はにかむボーイ

@am_0984

第1話

「はぁぁぁ…」

電車の待ち時間、見慣れた青空と、深緑に包まれた木々のコントラストが映える駅ホームのベンチに腰掛け、僕はおもむろに大きな溜息をついた。ここ最近、嫌な事ばかりで参っている。例を上げるとするなら、近所に住むおばさんが飼っている、いつもは大人しいハスキーに、大して何もしていないのにも関わらず、何故か獲物を狩る時にしか見せない獰猛な目付きで会う度にしつこく追いかけ回されたり、自分へのご褒美として奮発して買った四千円以上の高価なホールケーキを、帰路で大きめの石につまづき、ケーキの入った箱ごと吹っ飛ばし、中身がベチャッと潰れて食べられなくなり、仕舞いには大学の講義帰り、学内の小さい段差で足首を挫いて全治一週間程度の怪我をしてしまったりと、近頃は大小様々な不幸が続いている。僕は基本的に神霊とか仏とか、そういう不確かなモノは信じないけれど、ここまで不運が続くと、そういう神様だとか、霊だとか、呪いだとか、そんな何時もは信じない不明瞭な概念を、つい信じてしまいそうになる。きっと気の迷いだろうけど。

そして今日は、この地域でも屈指のパワースポットとされている神社に御守りを買いに行くつもりだ。さっきも言ったけれど、別に神様を信じている訳じゃない。近頃のこの身に降り掛かる不運に乗じて、本当に御守りという霊的物品に効果があるのかを確かめるだけ、本当にただそれだけなのだ。嘘偽り無く。

そんな事を考えている内、またどんどん気分が下向きになり、俯きざまにまた重たい溜息が自然に口から漏れ出した。

「やぁ、そんな溜め息を着いてどうしたんだい?高橋司くん。」

ふと、頭上から聞き慣れない声がして咄嗟に顔を上げる。

見上げた視線の先には、見覚えのない、Yシャツに黒いパーカーを羽織った黒髪の青年の姿が、こちらを穏やかに見下ろしていた。

見たところ、歳は…十七歳ぐらいだろうか。一見大人っぽい雰囲気があるものの、口角や目元の当たりが幼げで、子供みたいな華奢な顔つきをしている。

「え?あ、あの、どちら様ですか?」

至極真っ当な質問を、この見知らぬ黒髪の青年に投げかける。彼は一体誰なんだろう。というか、何なのだろうか。この黒髪の青年はあの時、間違いなく高橋司という僕の名前を口にした。けれど、その名の持ち主である僕自身、彼の事を一切知らない。話した記憶も、ましてや擦れ違った記憶すら無い。この黒髪の青年とは、正真正銘これが初対面なのだ。

「ああ、挨拶が遅れたね。はじめまして。困惑させてしまってすまない。僕の、いや、私の名前は新条巡美。大きな溜息をつく君が目に留まり、気になって話しかけた次第だ。どうか警戒しないでくれたまえ。」

新条巡美と名乗るその青年は、そう言って深々とお辞儀をした後、また穏やかに微笑んだ。気になって話しかけた?というか、この毅然とした態度に一昔前の話し方、なんと言うか、全く掴みどころない人だ。いや、それよりも一番根本的な問題が解消されていない。何故僕の名前を知っていたのか。考えられる可能性は二つ。一つは僕が覚えて無いだけで、何度か面識のあった人間か。もう一つは、ストー……そう考えた時、瞬間的に鳥肌がぶわっと立つのを感じた。

もし僕の考えが本当だったとしたら、今世紀最大の不運だ。ただでさえ不幸が続いて気が滅入っているのに、もっと面倒な事に巻き込まれるのは、何としてでも回避したい。まず出来るだけ穏便に会話を済ませ、さっさとこの場を離脱してしまおう。

「あーえっと、すみません、僕この後急ぎの用事があって、こ、これで失礼します!」

そう言ってベンチから即座に起立し、その場を立ち去ろうとした時、ぐっと右肩を軽く掴まれる。

「まぁそう厄介ぶるんじゃあない。今君の身に降り掛かっている不幸の正体、僕が教えてあげようじゃないか。」

え?と自然に声が漏れる。この人に、僕が今現在進行形で悩んでいる不運の事は、一切話していない。それどころか、知り合いにも、友人にも、誰一人として口外していないはずなのに。気味が悪くなり、全く理解できないこの新条巡美と名乗る謎の青年と、自身の置かれている状況に、緊張と恐怖で固唾を飲んだ。

「そう怖気付くな。僕は君が思うような怖い人間じゃあないし、君に大きな害をもたらすつもりも毛頭ない。だからどうか落ち着いて一旦私の話を聞いてくれたまえ。」

青年はパッと僕の右肩から手を離し、更に口角を上げ、愛想の良さそうな笑みを浮かべた。害はもたらすつもりはない。この言葉がまず信用出来ないけれど、それはともかくとして、この人に確かめたいことは幾つかある。まず第一に、どうして僕の名前を知っていたのか。そして第二に、何故僕が悩まされてる不幸を、誰にも言っていないのにのにも関わらず把握しているのか。そして、彼自身一体何者なのか。こう疑問点を振り返って挙げるとますます意味のわからない危険な人物だけど、まずこの人の話を聞いてみないことには、その危機感と懐疑心が増すだけだろう。仮に予想した通りの危険人物なら、最悪全力疾走でその場を逃げればなんとかなるだろう。走りに自信は無いが。

「……わかりました。では話してください。どうして僕の名前を知っているのか、何故僕しか知らない不幸について知っていたのか。そして、貴方自身が何者であるのか。」

「ああ。もちろん全て話そう。だけど、その問いに答えるのは、今から起こる一つの問題事を解決してからだ。」

「え?問題事?」

彼がそう言い放った瞬間

「きゃあああああぁ!!!!」

耳を貫くほどに甲高い、女性の悲鳴が下の方から聞こえてきた。

「先程の大きな悲鳴は、下の駅構内からだ。さあ、ぐずぐずしてはいられない、一刻も早く下に行こうか、高橋くん。」

この人、さっき悲鳴が聞こえる前に問題事って言ったけれど、まさかこの事態を予測してたのか?いや、そんなこと、一般人、それも10代の青年が出来る芸当ではない。もう考えるのが面倒になりそうなほど掴めないこの状況に錯乱しそうになりながらも、一先ずこの青年の後を追い、駅構内へと赴くことにした。自身の疑問を解消する為に。


階段を一段飛ばして下りる彼の後ろに続いて、自分も一段飛ばしで下りる。かなり量のある段を下りきった時、先に歩を何度か進めていた彼の足が突然ピタリと止まり、その拍子にぶつかりそうになるも、何とか踏みとどまって自分も足を止めた。

「し、新条?さん、どうしたんですか?急に足を止めて。」

「新条で構わないよ高橋くん。それよりも、あれを見たまえ。意外にこの事件、思ったよりやりがいがありそうだ。」

彼は指を前に突き出す。その指が指し示した方向に沿って眼を向けると、かなり奥の方で、十数人の人集りが出来ていた。十数人の人集りは、何かを囲うように円形になっていて、その人集りの中には、一般人の他に、この駅で働く駅員も混じっていた。どうして人集りが出来ているのかについては、あの時の女性の悲鳴から、ある程度想像が出来た。

「何故人集りが出来ているのかというのは、何となく想像出来るだろう?さて、もっと近くに寄って様子を見に行くとしよう。」

僕の心の内を見透かす様にこちらを見て笑った新条は、止まっていた足をまた動かし、さっきと同じ間隔で歩を進める。どうして僕が考えた事が彼に見透かされているのか、やっぱり掴めない人だ。この新条巡美とか言う人間は。

人集りの前まで来た時、ちらと見えた中心部には、腹部辺りが赤一色に染まり、苦しそうな荒い息遣いで横たわる女性の姿があった。

「先刻、この辺りで女性の悲鳴が聞こえ、颯爽と駆けつけた次第だけど、何かあったかな?」

「おいおい、見りゃあ分かるだろ、刺されたんだよ。女が。」

「ほう。どうやら止血はもう済んでるみたいだね。彼女を刺したヤツは?」

「ああ、さっき、フード姿の男が女を刺してすぐ、持ってたハサミをその辺に捨てて、改札口を抜けて逃げて行くのを見た。俺の他に、居合わせた駅員が、今刺したヤツを全速力で追いかけてる。この地域は単純な道が多いし、人通りも少ないから、駅員がその内捕まえてくれるはずだ。」

