背中

朱明

背中

「なあ弘樹、俺もついていっていいか?」

 40を過ぎもう立派な中年である事実を受け入れつつあった頃。何か新しいことを始めるでもなく、息子の弘樹と二人ただ日々を浪費していた。妻の弥生を癌で亡くしてから10年、一人で弘樹を育ててきた。そして今年、弘樹は高校生になった。高校に入ってからは何故か弘樹に話しかけることがだんだんと難しくなっていった。中学生の頃は自分で言うのもおかしいのかもしれないが、中々うまく父親としてやっていたつもりだった。別に、弘樹が俺のことを嫌っているわけでもないだろうとは思う。しかし、年頃なのだろうか、いつのまにか弘樹とふとした会話に詰まるようになってしまっていた。そういうわけでも、弘樹と二人でランニングに行こうというのは無謀だったのかもしれない。

 十一月になって秋風と言うには冷たすぎるような日の朝、近所の河川敷を走っていた。今朝、弘樹が走りに行くと言うので、ついていかせてもらうことにした。

「父さん、まだ走れる? これからもう少し海の方まで走るけど」

「まだ行くのか? 俺も行きたいが、少しだけ休憩させてくれよ。ほら、なんか飲み物買ってやるから」

「仕方ないな……」

 少し色あせたベンチに座っている弘樹にポカリを手渡して、自分も隣に腰掛けた。買ってきた水を開けて一口飲んで弘樹に気がかりであったことを聞いた。

「本当に俺がついてきてもよかったのか?」

「いいよ、べつに。走るだけなんだし」

「でも、ほら、クラスメイトに見られたりだとか。そういうことは気にしないのか?」

「見られたところで父さんがちょっと怪しいおじさんに思われるだけだし」

「そういうものなのか……」

 なんなのだろうか、この子供とは思えない重圧と異様な雰囲気は。なんともいたたまれなくなって、俺は水を一息に飲み干してペットボトルを空にするとグシャッと潰した。ペットボトルの角が手のひらに刺さって、思わずペットボトルを掴む力を弱くした。


 また走り出した俺たちは川沿いに海へ向かった。さすがに四十五歳の体には堪えるものがあったが、なんとか父親のプライドのために離されないよう息を荒げながらついて行った。

 道がアスファルトから砂に変わり、足音が優しくなった。弘樹の背中を追いかける中、下に目を向けると、弘樹の足跡が見えた。

「弘樹、靴のサイズはどれぐらいだ?」

 息も絶え絶えにきいた。

「26だけど」

 なるほど。どうりで足跡がこんなに大きいわけだ。生意気だな、とは思いつつ素直に息子の成長を喜ぶ自分がいた。これが父親なのだろうか。父親という概念は、あと数メートル先にありそうなのだが四十代の半ばを迎えてもいまだに掴めないでいる。

「父さん大丈夫?」

「あ、ああ……」

 四十代の減っていく体力のように道脇の木々が葉を落としている。その中に紛れるようで、はっきりとした貫禄を纏う弘樹の背中は随分と大人びて見えた。

 俺の前を一定のペースで上下するひとまわり大きな体は大人の男そのものだった。自分の息子に自分にはない人としての力強さが垣間見えるのはなんとも情けなく、誇らしいような不思議な気分であった。


「そろそろ引き返そうか」

 そう言った弘樹に俺は少し安堵した。また俺たちは家へと方向を変えて走り出した。


「なあ弘樹」

「なに?」

「お前は立派な大人になって、そして立派な父親になるよ」

「いきなりどうしたんだよ父さん」

「情けないかもしれないが俺には父親というものが何か、この年になってもわからないでいる」

 弘樹は黙って走っていた。俺は言葉を続ける。

「それでも、俺は弘樹にとって堂々と自慢できるような父親であろうと日々研鑽(けんさん)しているつもりなんだ。たとえ側から見てどんなに滑稽であってもな」

 弘樹の走るペースが少しだけ早くなった、かもしれない。

「変な言い方かもしれないが、俺はお前に惚れ込んでいるのかもしれない。ほんの少し細かく見ていないだけでお前は本当に成長している。こんな俺が父親であっていいのだろうかと思うほどに、立派になっている」

 自然と言うつもりがなかったことまで吐き出していた。そして、信号が赤になった。車が一斉に動き出した。弘樹が振り返った。何かを言いたげな顔だった。

 信号が青になってまた走る。弘樹は何も言わない。俺も黙っている。ただ、車と人々の喧騒だけが耳に入ってくる。


 家に着くと弘樹は口を開いた。

「俺は父さんを心から尊敬してるよ」

 突然の言葉に俺は面食らってしまった。弘樹が言葉を続ける。

「俺が記憶にもない頃に母さんが死んじゃって、父さんも辛いはずなのに『俺がこの子を守るんだ』って言ってくれたってことも叔母さんから聞いているし、今まで俺に不自由させないようにって自分の趣味も捨てて育ててくれていることも知ってるし、俺がなんとか何とか志望していた高校に受かった時、母さんの仏壇に泣きながら話しかけてたのも聞いてた」

 汗なのか涙なのかもわからない滴(しずく)が頬を伝った。

「父親がどうとか、大人だからどうとか俺にも全くわかんないよ。でも、俺にとって父さんが誇らしい人であることは事実だよ。それだけ」

 そう言って弘樹はシャワーを浴びに行った。

 俺は玄関にへなへなと座り込んでしまった。救われた、と思った。これが俺であり、父親であるのだろうと、少し、本当に少しだけ、わかったのかもしれない。

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背中 朱明 @Syumei_442

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