親愛なるクレールへ

アルバート・ウォッシュ

親愛なるクレールへ

 健一は和夫に駅を出たと連絡を入れる。和夫の住んでいるアパートメントは健一を泊める一部屋を余らせているほど広々としていたがとかく便が悪く、健一は駅から和夫の家まで長い道のりを歩くことを余儀なくされていた。健一はこれからしばらくの間和夫の家に居候させてもらうことになっている。もと居た家を同居人であり恋人である綾子に追い出されたのだ。甲斐性なしと罵られ、二度と顔を見せるなとまで吐き捨てられた。健一は和解を図ろうと最大限の誠意を見せるものの、結局取っ組み合いの喧嘩に陥ってしまってどうしようもない。綾子は健一を拒絶したのだ。

 息苦しい蒸し暑さと照り付けるような日差しも相まって、和夫の家に向かうのには相当の労力を要した。そして健一は道半ばにして疲れのあまりしばらく脚を止めて辺りを見渡し、そこにお誂え向きに喫茶店があることに気が付いたのだった。

 店内は空調が利いていて快適だった。健一は日差しの当たる席を避けてカウンター席に腰かけて、お冷やを受け取ると店内を見渡す。店内のインテリアはどれも年季が入っているように思われたがどれもよく手入れされている。そして健一は店の奥へと続く扉が、鎖で通行が止められているものの、ほんの少し開いていて、そこから店の奥を覗くことができることに気が付いた。そして興味本位で向こうを覗き見ていたところ、健一はふと店の奥にいる誰かと目があったような気がしたのだ。その瞳は透き通った海のような青色であり、また前髪は煌々と照る月のごとき金色で、西洋人らしい端整な顔立ちだった。

「すみません、あそこに誰か居るんですか」

 一人の客として店の裏方についてあれこれ詮索するのは好ましくないのではないかと思いつつも、健一はあの紺碧の眼をした少女に対する興味を押さえきれずに店主に尋ねた。しかしその回答は健一を満足させるようなものではなかった。

「あぁ、あれですか。よくお客さんを怖がらせてるんで困ったもんですね」

「誰なのかお聞きしても?」

 普段は駑怯を極める健一であったが、今回ばかりは退かなかった。必ず彼女が何者なのかを突き止めないと気が済まないような気がした。

「あれは舶来のからくり人形なんですよ。誰が買ってきたのかは知らないのですが」

 店主はそういうと店の奥から椅子と書き物机と一体となった少女を抱き抱えてきた。少女は確かに、生きた人間としては小さすぎるものの、そう間違えても無理もない程度の大きさだった。

「背中の発条を巻きますとね、手紙を書くんです。手帳を一枚破いて頂けたらそこに書かせてみせますが」

 健一が喜んで手帳の一片を差し出すと、店主は彼女の手元にそれを置き、クリップで挟んで、それから背中の発条を巻いた。彼女は一呼吸を置いてから動き出す。彼女の筆の運びは極めて滑らかで優美の一言であり、また筆先を追って頭をゆっくりと回す所作も可愛らしく、さらには瞬きさえもが淑やかである。

「どうぞ」

 彼女が手紙を書き終わると店主は彼女の手紙を取り上げて健一に手渡した。筆記体で綴られていたがために健一は手紙を読むのに苦労したが、しばらくの間を経て、「Je t'aime.」と書かれているらしいと分かった。語学には堪能ではない健一であったが、これが愛を伝えようとする言葉だということは知っている。健一はその言葉を本気にしてしまって、彼女にすっかり魅了されてしまった。

「この子、名前はなんて?」

 店主は健一の問いを聞くと額に手をやって頭を掻いた。

「名前と申されましてもね……」

 店主はしばらく思案する。

「題はクレールとかだったと思いますが」

「クレールですか!」

 健一は喜びに満ちた声でそう叫ぶ。

「いやあ、あなたもこんな綺麗なお嬢さんを手元に置いておけるなんて幸運ですね。肌なんかもこんなにも柔らかそうで……」

 健一は自分が無意識のうちにクレールの頬に手を添えようとしていることに気が付いて急いで手を引いた。店主の許しなくクレールに手を触れることは躊躇われたし、それ以上に、歳不相応にうぶな感覚から、うら若い乙女の頬に手を添えることは一種の禁忌であるかのように感じられた。

「はあ」

 店主は店の場所を食っているだけの人形がなぜ斯くも褒めちぎられているのか図りかねて曖昧に返事をした。

 健一は飲み物を一つ頼んでそれを飲み終わるとそそくさと店を出て和夫の家へと急いだ。駅で連絡を入れてから時間が経ってしまっていて和夫も気に揉んでいるのではないかと思われた。道中文具店の前を通りかかり、それがあの手紙を書く少女を思い起こさせたのでそこで便箋と封筒を数枚ずつ買いはしたが、残りの道のりは休みなく向かった。

