第12話 挨拶
ほんのり涙目のフィオナが、扇子の影で虚ろにため息をついた時。楽しげな音楽に満ちた夜会の会場に、突然ざわめきが起こった。
何事かとそちらに目をやると、会場に入ってくる男が見えた。ずいぶんと遅れて到着した客がいるようだ。しかも、その遅刻客は次々と声をかけられている。人気があるのか、あるいは家格が高い人物なのだろう。
その遅刻客と目が合った。
まだ離れた場所にいるはずなのに、緑色を帯びた白い目は確かにフィオナを見た。そしてなぜか方向を変えてこちらに歩いてくる。
フィオナが一瞬動きを止める。そのかすかな異変に、シリルは華やかな笑みを保ったままさりげなく視線をたどっていく。
その麗しい微笑みが、今日初めて強張った。
「……ローグラン侯爵……!」
小さくつぶやいたシリルは、すぐに姉を隠すように立ち位置を変えようとした。
「君たちがこういう場にいるとは、とても珍しいね。シリル君」
姉を隠そうとした背に、笑いを含んだ声がかけられた。
背を向けたままシリルは小さく息を吐いたが、くるりと向き直ったときには美しく明るい笑顔になっていた。
「これは、ローグラン侯爵。なかなかお見かけしなかったから、あなたはこういう場には来ないのかと思っていましたよ!」
「全ては難しいが、可能な範囲で顔を出すようにしているよ。滅多に会えない人にも会えるから」
意味ありげにそう応じたローグラン侯爵は、姿勢を変えてフィオナへと視線を動かす。
座ったままの美しい公爵令嬢を見つめてわずかに目を細め、しかしすぐに薄い笑みを浮かべて丁寧な礼をした。
「フィオナ嬢。あなたにお会いできて光栄ですよ」
低い声は甘い。
フィオナに向けらえた礼は、昔から続く騎士の作法そのものだ。
華やかな夜会の場で見るのは珍しい。しかし背の高いこの男には、堅苦しく過剰な仕草もよく似合っている。下手な伊達男たちの甘い微笑みより魅力的だろう。
……この男が、フィオナに向ける意味は別として。
シリルは微笑みを保ちながら、そっと周囲を見る。
ダンスの途中でたまたま近くを通り過ぎただけの女性たちが、パートナーのことを忘れたようにうっとりと見入っていた。
(ここまでくると嫌みだよな。……っと、そんな場合じゃなかった。うちの姉さんは……)
うんざりしていたシリルは、はっと我に返って姉の様子をうかがう。
フィオナはまだ椅子に座っていた。静かに微笑んだままだ。
でも、シリルは内心で首を傾げた。
姉フィオナが浮かべている微笑みは、苦労して習得した「人の心を掴む麗しき微笑み」ではない。シリルが教えようとは思いつきもしないような……今までに見たどんな微笑みよりも圧倒的に美しく、ぞっとするほど冷たい顔だった。
(こんな表情、いつ習得したんだろう。……あ、もしかして姉さんは怒っている!? 気持ちはわかるけど、今は我慢して! お願いだから外聞を気にしてくださいっ!)
シリルが密かに青ざめた時、フィオナがひときわ艶やかに笑った。
まだ音楽が軽やかに続いているのに、フィオナの笑みを見た人々は我を忘れたように立ち止まり、息を呑んでいる。
シリルも、気圧されたように姉を見つめてしまう。
誰もがみじろぎを忘れて立ち尽くす中、ローグラン侯爵の薄い笑みも消えていた。
「お久しぶりですわね。ローグラン侯爵。いつも何かとお忙しい侯爵に会えるなんて、確かに夜会は有益ですのね」
座ったまま、フィオナはひらりと扇子を動かす。
その動きで我に返ったのか、ローグラン侯爵がわずかに眉を動かす。ゆっくりと瞬きをして、再び薄く笑った。
「……夜会は楽しんでおられるかな?」
「ええ、もちろん」
フィオナはそう言って、花のように笑いながら手を差し出した。座ったまま、低い位置に。
まるで、服従の証を求める古き時代の女王のようだ。手の甲にキスをするためには、片膝をつかなければならないだろう。
シリルは唖然とした。
だが同時に、無性に笑いたくなる。
姉フィオナがどういう発想をして、どんな役柄を演じているかはわからない。だが、本物の女王のように美しく、高慢で、幾度となく婚約を壊してきた男への冷たい怒りに満ちている。
貴族たちがこれだけ注目している前で、南部の大領主である侯爵が、王族ではない女の前で片膝をつくなんてあり得ない。しかし先に忠誠を誓う騎士のような礼を仕掛けてきたのは、ローグラン侯爵だ。
(意趣返しとしては最高だね! やるなぁ、姉さん! ……でも、そろそろ冗談として止めるべきかな)
