青の金剛石

成瀬哀

青の金剛石

 美しく花が咲き乱れる野原には、たくさんの子どもがいた。皆が思い思いに遊んでいるのを若い男が一人、眺めていた。彼は子どもの数を数えて満足そうな笑みを湛えた。これから始める『お話会』にはちょうどいい人数だ。

暗い影の中、彼はふうっと息を吐くと昼の太陽が照らす光の中へと進み出た。

「さあて、皆、お話を聞きたくないかい?」

「きくー」と答える声が上がると、追いかけっこしていた子も、花輪づくりをしていた子も、樹によじ登っていた子も皆、彼の周りに集まって座った。

「どんなおはなし?」

 目のくりっとした男の子が訊いた。

「多分皆は知らないと思うよ。まあ、聞いててごらん」

 彼は集まった子どもたちに笑いかけると、話し始めた。

「物語の始まりは、遠い遠い昔のこと――



 あるところに、とても仲のいい夫婦が住んでいました。夫はとても勤勉で、毎日仕事の為に出かけていました。奥さんは悩める人の相談にいつも乗っていました。二人はそれぞれとてもいい評判の持ち主でした。各々、きっと生まれてくる子どもも、優秀な子であろうという噂までたっていました。しかし、二人には問題がありました。

奥さんは天使でしたが、夫の方は悪魔だったのです。


 二人がどういう経緯で、何故夫婦にまで関係が深まったのかは、誰にも分かりませんでした。いえ、知りませんでした。二人が夫婦であるということは、誰も知らなかったのです。二人は互いの身分を考えて、密かに結婚していました。彼らは先ほどの通り、評判が良かったので、奥さんは「いつか優秀な天使を授かる」と言われ、夫は「子どもは優秀な悪魔になる」と言われていました。

 時間は流れ、二人は赤子を授かりました。

二人はとても幸せでしたが、ここで二つの問題が生じました。

二人が夫婦であることが知られてしまうということ。

それと――

生まれてきた赤子は天使なのでしょうか、それとも悪魔なのでしょうか?


 二人の関係は、予期していたよりも早く知られました。


 二人は互いに、互いの世界について――天界と地獄について――話し、敵対すべきではないと、互いを認め合い共存すべきだと主張し合いました。けれど、悲しいことに誰も理解してくれません。誰もが「相手に騙されている」と二人を否定しました。誰もが互いの存在を――天使は悪魔を、悪魔は天使を――いがみ合い、忌み嫌いました。誰も二人の主張に耳を貸しませんでした。誰一人として、二人の味方にはつかなかったのです。

 やがて、二人は処刑されることになりました。

問題の二人の子は、魔女の手による追放処分とされました。追放先は天界でも、地獄でもない世界――地上です。


 レイウェン地方には、たくさんの人間が住んでいました。

そのうちの一つ、ウェルトン家の前に魔女はかごに入れた赤子を置いて去りました。

 しばらくすると、狩りから帰って来たウェルトン氏が赤子を見つけました。かごには赤子の名前が書かれた紙も入ってありました。彼はかごをそっと抱えて家の中に入りました。ウェルトン夫人が彼を笑顔で出迎えると、彼は人差し指を立てて口許に添えました。

「神様からの贈り物だよ」

 そう言うと、彼は赤子を夫人に見せました。

 夫人は口許に両手を当て、息を吞みました。夫のもとへ駆け寄ると、かごの中をそっと覗いて、可愛らしいその赤子を見ました。

「どうなさったの?」

 小声で尋ねると、ウェルトン氏はにこやかに答えました。

「ポーチに置かれてたのさ」

 彼は優しくかごの中の赤子を見つめました。

夫のその小さな瞳にはキラキラとした輝きが湛えられ、美しく輝いていました。夫人はその瞳を見て、彼の心算を計らいました。

「名前が必要ね」

「この子にはもうついているよ」

彼はかごの中から一枚の紙を取り出して夫人に見せました。その紙には【Lucifer】とあります。

「我が家へようこそ、ルシフェル」

 ルシフェルはシルクの毛布に包まれて、愛らしくすやすやと眠っていました。


 さて、ウェルトン家には五人の子どもがいました。

長男のルーカス、次男のスナイデル、長女のアナスタシア、次女のメーデル、三女のヘザー。彼らは両親に似て朗らかで気立ての良い、優しい心の持ち主でした。

彼らは新しい家族を歓迎しました。中でもヘザーは、自分にまるで本当の弟ができたかのように喜び、よくルシフェルの面倒をみてやりました。ミルクをあげたり、おしめを換えたり。泣き喚いた時にはあやしてやって、ルシフェルがよちよち歩きを始めると誰よりもそれを嬉しく思いました。

 月日は経ち、ルシフェルは六歳を迎えました。

その頃になると、彼は違和感を覚え始めました。

まず、彼には他の人には見えないものが見えていたのです。ご近所が亡くなっても、月の出ている間はその人を見ることができ、話すことすらできました。また人間という生き物に、時としてうんざりしていました。

 何故彼らは空を飛ばず、歩くのか。

 何故彼らは植物や動物を食べるのか。

彼は不思議でなりませんでした。彼には分かっていたのです。自分が大空を飛べることも、本来ならば他の物を食べるべきであることも。

それでも、彼は家族に愛されていたので幸せでした。

 九歳の誕生日のことです。

昼下がりになり、ウェルトン一家は仕事に一息入れてピクニックへ向かいました。

 林を抜けて小高い山を登り、開けた開拓地へと出ました。そこからは滝が見え、流れる河も柔らかな陽光も、晴れ渡った大空も独り占めできるようでした。

ルシフェルは言葉にもできないほど美しい景色を見て、小さく声を上げました。彼は目を輝かせて辺りを見回しました。

アナスタシアはメーデルとシーツを広げ、ルーカスとスナイデルはパンと葡萄酒を用意しました。夫妻はヘザーと来る途中で採った木の実をどっさり抱え、シーツのそばに置いてます。