「どこで道草食ってやがったんだてめえ」

 和夫はアパートメントの正面玄関で待ちくたびれた様子で待っていて、健一の姿を認めるやいなやそう恨み言を言った。

「喫茶店で涼んでたんだよ」

「お前が涼んでる間にも俺はこんな暑い中ここで待ってたんだぞ!」

「悪かったよ」

 そう軽く謝ったあと、丁重に礼を述べると用意されていた部屋に向かった。健一は部屋のベッドに掛け布団の上から寝転がって、疲れを癒やしながら今朝の出来事を思い返していた。一人で漫ろに天井を眺めていると激しい寂寥感に駆られ、体が鉛のように重くなる。健一は無意識的に次第に何も考えないようにするようになり、手持ち無沙汰になった健一はふと、クレールに手紙を返すことを思い付いた。健一は文具店で買った便箋をベッドの横にあるサイドテーブルの上に置いて、ペンを取り出す。普段手紙など書かないものなので不必要に緊張してしまい、それを解すために深呼吸を何回かする。そして、部屋の扉のある方向から手元が隠れるように左手で衝立を作って、和夫が現れないことを祈りつつ筆を下ろした。

 欧風にまず日付を書き、それから「親愛なるクレールへ」と宛名を書く。そして健一は肝腎の本文に何を書こうかと考え倦ねて天井を見上げた。時候の挨拶を書くのは何だか日本的だし、まだ二人は共通の話題を持っているわけではない。結論として健一は自己紹介も兼ねて自分の身の上話をすることに決めた。生まれ、子供の頃、学生時代、綾子との出会いや今の生活などの卒業後の諸々。

 健一はその次の日、クレールに手紙を渡しに喫茶店を訪れた。

「店主、クレールは」

「またいらっしゃったんですか!」

 店主は驚き呆れた様子で大声をあげるも、快く承諾してクレールを店の裏から出した。健一がクレールに手渡すつもりで懐から便箋の入った封筒を取り出すと、クレールの書き物机のサイズと丁度符合するからか店主はそれを健一がクレールに書かせるように拵えたものだと思いなして、健一の手からそれを取り上げると彼女の手元に置き、クリップで留めてそして背中の発条を巻いた。彼女は昨日と同じように優雅に「Je t'aime.」と書き上げる。クレールは一度として手紙の封を開けはしなかったが、健一には自分の記した身の上話の数々を読んでクレールが自分に興味を持ってくれたかのように感じられた。健一はこれまでに増してのぼせ上がってしまい、和夫の家に戻るとすぐさまクレールへの次の手紙を書き始めた。冴えない自分を愛してくれたのは綾子しかいなかったということ、その綾子に数日前家を追い出されたということ、悪いと思っていながらもだからこそ余計に綾子に謝りに行く決心がつかないこと、そして今心細い思いをしているということ。いくらでも筆が進んだ。

「クレールですか?」

 次の日健一が新しい手紙を届けに喫茶店に向かうと、店主は健一が用件を伝えないうちにそう尋ねる。

「ええ」

 健一ははにかみながらそう答えて手紙を手渡した。店主は飽き飽きした様子で発条を巻く。クレールはこれまでと寸分違わず優雅な所作で「Je t'aime.」を書き上げる。クレールは健一を暖かく受け入れた。無論、一度として拒絶しなかったという点に於いてではあるが。健一は手紙を取り上げると目を閉じて胸に押し当てた。手紙には心なしかクレールの手の暖かみが残っているかのように感じられた。

 健一の心は大きく高鳴って、健一はクレールの肌をその手で感じずにはいられなかった。健一は周りを見渡して、自分の方を眺めている客もおらず、店主も店の裏に回っているらしいことを確認すると、恐る恐るクレールの頬に手を伸ばす。頬と手が近づいていくほどに心臓の鼓動が高まっていく。強い禁忌の感覚。武者震いで手先は震えだし、全身が凍りつくようにぞくぞくする。そして遂に健一の手がクレールの頬に添えられた。

 クレールの頬には生気と呼べるようなものはなにもなく、健一の手にはひんやりとした感触だけが伝わった。そして健一はその時、家を追い出されたときに手首を暴力的に握られたときの綾子の手の温もりを思い出さずにはいられなかったのだ。健一はこの血の気のない人形の頬に触れていることが薄気味悪くなってそっと手を引いた。

 次の日、健一は遂に綾子に謝りに行く決心を固め、荷物をまとめると和夫の家を発った。和夫の家から駅に向かう途中で件の喫茶店の前を横切ったとき、健一はどうも後ろ髪を引かれるような気がして入店した。

 店主は健一の姿を認めるやいなや大きく溜め息をついてから「いらっしゃいませ」とうわべだけ丁重に客を迎える。

「今日でここに来られるのも最後だと思うんで折角だからお邪魔しとこうかと」

 健一は店主の溜め息を慰めるかのようにそう答えた。店主は健一が何も言わずとも店の裏手に回ってクレールを抱えて持ってくる。健一は余った便箋を手渡して店主にクレールを動かさせた。

 クレールはまたもこれまでと寸分違わない所作で手紙を書き上げる。健一はこれまで通りその動作を良くできていると感じたが、もうそれに人間的な感情を抱くようなことはなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

親愛なるクレールへ アルバート・ウォッシュ @lievre_de_mars

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る