ローグラン侯爵
第18話 邪魔をする男の婚約歴
黒髪のローグラン侯爵が表舞台に出てきたのは、爵位を継いだ後になってからだ。
初めて王都に姿を現したのは今から八年前――フィオナが辺境伯次男と四度目の婚約をしていた頃だった。
それ以前の経歴は知られておらず、カーバイン公爵ですら正確には把握していない。
よく言われているのは、南部の本領で軍人だったのではないかということ。それも、ローグラン侯爵の鍛えられた体形や、いつも帯剣している姿からの推測だ。
今が三十一歳というのが本当なら、爵位を継いだ当時は二十三歳。まだ若い上に独身、顔立ちも整っているから、訳知りの女性たちからの甘い火遊びの誘いが引きも切らなかった。
体中に傷跡があると言われているが、侯爵が人前で裸体を晒すことはない。だから、あくまで女性たちが意味ありげに語ったことが情報の全てだ。
口元や額に傷跡があるし、前戦に立ち続ける軍人にはよくあることなので、体に複数の傷跡があるという話は信憑性が高い。
また、前代の侯爵を伯父と呼んでいるから、前代の弟か妹を親に持つのは間違いないとされている。
ローグラン家は南部人らしい赤褐色の髪が特徴なのに、現侯爵は黒髪。おそらく異国の血を引いているはずだが、どの時点でその血が入ったのか、父か母が異国人なのか、祖父母が異国人なのかはわからない。
そしてもう一つ、ローグラン侯爵を特徴付けているのが、婚約歴の多さだ。
カーバイン公爵の長女フィオナは七回の婚約を経験しているが、ローグラン侯爵はその倍以上。八年間で十五回も婚約を繰り返している。
十五回目の婚約が解消された時は、貴族たちの間でそれなりに話題になっていた。……その翌週の王宮舞踏会で、カイルが婚約破棄を懇願したせいで、もう誰も気にしていないが。
「で、今、ローグラン侯爵と話している女性が十一人目の元婚約者で、その前に話していた赤髪の女性が七人目の元婚約者。次に挨拶しようと並んでいる若い男がいるけど、彼は三人目の元婚約者の孫だね」
「ふーん、そうなのね……えっ? 孫っ!?」
真剣な顔で頷いていたフィオナは、頷く途中で驚いた顔で弟を見る。もちろん表情が薄いから、周囲はフィオナが驚いていることに気付いていない。
淡々と語っていたシリルは、はぁっとため息をついた。
「うん、孫なんだよ。今から七年前の婚約者だけど、当時で六十代だったんだ。……いや、驚く姉さんの気持ちはわかるよ。僕も調べていて改めて愕然としてしまったから。絶対に結婚までいくつもりがない人選だよね」
魅力的なプラチナブロンドを物憂げにかきあげ、シリルは自分と同じ色の姉の目をまっすぐに見た。
今夜もフィオナは、とても美しい。
銀の髪は完璧に整った顔を縁取るように流れ落ちているし、異性への媚びを全く含まない立ち姿は神々しいくらいだ。
(こんなに美人なのに……なぜ中身がアレなんだろう)
シリルは二歳違いの姉をずっと見てきた。
聡明で、広い視野を持ち、前向きで……なのに微妙にポンコツだ。結婚したいのなら、ローグラン侯爵のことなど無視して、それこそ手当たり次第に「男漁り」をするべきだ。
なのに、貴重な夜会の場で憎きローグラン侯爵を見つけたからといって、ずっと侯爵の観察を続けている。
憎いというなら、あの男のことなど無視して若い男性たちと談笑するべきなのに。
(まあ、気持ちはわかるけどね。あの侯爵は目を引きすぎるし、目を離したら何をしかけてくるかわからないから)
シリルはそっとため息をついた。
しかしひるんでいる場合ではない。姉フィオナに関しておかしな噂が流れている。それを打ち消すためにも、ローグラン侯爵の婚約歴の多さを利用することも考えねばならない。
なんとか気持ちを奮い立たせ、シリルは無理矢理に笑顔を浮かべた。
「……というわけで、十五回も婚約解消を繰り返しているのに、その後も相手の女性たちやその家族との関係は良好なんだ。どこにも隙がない。この方面からは何も得るものがないだろうな。あの孫息子とも話をしたことがあるけど、なぜかローグラン侯爵を崇拝しているんだよ。どうも金銭的にかなり世話になったらしくてね。ケチでもないようで…………あ」
話の途中で、シリルは言葉を切った。
その目は姉を通り越して広間の向こう側を見ている。
不審に思ったフィオナは、弟の視線をたどって振り返る。特に変わった様子はない。人々は和やかに笑っているし、若い男女は楽しげに踊っている。急使が駆け込んできた様子はないから不穏な事態ではない。
そう考えかけて、フィオナは唐突に眉を顰めた。
周囲の人々に不穏な動きはない。しかし姉弟のいる場所へと近付いてくる人物がいる。
背が高く、肩幅が広く、髪はこの国では珍しい黒色。目は縁だけ緑を帯びた白翡翠のようだ。
ローグラン侯爵だった。
「見ていたことを悟られたかな。こっちにくるね。まずいな。場所を変えてやり過ごす?」
「今動くと、怖気付いて逃げるみたいじゃない。カーバインは弱虫ではないわよ」
「まあ、そうなんだけど、あの侯爵は面倒だし、特に姉さんはあまり言葉を交わさない方が……」
「あんな男、迎え撃ってあげるわよ!」
「ええー……」
シリルの小さな声は、しかしフィオナには聞こえていない。
エメラルドグリーンの目は、すぐ近くまで来ているローグラン侯爵に向けられていた。急に氷になったかのような、冷ややかな視線だ。
しかしローグラン侯爵は、どう見ても好意的ではない視線を淡々と受ける。傷跡のある口元がわずかに動き、ゆっくりと微笑みの形を取った。
「……っ! あの男、笑っているわっ!」
「普通に考えると、姉さんに見つめられたら嬉しくて笑っちゃう男は多いと思うけどね……」
「なぜここに来るのかしら。喧嘩を売りに来たのなら買うわよ!」
「姉さんが一番身分が高くて美人だから、挨拶にくること自体はおかしくないんだけどね……」
ボソボソとつぶやいていたシリルは、ふと姉を見た。
姉フィオナは聡明だ。自分に近付いてくる男が、何の下心も持たないはずがないとわかっている。
だからこそ、ローグラン侯爵の笑顔を敵意とみなしていた。
でも、もしこの美しい姉にそんな聡明さがなかったら。
今は呑気に仮定の話に想像を巡らす場合ではない。そう思いつつ、姉がもっと無邪気な女性だったら、とふと考えてしまう。
少し年上過ぎるが、ローグラン侯爵は顔が整っている。
地位があり、顔が良く、見栄えのする体型で、慇懃無礼と紙一重ながらも、丁重に接する男が何かと声をかけてくる状況は……他の女性たちのように、愛らしく頬を染め、ほのかな期待にときめいていてもおかしくないのだ。
(……あ、そんな姉さんはすごく嫌だ。考えただけでうんざりしてきたよ!)
姉フィオナがそういう女性でないことを、シリルは心から感謝した。
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