第21話 遅れてきた男


「つまり、まだ私にも勝機はあると言うことかな?」


 フィオナには見せない、したたかな男の顔になった王甥に、しかしシリルはそっけなく首を振ってみせた。


「勝機も何も、殿下の父君と伯父君を説得してからにしてくれ。辺境伯を味方にするだけでもいいですよ?」

「……シリル、一国の王とその弟はともかく、君はあの最難関のフィオナ贔屓の男を『だけ』というのか? カーバイン公爵並みに鬼畜なことを言うんだな」

「僕は姉の番犬だからね。……でも、ロフロス殿下でよかった。急に周囲が騒ついたから、あの男かと思ったよ。ねえ、姉さん」

「そうね。今夜はあまり顔を合わせたくなかったから、殿下でよかったわ」

「ふーん……つまり、顔を合わせたくなかったのは、ローグラン侯爵?」


 ロフロスはそっと名を上げる。

 しかし、フィオナは完璧な微笑みを浮かべたまま表情を変えない。その美しい笑顔に何らかの感情を探そうとしたロフロスは、やがてあきらめて肩をそびやかした。


「やっぱり、フィオナの本音はよくわからないな。でも安心してよ。あの男は今夜は会議があるから、こちらには来ないはずだよ。だから、私と踊ってくれる?」

「ロフロス様に誘ってもらえるなら、喜んで」


 ロフロスが差し出した手に、フィオナは笑顔で手を重ねる。

 ちょうど始まった音楽に合わせ、二人は楽しそうに話しながら広間の中央へと向かって行く。

 そんな二人を見送りながら、今まで無言で気配を消していたエリオットが首を傾げた。


「なあ、シリル。フィオナ嬢は、ロフロス殿下と仲がいいんだな」

「……姉さんとしては、義母になり損ねたと思っているからね。まあ姉弟くらいのつもりだと思う」

「姉弟のつもりかぁ……。でもロフロス殿下は、そういうつもりではないようだけどな。それに、あれは完全に口説きに入っているだろう。……ん? でも以前フィオナ嬢は、今まで口説かれたことはないと言っていたよな?」

「あの殿下は、昔からずっとあんなだよ。ただ、姉さんは全く気付いていないんだ」

「えっ、あれを気付いていないのか?! それは……さすがフィオナ嬢だな!」


 一瞬唖然としたエリオットは、苦笑しつつも賞賛した。

 若い男女が踊り始め、フィオナとロフロスも楽しそうに踊っている。時折顔を寄せて笑い、何かを囁き合っているようだ。

 興味丸出しで見ていたエリオットは、眉をひそめてまた首を傾げた。


「……シリル。あの親密ぶりもいつも通りなのか? あれで、よく今まで噂にならなかったな」

「ロフロス殿下とは、一曲しか踊らなかったからね」

「えっ? でも、もう二曲目に入っているぞ? あれでは噂にしてくれと言わんばかりじゃないか! あれでいいのか?!」

「…………まずいかもしれない。あの男との噂が出たから、馬鹿殿下は自分との恋仲の噂を流そうと実力行使に出たようだ。今日は父上は来ていないし、ロフロスの野郎を止められる格上の人間がいない。くそっ! あいつ、一度没落させてやろうかなっ!」

「お、おい、シリル、落ち着くんだ! 謀略はいいけど、私がいないところでしてほしいなと……聞いているかな?!」


 表情を消したシリルが物騒なことをつぶやき、エリオットは青ざめながら、控えめにたしなめる。

 そんな一部での緊迫も知らず、ロフロスがフィオナを踊りながらぐいと引き寄せた。眉を動かしたシリルは、無表情のまま、しかし思わず暗殺者のリストを頭の中で広げた。

 同時に、周囲に何と言われようと、三曲目になる前に弟権限で姉を引き離そうと決意する。


 エリオットが怯えるような微笑みを浮かべたシリルが、足を踏み出した時。

 夜会の会場に、新たな騒めきが起こった。



「あ……っ!?」


 切迫したようなエリオットの声に、シリルは眉をひそめたまま足を止め、ざわめきの元へと目を向ける。

 途端に眉間の皺が消え、目がまん丸になった。


 大股で近付いてくる人物がいる。

 周囲から次々と声をかけられているのに、ほとんど応じる様子はない。それに、シリルの気のせいでなければ、急いで着替えて来たように服装が僅かに乱れている。癖のある特徴的な黒髪も、馬を飛ばしてきたかのような乱れ方だ。それを歩きながら手櫛で整えている。


