた。
「雨が降るね」
「本当だ」
荷物を持った彼女は丁寧に礼を述べる。
「呼んでくれて本当にありがとう。さっき、変なこと言ってごめんね」
「いや全然! 全然気にしないで、映画、頑張って」
「うん、試写会呼ぶね」
駅までの道中で何を話したかまで覚えてない。せっかく楽しんでもらえたのに、最後が駄目じゃ全ての印象が悪くなる。とか訳もなく打算的なことを考えるのは、自分にも父の血が流れているからか。
アトリエのドアを乱暴に閉める。心がうるさかった。
代わりなんだね、自分の。
青い金魚を作って満足?
くだらない理由。
エゴ。
可哀想な金魚。
彼女の言葉が妄想で膨らんでいく。脳内が飽和する。気持ち悪い、吐き出したい。僕はよたよたと風呂場へ向かった。
一度も使ったことのないシャワーは、もはや存在主張を諦めて息を潜めている。浴槽に一つ、大きなキャンバスが置かれていた。それを抱えて戻る。部屋に戻って、イーゼルにかけて、近くのスツールは邪魔だと蹴飛ばした。クローゼットから一番ぼろぼろなパレットを出して、適当に絵の具を乗せる。一番ぼろぼろなペインティングナイフを手に取って、キャンバスと向かい合った。
何度も何度も絵の具を塗り重ねて、表面が酷いことになっている。到底人に見せられるものじゃない。赤と青と黄色と色んな色が混ざって、黒い靄のようになっている。そこに浮かぶ一つの大きな目が、こちらを見ていた。僕の大嫌いな目が。
僕はそれを隠すように、絵の具を塗りたくり始めた。ただの作業。逃避。不服そうなナイフをめちゃくちゃに駆使して、なんともいえない感情をキャンバスにぶつける。言葉にならない感情ならば、言葉にしなければいい。知りたくないなら知らなければいい。剥がれた塗装を修復する。何千回も繰り返してきた作業。
キャンバスから目が消えてより濃い黒靄になったとき、詰めていた息が漏れ出た。力が抜けて、手からナイフが滑り落ちる。
怪物は地の底へ帰った。ぼんやりとそう感じる。また出てくる前に、目を描いておかないと。次に出てくるのはいつだろう。いつか僕は、あの怪物に喰われてしまうのだろうか。
おどろおどろしいキャンバスを見やる。いつもはせいせいするのに、今日は少し罪悪感を感じた。
彼女はどう思うだろう、自分が好きだと言った絵が感情のはけ口にされ、汚く上塗りされていく様子を見たならば。
頭痛がする。気持ち悪い。まるで脳が揺れているような。立っていられない。どくんどくんと脈打つ痛みに呻きながら床を這い、リモコンを掴んで冷房を切る。いつもこうだ。肺も心臓も言うことを聞かない。なぜか泪が流れた。目を閉じる。息を吸う。 吐く。 吸う。絵の具の匂い。
雨の音で目が覚めたとき、窓の外はすっかり暗くなっていた。
一週間と少し、経っただろうか。
僕は皐月さんと、近くの夏祭りに来ていた。誘ったのは僕だ。前回別れ際に調子が悪くなったのを、彼女は心配していた。
「いやほんと、まじで気にしないで」
「そう?」
片手にラムネを持つ彼女は、Tシャツにジーンズ、丈の長いカーディガンという前よりもさらにラフな格好をしていた。聞けば、今日は朝から映画を撮っていたらしい。
「誘って大丈夫だった?」
「もう全然。どうせ皆祭には行きたがってて、お昼までには撮影終わらせる予定だったし」
順調に進んでいるらしい。僕も、そろそろ夏の作品を進めなければならない。
まだ夕方でもないのに、すでに人はそこそこ多くて、屋台の連なりを抜け、土手沿いを歩く。母親に呼ばれたらしい、浴衣を着た小さな子供が走って行くのに合わせて後ろで結ばれた兵児帯がぽんぽんとはねる。草履には慣れないだろうに。危なっかしくてつい見てしまう。
「それ、暑くない?」
「ううん全然、日除けみたいなものよ」
彼女の動きに合わせて、カーディガンの透けるような黒い布地が、風にひらひらと靡く。なんだか金魚みたいだ。
ふと立ち止まる。
「どうしたの?」
彼女が首を傾げる。あのときの聡い彼女はどこに行ったのだろうと思うくらい、今の彼女は無垢な顔をしていた。
いや、彼女はずっと無垢だった。
「あのときさ、金魚が僕の代わりって言ったの、ほんとに図星だったんだ」
「うん」
「ずっと金魚に自分を投影して逃げてた、けど」
「うん」
「辞めようと思う」
そっか、と彼女は微笑んだ。それは、言葉で説明するのを放棄してしまうくらい、とても綺麗だった。
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