心の中で快哉を叫びつつ、冷静に判断したシリルが一歩踏み出した時。
カツン、と音がした。
ローグラン侯爵がフィオナの前へと進み出ていた。冷たい大理石の床を靴がゆっくりと踏んでいく。
すぐに黒髪の男は足を止め、姿勢を正した。
緑色を帯びた白翡翠の目がフィオナを真っ直ぐに見つめ、軽く腰を屈めてフィオナのほっそりとした手を取る。それから目を伏せてさらに腰を折り、膝も深く折って手の甲へ口付けの形式をとった。
もちろん、本当に唇を押し当てるわけではないし、片膝も床につけていない。
だがその姿は、服従を示す騎士そのものだ。
フィオナの唇の端が、わずかに吊り上がる。勝ち誇ったような、冷たく侮辱するような、でも怖気がするほど美しい微笑みだ。
シリルはまたその微笑みに呑まれかけ、でもすぐに我に返って明るく笑ってみせた。
「さすが、ローグラン侯爵は何をしても絵になりますね! 女性陣は皆、あなたに夢中になっている。これでは僕の影が薄くなってしまいますよ」
「ご謙遜を。私など、年若いご令嬢たちにはただの年寄りでしかないだろう。……そう思いませんか、フィオナ嬢」
ローグラン侯爵は軽やかに笑う。
その間にすでに手を離し、何事もなかったように姿勢を戻している。
つまらなそうな顔をしたフィオナは、ふと好奇心に負けたようにローグラン侯爵を見上げた。
「ローグラン侯爵はそんなに年寄りでしたの? 秘密主義すぎて、あなたの年齢は誰も知らないのではないかしら」
「秘密というほどではないから、ヒントをお教えしよう。私はあなたより十歳上だ」
「あら、意外に歳を取っているのね。…………ということは、三十一歳?」
フィオナはふとつぶやく。
それから、はっとしたように口を閉じて忙しく扇子を動かした。
しかし運悪くちょうど音楽が途切れていた。ほんのつぶやきでも周囲によく聞こえていたようで、ダンスを終えて戻ってきた人々も含めて、周囲で一斉に静かな騒めきが起こった。
「そうか、ローグラン侯爵は三十一歳か。まだ若いな。この先もあの侯爵家は安泰だな」
「だが特別若くもない。そろそろ本当に結婚するのでは?」
「次の婚約が本命ということだろうな。どこの令嬢を選ぶのやら。しかし、フィオナ嬢はもう二十一歳なのか。そう言えばシリル君も立派な青年になっているし、そんなものだな」
「……フィオナ様、まだそんな年齢だったのか。もっと上かと……いや、迫力がすごいという意味だけど!」
「二十一歳でもフィオナお姉様はとてもお美しいわ! 私もフィオナお姉様のような女性になりたい!」
「フィオナ様が二十一歳と言うことは、シリル様は二歳年下だそうだから、十九歳なのね!」
新しい情報に飛びついた貴族たちが、ひそやかに囁き合う。
その囁きの内容は、やがてカーバイン公爵家の姉弟へと移っていく。好奇心が丸出しな声もあるが、好意的で熱心な声が多いのは、崇拝しきった若い男女が周囲にいるためだろう。
周囲のささやきを聞いてしまったシリルは、しかし何も聞いていないような爽やかな微笑みを浮かべ、こほんと咳払いをした。
「姉さん、そろそろ喉が乾かない? 飲み物でも持ってこようか?」
「……あ、ええ、いただこうかしら」
フィオナが頷くと、シリルが周囲を見回す。
しかしそれより早く、ローグラン侯爵が通りかかった給仕に合図を送って呼び寄せていた。
酒杯を受け取ると、それを女王に捧げるように恭しくフィオナに差し出した。
「もっとあなたと話をしていたいが、他にも挨拶をしなければならない人を見つけてしまった。失礼する」
フィオナが反射的に受け取ると、改めて丁寧で恭しい礼をした。
去り際に周囲の女性たちに薄い笑みを向けて、大きな歩幅で歩いて行く。途中で何度も挨拶を受けながら移動し、やがて富豪として名高い貴族と立ち話を始めた。
まだうっとりと見送っていた女性たちは、聞こえてくる話し声に引き寄せられるように、ふらりとそちらへ向かっていく。富と権力の匂いをかぎつけ、幾人かの男たちも取り巻きの中へと加わった。
ほどなくまた軽やかな音楽が始まり、若い男女がフィオナに会釈をしてから再び楽しそうに踊り始める。
それでもまだ、多くの話題がまだローグラン侯爵のことで盛り上がっている。それと……フィオナの年齢についても。
シリルは虚ろに微笑み、姉を見る。
予想通り、フィオナは微笑み続けている。しかし、また半ば硬直しかけていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます