Late Show
武蔵恵
第1話
少し肌寒い風が、僕の顔を軽く撫でた。昼は暖かったはずの5月の風の変わり身は速い。
都会とも田舎とも言えない微妙なラインを、何かにつけては行われる工事のたびに行ったり来たりするこの町の夜はほのかに明るい。この通りを歩くこと自体はもう幾度となくしているが、夜の帳が落ちたこの時間を歩いたのは果たして何度あっただろうか。まるで異世界のようにさえ思える夜のこの道。ライトを輝かせながら走る車、そんな些細なものが、少し珍しく、美しく見える。
上着を片付けるのは少し早かっただろうか?いや、こんな夜を出歩くのはそうないことだから問題はない。それにしても、夜がこんなに寒いとは知らなかった。これも新たな含蓄、僕の脳内から膨らむ世界を彩ってくれる。
路地を曲がっていくたびに、眼前は狭まり、明度が落ちていく。暗闇に落ちていくような感覚なのに、この楽しさは、この明るさはなんだろうか。そんなことを感じていると、いつの間にか目的地にたどり着いていた。「THEATER」ただそれだけが薄暗く光っている看板。
さんざん通い詰めたこのミニシアターも、この時間に見ると違う空気をまとって見える。いつもの扉も、いつも以上に重々しく、開かずの扉のような雰囲気を醸し出している。少しの緊張を右手にかけ、ゆっくりと扉を開けた。
「……お、来たな」
にやり、と髭面が笑った。戸を開けて右のカウンター。口中に髭を蓄え、眼鏡をかけた老人。右手の指に挟んだ葉巻からは細い煙が立ち上っている。相変わらず電灯の光度不足で薄暗いロビーには、紫煙の匂いが漂う。
「ロビーですよ、ここ」少しだけ声に呆れが入った。この老人――シアターの館長がヘビースモーカーであることは知っていた。とはいえ、さすがに吸う場所はいつも考えていたはずなのだが。
「こんな夜にまでそんなこと考えたくねえよ。だいたいこんな時間にこんなとこ来る人間が、そんなこと気にするわけないだろ?」
「まあ、そりゃそうかもしれませんけど」
たしかに実際そうなのだ。なにせここは映画マニアの老人が趣味でやっている、ごく小規模な映画館。自分が教えるまで、ウェブマップにさえ乗っていないような秘境だった。当然ホームページなんてものはなく、いつどこで配っているのかもわからないチラシ――それも、手書きをコピーしたもの。そのぐらいしか、外界にその姿を晒していない。当然上映作品も、普通に生活していれば一生見ないであろうマニアックなものばかりだ。
――だいたい
「レイトショーに一人で来ている17歳にそんなこと言われたってな」
笑いながら、館長は立ち上がった。見下ろしていた相手の顔の位置が自分に近づいて――それでも、その身長は全く自分に及ばなかった。
185はある僕の身長に、老人は届くべくもない。僕が財布から1000円札を2枚取り出すと、館長はそれを手にして、代わりに付箋に手書きしただけのチケットを僕に渡した。ふと下あごを触ると、手にはざらりとした感覚が伝わる。
僕は――顔も体も、まるで大人のようになっている。
僕の成長は、どういうわけか異常だった。
昔から、同級生を見下ろしていた。年上のように見える、そう何度も言われた。中学になって、高校になって、その成長はさらに加速した。母の身長はあっさりと超えた。父といた時、弟だと間違われたこともあった。
今は2人とも長期出張で、家には僕しかいない。この半年、また背が伸びて、髭も増えた。僕を知らない人が、僕の実年齢を当てられることは100%ない。
それをいいことに、この映画館の常連だった僕は、館長に誘われて初めてレイトショーを見に来た。帰りは11時を回るだろう。当然、条例違反だ。でも、誰も気が付かない。
どうして僕がこんな体で生まれてきたのかなどわからない。別に、知りたいとも思わない。知ったところでどうしようもないし、別に僕はこれがコンプレックスであるわけでもない。むしろ、いいことだって多い、今日のように。
「もう上映時間だ。いつもは15分は前に来るのに、今日はギリギリだったな?」
「夜に来るのは初めてなんで。なんか感覚狂いましたね」
「ま、それはいいんだが。早く来ないと先客に席取られるぞ」
先客?と、思わず素っ頓狂な声が出た。
「僕くらいしか来てないものだと」
「そう思うだろうな。だがいるんだ1人、この時間帯にしか来ない客が。もうシアターの中だよ」
お前と同じくらいの常連だ、と館長は言った。こんな辺鄙な映画館に、しかもこの時間、レイトショーにしか来ない常連?不思議な客もいるものだ。
シアターの重いドアの前に立ち、ドアノブに手をかける。僕の細い腕で力を入れて引っ張り――引っかかった。それは鍵ではなく、僕の心が。
この先に誰か知らない人がいるからといって、それが大した問題ではない。人は多いより少ない方が好きだが、だからと言って別に席にこだわりがあるわけではない。しかし、なぜか僕は何か思考の――あるいは感情の?逡巡を――館長がなにも声をかけなかったあたり、実際は一秒程度の――巡らせていた。
ミシミシと唸るドアの質量でそれを押しのけて、見慣れたシアターに入った。当然窓などない館内は、結局昼間に来たのと変わらないような、でも何か独特の――