それを聞いた新条は、これも見透かしていたと言わんばかりのすかした顔で、ゆっくりと顎に手を添えた。

「警察と救急車は無論呼んであるよね?」

「当たり前だ。もう既に呼んである。言うに、到着は十分程だそうだ。」

男は女性を心配そうに見つめ、やがてその場でしゃがみ込み、軽いため息をついた。会話の最中、人集りに属していた何人かは、都合があるのか、女性の止血が終わり、場が少なからず安定した状態になったからなのか、それぞれ去って行き、十数人いた人集りは、いつの間にか被害者の女性と男性と駅員、そして僕と新条の五人だけになっていた。

しばしの沈黙が続き、暫くして改札口の方からこちらの方へ、犯人を追っていた駅員が息を切らして、飛ぶように駆け込んで来た。

「皆さん、犯人を捕まえました!警察と救急隊も到着しましたので、もう安心して大丈夫ですよ。」

それを聞いた途端、今まで張り詰めていた空気が一転し、駅員や男性は一件落着だと、ほっと胸を撫で下ろした。そのあと駅構内へ降りてきた救急隊員が、被害者の女性を担架に乗せ、救急車へと運んで行き、その後2,3人の警官が、現場の様子を確認しに降りてきたかと思えば、確認を終えたのか、すぐ上へ戻って行った。

「一先ずはこれで一件落着かな。」

新条はぐーっと背伸びをして言った。案外あっさり問題事が解決した事に少し不信感を抱く。犯人が何故こんな人通りの少ない駅で女性を刺したのか。という事が気になるが、それはもう警察官の仕事だ。というか、問題事が解決した今なら、彼への今までの疑問、気になっていた事を、ついに教えて貰えるのではないだろうか。

「あの、新条さん、」そう話し始めようとした瞬間、改札口の反対側、つまりホームから、何かが破裂するような、耳を劈く爆音が「どがあああああん!!!」と鳴り響いた。

なんなんだ!?一体僕の身の周りで、この駅で何が起きてるんだ?女性を刺した犯人が捕まり、問題事が直ぐに解決したと思えば、次はホームから爆発音?次から次へと転々とするこのキリの無さに、多少の呆れの感情が顔に出てしまう。

「おっと、思ったより早いな。」

相変わらず、この新条という掴みどころの無い青年は、さっきと同様に余裕そうな口振りで改札口の方へ歩いて行く。どうしてこの人はこんなに余裕そうなんだろうか。ホームの方は大丈夫だろうか、何があったのか様子を見に行きたい気持ちはあるのだが、どうにも新条の行動も気になって仕方がない。彼自身に聞きたいことも山ほどある。まず今彼に聞くべき一番の事象は

「さっきホームの方から聞こえた大きい爆発音ってなんですか!?」

「ああ。先程駅ホームに元から仕掛けられていた低威力の爆弾が作動したのだよ。慣れない素人が作ったという事を踏まえてみれば、中々の威力だがね。」

そんな事を淡々と答え、変わらず出口である改札口の方へ歩を進める。爆弾?何言ってるんだこの人、なんで爆弾が仕掛けられてるなんて分かった?こんな状況でも、余裕のある、呑気な新条さんに昏倒してしまいそうになる。新条の呑気さは、最早羨ましく思える。途中、さっきの警官が爆発音の確認をする為にすれ違う形で駅ホームへ走っていった。そんな次々に進展する意味のわからない光景を目の当たりにしながら、僕も無心で改札口の方へと足を動かす。改札口を抜けて少し長い階段を昇る。やがて地上へと戻ると、道路側にパトカーがとまり、駅の入口は一時的な入場封鎖がされていて、ギャラリーが何人か集まっていた。ああ、疲れた。もう何も考えられる気がしない。疲労感からかその場にへたり込む。地べたに座るのは汚いが、今はそんな事を一々気にしていられるほどの余裕はもう僕には無かった。この新条という何から何まで不明な青年の急な登場。そしてその状況を飲み込む前に駅構内から女性の悲鳴が聞こえ、女性が刺されていて、刺した犯人が捕まり、その問題が解決したと思えば、今度は駅ホームの方で轟音が鳴り響く。何一つ飲み込めない、今日は今までで最大の不運だ。特にこの新条巡美とか言う青年。彼は本当に何者なんだ。こう、なんというか、どうしてこんな事態に顔色一つ変えないのだろう。掴もうとしても、鰻みたいにすり抜けて、もう掴める気がしない。僕がその場にヘタリ込みため息を着くと、ため息の原因の一つでもある新条が、僕の元へ歩いて来る。