 予想した人物ではあるが、予想外の姿だ。

 思わず見入ってしまったが、シリルはこっそり深呼吸をしながら目を閉じる。次に目を開けた時、目の前で足を止めた人物に笑顔を向けた。


「これは、ローグラン侯爵。今夜は会議ではなかったのですか? こちらには来ないだろうと聞いていたので驚きましたよ。急に予定が変わったのですか?」

「……シリル君。今夜のフィオナ嬢は踊っているのだな」


 髪をざっくりと整えた男は、シリルの挨拶に答えなかった。見てもいないようだ。

 白翡翠のような目は、広間の中央あたりを……正確にいえば、ロフロスに引き寄せられて困惑したように、でもたしなめるように笑っているフィオナを見ていた。

 傷跡の残る口もとがわずかに動いたが、いつもの笑みの形にはならない。不快そうな表情が浮かんでいる。

 それから、周囲を見た。


「カーバイン公爵は……今夜は別の会に出ているのだったか。フィオナ嬢は、ロフロス殿下とは何曲踊っている?」

「二曲目です」

「……もう二曲目か」


 小さく舌打ちして、ローグラン侯爵は手早く歪んでいた襟元を整え、ポケットから取り出したカフスボタンを袖口にはめた。ローグラン侯爵は、いつも自分で身なりを整えているようで、鏡を見ていないのに大貴族当主に相応しい姿になった。

 白い目が、チラリとシリルに向く。

 どうやら身なりの確認を促されたらしいと悟り、シリルは苦笑した。


「その姿なら、女性をダンスに誘っても大丈夫だと思いますよ。でも僕の姉については……」

「フィオナ嬢はロフロス殿下と親しいようだが、男としては見ていないようだな」

「……否定はしません」

「強引に進めても良いことはないだろう。少なくとも、今の状況では」

「悔しいが、その意見に反対はしませんよ」


 シリルはため息まじりにつぶやく。

 ローグラン侯爵は真顔で小さく息を吐いた。


 覚悟を決めたのか、あるいは当初の予定通りの行動なのか、背の高い武人貴族は踊りの輪の中へと歩いていく。

 再び小さな騒めきが起きる中、ローグラン侯爵はロフロスとフィオナの元へ至り、ちょうど曲が終わって足を止めていたフィオナに丁寧な礼をした。


「……えっ、もしかしてローグラン侯爵は、ロフロス殿下から横取りをしようっていうのか?!」


 ローグラン侯爵から逃げるように離れていたエリオットが、戻ってきて早々に悲鳴のような声でつぶやいた。

 苦笑を浮かべたシリルは、じっと成り行きを見守る。ロフロスは不機嫌そうな顔をしているが、ローグラン侯爵は全く気に留めていない。いつもの不敵な微笑みを浮かべていた。

 そして、冷ややかな顔をしたフィオナもローグラン侯爵が差し出した手を睨んでいたが、艶やかな笑みを浮かべて手を重ねた。


「うわー、ロフロス殿下は王族だぞ。大丈夫なのか?!」

「……ローグラン侯爵家の軍事力は小さくないからね。まあ、あの馬鹿殿下の暴走を止めてくれたことは感謝かな」

「それにしても……あ、フィオナ嬢はやっぱり優雅に踊るね。ローグラン侯爵も、意外にダンスは上手いな」


 顔を強張らせていたエリオットは、再び踊り始めたフィオナを見て感心したように頷いている。

 友人の言葉を聞き流しながら、シリルは表情を消して考え込んでいた。


 王甥ロフロスは、今夜はあの男は会議があるから夜会に来ることはないと言っていた。

 だが、ローグラン侯爵は夜会に現れた。

 主催者や周囲の反応を見ると、本来は出席する予定はなかったのだろう。侯爵自身も、いつもより身支度が甘かった。

 まるで、フィオナの出席を知って、予定を変えて慌てて駆けつけたような姿だった。


 これが普通の人物なら、横取りを恐れた男の愚かな行動としてわからなくはない。

 しかし今まで散々カーバイン公爵家を出し抜いてきたローグラン侯爵が、人々の面前で王甥ロフロスからフィオナを横取りするように邪魔をしたことは不可解だった。

 ……エリオットには言わなかったが、シリルが見たところ、ローグラン侯爵家は強兵の一族だが、王族を威圧するには軍事力が少し足りない。


 ローグラン侯爵は、そういう計算はできる人物のはず。

 なのに逸脱しているのは、フィオナに執着して我を忘れている証なのだろうか。あるいは……王甥ロフロスと敵対しても勝算があるのか。


「もしかして……背後に誰かついているのか? いや、まさかね……?」


 わずかに顔をひきつらせ、唸るようにつぶやく。

 ――――シリルは、ローグラン侯爵の意図を疑い始めていた。

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