そして、僕は見た。シアターのど真ん中の席に、黒髪の頭があるのを。
ドアが開いた音に気が付かないはずはないが、その頭が後ろを向くことはなかった。背もたれの上から、僅かにちょこんと飛び出たその頭は、おそらく女性なのだろうが、その下がマネキンであってもおかしくないような――とにかく、少し異質な感じがした。
気にしないでおこう、そう思って、ある程度真ん中の、それでもその人とは少し離れた席に腰かけた。僕の視界が座高の高さになると、その頭はもう天辺のわずか一部しか見えなくて、ほとんど椅子と同化したように見える。なのに――気にしないはずなのに――どうしても、その頭の丸みが、視界に入って仕方がなかった。
座席の背もたれの高さから推定できるその人の身長が、妙に低いことに気が付いたのは、上映開始のブザーと共に照明が落とされた時だった。
シアターが暗闇になり、正面のスクリーンが光を放つ。視覚的情報が映画のみになるのと同時に、目の前にいるはずの人影は思考の隅に追いやられた。
今日の上映はモノクロの古いアメリカ映画。日本ではあまり聞きなれないタイトルだが、館長のお気に入りの一作らしい。
なるほどそれも頷ける、と僕は思う。モノクロでありながら、そこに美しい色彩を感じさせるロケーション、ショット、役者の名演の組み合わせ。豊かな新緑と花畑、その中に佇む人物の心、そういった色が、モノクロフィルムを媒質にして、想像の中に浮かび上がる。優しく、温かく、美しい映画。
初めてのレイトショーは、あっという間に終わってしまった。
いつもの映画と何か違っただろうか。考えると、結局窓のない密室のシアターでは、特段大きな差はなかったといえるかもしれない。でも、少しだけいい気分のような気がする。
スタッフロールが終わり、照明が付く。周囲の景色がフェードインするようにはっきりしていくのを見ながら、鞄を持って立ち上がろうとして――
黒髪の頭が、立ち上がるのを見た。
瞬間、僕の心臓の鼓動が、鼓膜までを揺らした――なぜ?約2時間前の逡巡が、また今、しかもその時とは比べ物にならないほどの何かの予感として膨らんだ。
黒い革製のバッグを肩にかけ立ち上がった、それはやはり女性だった。しかも、やはり異様に背が低い。その体を90度回して、通路側を向く。なぜただそれだけの動作に、この目は釘付けになるのか?レンズの絞りを開いていくように、だんだん周りの視界はぼやけて、その女性にフォーカスがロックされる。その体は、出入り口に向かおうと再び90度回転され――
僕の網膜は、その異様に幼い顔を捉えた。
丸く小さな白い肌。その上に添えられたようなパーツは、その一つ一つが小さく、幼さを見せている。それは童顔というものでもなく、むしろ本当に中学生くらいのような。薄い茶色と黄土色のチェック柄のスカート、黒い革のジャケットを羽織ったその姿は、まるでモノクロ映画から飛び出してきたかのように見える。
そして、その黒く大きな目が、僕を捉えた。
吸い込まれるようなその黒に――僕は色彩を見た。あの映画のよう。いや、それとは違う、そして比べ物にならないような、美しく、豊かで、深い色。言語化できない、初めてみたその色から、目が離せない。
初対面の人の顔をまじまじと見ているという自分の状況を客観視したのは、彼女が重いドアを押し開けた後だった。
マズいと思った時にはすでに遅く、その姿はシアターの外へ消えていた。気持ち悪い奴だと思われただろうと肩を落としながらドアを開けると、やはりその姿はもうなかった。
「よう、面白かったか?」そうにこやかに聞いてきた館長の口に挟まっているものは、いつの間にかパイプに変わっていた。
「ああ、ええ」ずいぶんと生返事をしてしまった。いったんは冷静になったはずだが、それでも僕の視界は、ピントを合わせる被写体を見失ったようにぼやけている。
「なんだ?」館長は怪訝そうにそう聞いてきた。
「ああ、いや。面白い映画でした。モノクロなのにすごく綺麗に見えて。幼い感じの女優の黒目が引き込まれる感じがあって――」
「幼い?あの女優がか?」
そういわれて、何を言っているのかとはっとした。映画の主演女優は幼さとは真逆の、大人びた顔つきで、大人な魅力を推すようなキャラクターだった。
「あ、あの……女性が一人いたんですけど。なんか、嫌に子供っぽいというか、中学生じゃないんですか?」
わずかに震えた声でそう聞いた。それは単純な疑問。そのはずだ。
「ああ、彼女はお前と違ってれっきとした大人だよ。確かに中学生にしか見えないから、ワシも昔は驚いたが。」
そうなんですか、とこれもまた生返事。そのままふらふらと歩きながらドアを開けて外に出た。
夜は深まっていた。映画館を出た後の感覚としては確かに新鮮だったが、しかしそれは大した問題ではなかった。
夜を照らすネオンも、尾を引く車のテールランプも、あの目の奥にあった万華鏡――という言葉さえ陳腐に思えるその色に及ぶべくもない。初めて踏み入れた11時の街の色、それが比較対象にすらならない色。
その日の僕は、まるで取り憑かれたかのようだった。
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