「やはり疲れたかい?」

「そりゃ、疲れますよ。普通に生活してたら、こんな事件に巻き込まれる事なんてまず有り得ないですから。」

「ははは、だろうね。しかし、この駅、この場所で、この事件が起きる事は既に決まっていた。」

また訳の分からないヌルヌルで掴めない鰻みたいな事を…。意味不明な発言をぽんぽん投げる彼の頭の中がどうなっているのか、見て見たい。

「どういう事ですか?」

「君が今の今まで悩んでいた、近頃の君の不運、申し訳ないのだが、大半は僕が引き起こしたものだ。」

「はい?」

いやいやいや、もう飲み込めない。マジで飲み込めない。口に入れるのも、そもそもその飲み込む動作をすること自体、断固拒否したい。

「…僕が大人しいハスキーに追いかけられたのは…」

「君は覚えてないだろうが、あの時君とすれ違う際、君のポケットに犬用のお菓子を入れていた。とびきり香りの強いものをね。」

そう言われ、嫌な予感がしてズボンのポケットを弄ると、犬用の小さな棒状の菓子が入れてあった。本当だ。確かに匂いが強い。いや、やっぱりストーカーじゃないか、と言うより、もう嫌がらせでしょこれ。僕も何故気付かない?普通気付くだろ、すれ違いざまにポケットにこんなもの入れられたら。

「まさか僕が帰り道に石につまづいてケーキを落としたのも…」

「君が通る道を予想して避けられない位置にピンポイントで僕が大きめの石を置いたからだね。」

「じゃあ僕が大学の講義終わりに階段で足首を挫いたのも…?」

「いや、それは純粋に君の不注意だね。」

うん、なんか、もう全てどうでも良く思えてきた。人間、理解出来ない事が重なると、思考を放棄するんだな。その理由が、今ならそれとなく分かる。こんな非現実な事態を、素直に受け入れるしかないのか。唖然と、限界まであんぐり口を開けて、呆然と新条さんを凝視する。その時の僕の姿は、それはもう見事なアホヅラと呼ぶべきものだっただろう。

「僕の予想が当たっていれば、今日君がこの駅に来ていたのは、この地域一番のパワースポットの神社に赴く為だろう。」

それも当たりだ。もう明確な恐怖が肌を伝えって僕の頭に警鐘を鳴らす。その予定は今日の朝に立て、家族にも友人にも言ってないハズなのに。まさか新条は僕が今日その予定を立てるだろうと予測して、あらかじめその通りに、僕が神社に行くように仕向けた?だとしたら相当手が込んでる。それに人間技じゃない。神業だ。非現実すぎる。嫌がらせも、僕の生活の全てを把握していないとまず出来ない。しかし、本当だったとしても、その真意が分からない。一般市民である僕に拘る。

「君をこの事件に介入させ、巻き込まれる形ににしてしまったのは本当にすまない。もっと他に接触方法は幾らでもあったのだが、この方が一番手っ取り早いと思って。でもまぁ、君の身に不幸はもう降りかからないから、そこはもう安心していいよ。」

新条は穏やかな、屈託の無い笑みを見せる。はぁ。もう怒る気力すらない。理解が追いつかなさ過ぎて、頭が痛くなってくる。全て新条のせいってこと?疲弊した僕は、今までに無いくらいの重くて大きなため息をついた。

「ははは、理解出来ないのも無理はない。大変説明しずらいのだが、言ってしまえば、僕は人より頭がよく回る。起きる物事全てを予測し、理解し、それに予め対処出来る。僕自身不器用だから、たまに判断を間違えるけれど。今回のように。兎角、君に接触した理由は、君が僕の最終目的キーパーソンになる存在だからなんだ。君が望んでも望まなくとも、その役割をやらなくてはならない。だから僕は君と接触したのだよ。理解するのは大変だと思うが、ここはどうか飲み込んでくれ。」

…確かに判断を間違えてるな。僕がキーパーソン?最終目標が何かという意味のわからないことはさておき、僕はキーパーソンの役割を担わされる程、他人の人生に干渉した覚えは無い。自分がそれを一番避けていたのだから、よく分かってる。本当に覚えが無い。

「先程君の身に起こった事件、あれは言わばほんの序章に過ぎない。君はこれから、僕と共に様々な事件に見舞われることになる。」

はぁ、なんて事だ。そんな話、信じようにも信じきれない。神様とこの事、どちらが信じれるかと聞かれたら真っ先に神様の方を選ぶ。それほど、僕はそんな非現実な物を信じれない。この青年が何を考えているのか、果ては何を目指しているのかも、僕には何一つ分からない。僕はこれから、どれほど壮大な物巻き込まれるのだろうか。いや、もう既に巻き込まれているのかもしれない。この新条巡美という人物と接触した時点で、もう既に。

「さて、高橋くん。くだぐたしては居られないよ。先程の爆発と、その他諸々の処理は警察に任せるとして、僕達はその爆弾を仕掛け、果ては起爆した真犯人を追わなければならないのだから。犯人は囮を使うほどに狡猾な奴だからね。早く追わなければ取り逃してしまう。」

新条は僕に手を差し伸べる。結局、僕はこの人にこれから振り回されるのか。考える事をやめた僕は、その手を呆れ気味に受け取る。僕が立ち上がってすぐ、新条さんは右に向かって早歩きをし出し、その後ろを僕が着いて行く。もう考えるのすら疲れた。どうしようもない。

「この場所は今の時間、人通りが少ないからね、爆発してから間も無い、爆弾を仕掛けた張本人は、この近くにいるはずだよ。」

相変わらず新条は淡々と話す。行先がもう既に分かっていると言わんばかりに、彼は歩を進めている。進み方に迷いがない。きっとこの様子だと、彼はもう真犯人がどこに行ったのかを分かっているのだろう。流石僕の行動を予想して、嫌がらせをしただけはあるな。

大通りから狭い路地を抜けて街路へ、街路から少し歩くとまた狭い路地があり、そこをスルッと抜ける。それを繰り返す度に、どんどん人気が少なくなり、道も細くなっていく。気がつけば人っ子一人居ない通りに、狭い路地を抜けて行き着いた。

「この廃ビルかな。高橋くん、もしかしたら戦闘になるかもしれないから、万が一の手立てとして、木の棒でも持っていた方が賢明だよ。」

目の前には、五階立ての廃れた小さいビルがあった。貼られた窓ガラスは所々割れ、新品並に綺麗と言えるほどのものはひとつも無かった。僕は言われた通りに、身近な街路樹から落ちた枝を拾い上げ、それをポケットに忍ばせる。

「くっ、あはは、高橋くん、あれは冗談だよ。まさか本当に木の棒を持ってくなんて、ふふっ、しかもポケットに、ふふふっ、その小ささじゃ役に立たないじゃないか、はははっ。」

冗談だと言って僕の行動に吹き出した新条に多少の怒りを覚えながら、僕達は廃ビルの中へと入って行った。

中は暗く、予想通りに廃れていて、その壁の随所にはスプレーで落書きが幾つもしてあった。

「お、この落書き、中々センスがあるね、不良の彼らもその才能を他に活かせば素晴らしいのに。」

そんな呑気な事を言いながら、ヒビの入った非常用の階段を渡る。いつ崩れるか分からない階段にうるさく心臓を鳴らしながら、僕は新条の後に続いて階段を昇る。壁に3いう表記がしてある所で、新条は方向を変え、その階に続くドアを開けた。

「だだっ広い空間だね。」

部屋と呼べるようなものは全て撤去され、一面がコンクリートに覆われていた。そのコンクリートも、剥がれて骨組みであろう錆びた鉄がむき出しになっている。

「あ、居た。高橋くん、彼を見たまえ。彼が今回駅で起きた事件の全ての元凶だ。彼が女性を刺して駅構内に皆を誘導するよう囮に仕向け、駅を被害者が出ない形で爆破した。きっとこれは組織的なテロの1部。よく見て起きたまえ。」

新条がゆび指さした方向には、フードを被った半ズボンの男が、後ろ向きに誰かと電話越しに会話をしている姿があった。距離は、約25mくらいだろうか。開けた場所だから、かなり見やすく、相手側はこちらに気付いていない。

「さて、高橋くん、これから彼奴を捕まえる。君は一旦そこで待機して、僕の合図があるまで、様子を見ていてくれ。僕が腕を上げたら、それが出てくる合図だ。それじゃあ、宜しくね。」

そう言って新条さんはフードの男に向かって歩き出す。新条さんの足音は全くせず、男は気付かず後ろを向いたまま、電話越しの誰かとの会話を継続している。僕は新条の言う合図が出るまで、右側の入口付近の物陰で出来る限り目立たない様に待機していた。

