好奇の対象ー1980年

帆尊歩

第1話 写真スタジオ-1980年

そのスタジオは思いのほか、たくさんの人がいた。

本格的なスタジオというのはこんなにも大きい物なんだと、恵理子は妙なことに感心した。

随分前に映画の撮影スタジオを見学したことがある。

あのときは、めくるめく映画の世界とは対照的に、ひどく埃っぽく、雑然としたイメージが目に写った。

でもここは違う。

なんだか清潔で、未来的な感じがした。

ゆっくり奥に向かって歩いて行く恵理子を、テレビカメラが追ってゆく。

その時は、自分を撮っているテレビカメラを意識して恵理子はここに来なければよかったと思った。

でもその思いは次の瞬間消え去っていた。

来ないわけにはいかない。

もうこうなってしまった以上、こない、なんて事は許されない。

テレビに逆らうことなど出来ない。

テレビカメラの前に立った瞬間から、人にはプライバシーがなくなる。

ここで写真撮影を拒否すれば、せっかくのチャンスを逃してしまう、つまらない女という演出でテレビに流れてしまう。

一度でもテレビカメラの前に立ったら、自分とは違うイメージを作らなければならない。

たとえそれが本来の高津恵理子ではなかったとしてもだ。


1980年、テレビは新しいメディアとして発達して来た。

テレビは新聞社が、部門の一つとして作った。

メディアと言えば新聞と出版であり、とりわけ新聞は世界のニュースを発信する。

そしてそこに意見や評論を加味させ、コラムを通じて新聞社としての意見をいう。

その最も大事な物が社説であり、意見を言い世間を正しい方向に向かわせるかのよう

に、表明する。

そしてその原動力が、うしろに控える読者であり、民意だった。

しかしその役割がテレビに取って換わる用になって来た。

リアルタイムで発信される映像と、音声は、タイムラグのある文字に比べると説得力が違う。

そして力をつけたテレビには誰もあがなえない。

かつて新聞社では、テレビに行くことは左遷に近い印象だった。

ところが今は完全に立場は逆転している。



 広いスタジオの中央には、すでにライトが照らされていて、いくつものカメラが準備されている、真ん中にジーンズにテーシャツという四十がらみの男が笑顔で恵理子を迎えた。

「やあようこそ」と言ってその男は恵理子の手を握ってきた。

その手は冷たくて、サラサラしていた。

「初めまして」恵理子は少しはにかんだように頭を下げた。

彼こそ暴力的な写真で有名な奇才坂本真市だった。

現在、写真界で天才と呼べるのは彼しかいない。

けして雑誌やグラビアでは使えない写真は、見る者の心の底を揺さぶる。

ある時はエロチズムであり、あるときは狂気、人間のドロドロとした汚さだったりする。

写真のイメージとは裏腹に、意外と紳士だったことに恵理子は安心した。

「今日は、一日よろしく、いい仕事をしようね」

「はいこちらこそ、よろしくお願いします」とその時の恵理子は、ここに来てよかったと思い始めていた。

スタイリストとメイクの人を紹介される。

三十を越えたくらいのどちらもやり手の女性という雰囲気の人だった。

スタジオは大きな空間で吹き抜けのようになっている。

その二階とおぼしきところにキャッツウオークが這わせてあり、壁側に階段が張り付いている。

その階段を恵理子は案内される。

階段を昇ると、いくつかのドアーが並び、その一つに案内された。

ここが恵理子の控え室という事らしい。

中に入ると、様々な衣装がハンガーに掛けられていた。

その一番奥に大きな鏡がついている鏡台ところに座らされて、二人の女性が恵理子の顔を作ってゆく。

テレビカメラがここまで入ってこなかったことに恵理子はホッとした。

メイクさんが恵理子の顔を作っている間、恵理子はそこまで着ていた物を脱がされて、そこで用意された物を着させられる。

「あなた、いくつ」とメイクさんが恵理子訊ねる。

「二十四です」

「へー、二十歳過ぎると肌はどんどん衰えるんだけれど、あなたの肌はきめ細かくていいわね」そう言われると恵理子はなんだか嬉しかった。

徐々に作られてゆく鏡の中の自分は、まるで自分ではないかのようだった。

作り物であっても、その自分は美しいと、なんとなく思った。

恵理子がどんなに頑張っても、恵理子では作る事が出来ない美しさだった。

そしてメイクにあわせた衣装を身につける。

段々写真を撮られるということが、どういうことなのか分ってくるようだった。

それは自分を撮ってもらうのではなく、自分を作り、それを撮ってもらうことなんだと感じていた。

決してこれから撮ってもらうのは高津恵理子ではない、高津恵理子をベースとした全然違う高津恵理子なんだ、という思いが膨らんで来る。

控え室をでると、坂本真市が立っていた。

「準備は出来た」その声はひどく静かで、穏やかだった。

「はい」と言って恵理子は頷いた。

「頑張ろう」

「はい」

「じゃあ行こうか」と言って坂本がスタジオにおりていった。

その後に恵理子も続く。



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