第8話 凍える瞳、目覚めよ乙女
「この人、ヘリヤさんの名前を笑ったんです。私の前で」
女剣士――エイルは静かにそう切り出した。自棄になって意味不明なことを喚き散らそうという雰囲気でもない。
「ばかっ、エイルちゃん! それはダメだって」
私の名前を笑う? それが何を意味するのかよくわからないんだけど、
「どういうこと?」
「……100万円渡したのも、ヘリヤさんで間違いないですよね。この人のご両親、その工場を助けるために」
エイルは淡々と持っているカードを切るように事実確認をする。この子、なんでお金のことまで知ってるの。なんだかすごく嫌な予感がしてきたわ。
「ヘ、ヘリヤ! この子の話なんか聞いちゃダメだ! ちょっと頭おかしくて、そのぉー、虚言癖があるっていうか――」
「あんたは黙ってろ!」
「……続けて」
恐る恐るその先を促す。もしかすると違う結末かもしれないし、だとしたら尋成のことを嫌い発言しているこの子は安牌で、浮気疑惑はただの杞憂ってことでめでたしめでたしかもしれない。
「この人のご両親、会社勤めです」
うぉいっ! うぉぉーいっ! やっぱりそうだよやんなっちゃう! 私、どうにか力にならなきゃって必死だったのに。そりゃ尋成の実家にアピールできるかもってほんのちょっぴり下心はあったけど……全財産下ろすの躊躇って半分くらい口座にお金は残してるけど……それでも100万円、尋成のために出したんだよ。
「少し不幸なフリをすれば財布から勝手に金が湧いてくる、この人は仲間内でそう言っていました」
う、うわーん! もうやめて。せめて、せめて気丈に振る舞いたいのに、これ以上聞くと涙が出ちゃう。
「ヘリヤって名前の財布なんだけど、と楽しそうに笑いながら」
ぐふふぅ……。
「そのとき、その名前の由来も話し出して」
……私自身、由来なんて知らないわよ……どうでもいいけど。
「ヘリヤさんのお父様は、官能小説家ですよね」
なぜそれを……。あ、尋成には酔っ払った勢いかなんかでしゃべったんだった……もう戻れない懐かしい過去。
「この人、面白がってお父様のブログをよく読んでたようで」
あいつ、ブログなんて書いてたのか。どうせろくでもないこと書いてんだろうな……まじでどうでもいいけど。
「そのブログ内で、ヘリヤさんの誕生日を祝っていて、お祝いの言葉と一緒に名前の由来も紹介されていたんです」
わたしの誕生日を祝う? とうに親子の縁なんて切ったのに、気持ち悪いことしないでほしいわ。
「なんでも、ボツったけどすごく思い入れのある作品の頭文字からとったとかで」
……え、え? ちょっと今なんて言った? 私の名前、官能小説のタイトルからとったって? 冗談にもほどが……。ってあのクズ親父だから……あながち冗談じゃないのかも……。
「確か……『ヘチマだけはやめて』の『ヘ』に」
タイム! ターイム! ちょっと待って! 聞きたくない! それは聞きたくない!
「『リケジョのはらわた』の『リ』」
や、やめて! やめなさいっ! なんなのあんた! 私になんか恨みでもあんの! これ以上私を傷つけないで!
「『やんごとなき殿方の殿方』の『ヤ』……だそうです」
……うぅ、あんまりよこんな仕打ち。私が何したって言うのよ。
私は次々と明かされるトラウマ級の残酷な事実を、さらにそれをファンタジー級の美女の口から聞かされるという超激辛なトッピングつきで喰らわされ、意識が忘却の彼方に消し飛ぶ寸前だった。この情けなさ、屈辱感たるや。
(あの子、オセの魔力にあてられたみたいだ。隠しごとができなくなってる)
というスラチンの囁きも、
「これは興味深い。これまで味わってきたものとは、また違う部類の狂気を感じるな」
というオセの弾む声も、脳みその上っ面をつるんと滑っていく。
「……あ、れ。私、なんでこんなこと……」
自分の話した内容に恐怖を感じたのか、女剣士は愕然と目を見開いて唇に手を当てた。だけど、もう遅い。どうやら恋人だと思っていた男は恋人ではなく、その恋人だと思っていたけど恋人ではなかった男にとっての私はただのお財布で、100万円という大金を騙し取られた挙句にボツった官能小説由来の名前を笑いのネタにされていたらしい。
つーか25年越しに知った名前の由来がボツった官能小説のタイトルだなんて……このまま知らずに生きていたかった。
……はい、復習おしまい。
現状確認を終えた私の望みは単純明快。尋成と父親へ、可及的速やかに死の裁きを。私は今所持している戦力を改めて確認した。右手には魔剣、左ち○びには魔物。魔法を放つ二次被害で自分もダメージを負うかもなんて関係ないわ、ここは魔剣一択ね。
「ち、違う、ヘリヤ聞いてくれ。全部この子の嘘なんだ」
追い詰められた表情であたふたする尋成を一瞥する。開き直って悪態ついたり逃げ出したりしないだけ、まぁあんたは偉いわ。だからって容赦はしないけど。
「
そう呪文を唱えるや否や、尋成の足元周辺に不安な地鳴りが響き出す。女剣士はとっさに尋成のそばから飛び退った。どさくさにまぎれて巻き込んじゃえとも思ったけど、うん、逃げてくれてよかった。彼女に罪があるかはまだわからない。
まるで大地が自分を踏んづけている不届き者を誅戮せんと拳を突き上げるように、いくつもの岩盤がせり上がって尋成の腹を、胸を、顔を、強かに殴っていく。大地からアッパーカットを連打され、尋成の体はボロ布のように宙を舞った。
(こ、股間にも直撃してたような……)
ドサリと落っこちてきてのびている尋成に、スラチンが憐れみの目を向けている。
「大丈夫、死んじゃいないから。多分」
衝動的に殺しそうになったけど、女剣士という目撃者もいるし、こんなやつのために殺人の罪を背負ってやる必要なんてミジンコほどもない。
(……で、でもあれじゃ男としては死んだんじゃ――)
「いいの」
ただでさえ青いボディを一層青くして震えるスラチンにぴしゃりと言い放つ。
「それとスラチン。わざわざ言って聞かせる必要はないと思うけど」
おそらくこの瞬間、私の眼差しは氷点下に達したんじゃないかと思う。ひと睨みしたスラチンの体がブルルンと凍えた。
「私の名前の由来、しゃべったら殺すから」
魔物を殺した人間を裁く法はない。そう、ことスラチンに対しては、私を抑止するものはなーんにもないの。
(ななななな、名前の由来? なんのこととととと?)
顎が噛み合ってないぜスラチン。この様子なら大丈夫そうだ。
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