「やぁやぁ、こんなところで何をしているのかな。」

新条は何の躊躇いも無くフードの男に向かって話しかける。フードの男は愕然とした顔で咄嗟に振り向き、覚束無い手で電話を切った。

「どうして此処が分かった?とでも言いたげな顔をしているね。なぁに、簡単さ、この廃ビルは人通りの無い路地に建てられていて、且つ小さく目立たないからね。駅に爆弾を仕掛け起爆した理由も全て僕には全てお見通しさ。さて、更にことが大きくなる前に投降したまえ。」

新条がそう言った途端、男は焦った様子で、半ズボンの右ポケットから拳銃を取り出し、新条に向けてその拳銃を構えた。

「なるほど、抵抗するのかい、なら容赦はしないよ。」

男が拳銃を発砲し、戦いのゴングが鳴った。新条はスルッと銃弾を交わし、男の間合いに素早く入り、拳銃を持つ腕をぐっと掴む。男はそれに悶えながら、なんとか必死に抵抗し、拳銃を新条目掛け発砲する。だが狙いは幾度も逸れ、銃弾はコンクリートの壁と剥き出しの鉄を反射し、キンと乾いた音を立てる。やがて男は腕の痛みに耐えきれなくなったのか拳銃を落とした。それから新条は、落ちた拳銃を足で蹴りあげ、男の間合いから引き離した。

「さて、もう観念したまえ。君に勝機は残っていない。大人しく投降するのが賢明…。」

発言の最中、銃弾が新条の頬を掠める。銃弾の飛んできた方向を見ると、スーツ姿の男が先程僕達が居た入口の方に立っていた。

「へぇ、電話の相手か。加勢しに来たんだね。距離は大分離れていたと予想してたけど、案外そうでもなかったか。」

頬から血が流れ、新条はその血を指で拭き取った後に、フードの男を血を拭き取った方の手で力一杯ぶん殴る。男は勢い良くコンクリートの硬い地面に激突し倒れ、暫くして動かなくなった。

「さて、そろそろ出番かな。」

そう言った後、新条が腕を上空に向かって伸ばした。合図だ。バッと勢い任せに出てきたが、どうしていいか分からず、スーツ姿の男の方に向かって突撃する。スーツ姿の男は反射的に拳銃を僕に向けたが、僕の方が一足早く、男の間合いに詰め寄り、スーツ姿の男が動揺したその隙に、自身も、力一杯に利き手でぶん殴った。ポフ、男のスーツに触れた時、そんな音が効果音として鳴った気がした。男は大して痛くも痒くも無さそうな顔をして、僕にしっかりと握った拳銃を向ける。あ、これは不味い。死を覚悟し俯いたその時「上出来だよ、高橋くん。」とスーツ姿の男の方から聞き慣れた声がした。見上げると、スーツ姿の男は既に伸びて、目の前には先程フードの男に顔面パンチを食らわせた新条巡美の姿があった。その後に警察を呼び、事態は本当の意味で収束した。


「いやぁ、にしても傑作だったよ。まさか君のパンチがあれほどの威力だったなんて。」

「正直自分でも驚きました。まさかあそこまで筋力が無かったなんて。」

僕が言うと新条はまたはははと笑った。

「さて、事態は一先ず片付いたから、今日はもう早々に帰ろう。夕日が刺している。」

気付けば時間帯は午後四時を回り、橙色に染まった夕日が僕達を照らしていた。

「高橋くん、少し前にも言ったが、キーパーソンである君はこれから、これとは比べ物にならない様々な難事件に直面し、解決して行くだろう。」

「だが安心したまえ。僕がいる限り、君の安全は保証しよう。何せ、君は大事な役割を担っているのだからね。じゃあ、また機会があれば会おう。」

そう言い残して、新条は夕日の光に溶けて消えた。今日の事件とは比べ物にならないほどの難事件に巻き込まれる。それを聞いて大分疲弊したけれど、存外、悪いものでは無いのかもしれない。彼、新条についてもまだ知りたい事や不可解な点が沢山ある。あの人のペースに乗せられ、僕はいつの間にか、今までの不運が一瞬で消し飛ぶ様な、とんでもない事に巻き込まてしまった。一体これからどうなるのだろうか。それはまだ、誰にも、いや、あの人を覗いて、予想出来ない事だ。一先ず家に帰ろう。考えるのはそれからでいい。ポジティブに考えよう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

はにかむボーイ @am_0984

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