 ルシフェルはうずうずしてきました。空を飛びたくて仕方がないのです。自分では飛べると知っているし、分かっているのに、今まで彼は飛んだことがありませんでした。彼はずっと飛びたい気持ちはあったのですが、いつも彼の周りに人がいて、彼は飛べずにいたのです。

ですが今、その人の注意は他の場所にあります。今ならその目を避けることができます。今なら彼は自由です。

それが分かった時、彼の心はパッと弾けました。

 彼は辺りを走り回って助走をつけると、そのまま勢いよく飛び出しました。

宙に飛び出たルシフェルは下へ下へと落ちて行きました。彼は足を広げてバランスをとると、力を籠めて宙を蹴りました。すると、どうでしょうか。彼の身体は宙で止まり、彼の思う方向へと動きました。好きな方向へ思うがままに飛べたのです。

風を切る音が心地良く彼の耳へ響き、風は彼を追うようにして吹きました。

 空を飛ぶのはなんて気持ちが良いんだろう。

彼の口許は綻び、喜びの叫びを上げました。彼はこれまで、こんなにも素晴らしい自由を味わったことがありません。ようやく退けてきた願いが叶ったのです。この時の彼には快感という言葉が相応しいほどでした。

 空を飛ぶコツを掴むと、彼は下降して大地に触れ、河の流れに逆らうようにして飛び、そこを泳ぐ魚が上げる水飛沫をくすぐったく思いました。ルシフェルはそのまま滝壺に突っ込んで、滝の中を飛んで上がっていくと、滝の頂で再び歓喜の声を上げて、水飛沫をまき散らしながら回転して地面に降り立ちました。彼はまた大きな笑みを湛えました。澄んだ水を頭から浴びたので冷たく、顔を赤くするほど寒かったのですが、そんなのはへっちゃらです。彼は興奮をしまいきれないまま、また空へと飛び立ちました。すると、何処からか彼を呼ぶ声が聞こえました。けれど、その声はウェルトン氏でも、夫人のでも、ヘザーでもなく、ルーカスでもない。スナイデルでもなく、アナスタシアとも、メーデルともまた違う、聞いたことのない声でした。そしてその声は、自分の本名を呼んでいたのです。しばらくすると、また聞こえました。ルシフェルは注意してそれを聞き、その声が聞こえた方へと飛んで行きました。


 驚いたことに、そこは滝壺の裏にある洞穴でした。

「誰かいるの?」

 ルシフェルがそう尋ねると、彼の声は洞穴に反響しました。何だか気味が悪くて、彼は身震いしました。真っ暗な洞穴には、何か魔物でも住み着いているかのような不気味さがあったのです。ルシフェルが立ち去ろうとすると、突然、奥で二つの目が光りました。その目が段々と近づいてくると、周りにあった松明に明かりが灯されていって、その主を晒しました。

「久しぶりだねえ、ルシファー」

 漆のように黒いうねりを持った髪を腰まで下ろし、鮮血のように真っ赤な唇。深い緑をした瞳をして、黒に近い紫色のローブを来た女性は、そう言うとルシフェルに近づいて微笑みました。

「随分大きくなっちゃって。覚えてるかい?」

 彼女は彼のそばに佇むと、彼の頭を撫でました。

「まあ、覚えてないだろうねえ」

「あなた、誰?」

 ルシフェルは警戒しながら訊きました。彼女は笑いながら立ち上がると、ルシフェルに微笑みかけました。

「誰かって? あたしゃ、貴方様をここへお連れした魔女さ」

「魔女?」

 ルシフェルは眉間にしわを寄せました。

「どうして魔女なんかに」

「あんた、何にも分かってないんだねえ」

 魔女は口元を膨らませると、勿体ぶるように言いました。

「そりゃあ、そうか。誰も何も話さなかったんだから」

「それ、どういうこと?」

 ルシフェルはこの魔女が自分に何て言うか、何となく予測がついていましたから、聞くのを少し怖く思いました。けれど、それよりも好奇心の方が勝っていたのです。

「自分でも分かっているんだろう? 此の地には自分が合わないことや、自分が人間とは違うことが」

 魔女はそう言いながら、洞穴の奥へと進んでいきます。

「自分が食べるべきものが異なることも、彼らには見えないものが自分には見えることも」

 奥に供えてあったに置かれた壺を手に取ると、魔女はルシフェルの方へ振り向きました。

「もちろん、他にも」

 ルシフェルは黙って水溜まりが松明の明かりを反射する地面を見つめました。彼には思い当たる節が幾つもあったのです。以前、彼はヘザーの大切にしていた花がしおれてしまったのを見て、その花を蘇らせたことがありました。また彼は、家畜の豚をルーカスやスナイデルのように武器を使って殺すのではなく、ただ手を添えてその息の根を止めることもできたのです。

「ほら。あるんじゃないか」

 魔女は不敵な笑みを湛えました。

「でも――」

「何だい? 今日だって、ようやく念願だった空を飛ぶことも出来たんだろう? 人間が見ていたらできないことが出来たんだろう?」

 ルシフェルは魔女を見上げました。高い鼻が彼女の顔を暗く染めていました。

「それは別に何ら悪いことじゃないさ。ただ、人間にはできないこと。それだけなんだからねえ。そりゃあ、当たり前だよ。何にしたってあんたは――」

 魔女は壺の中から火を吹く鳥を出して、指に乗せました。

「人間じゃないんだからさあ」

 彼女は壺を祠に戻すと、指に乗せた鳥をもう片方の手で撫でました。

「人間じゃないって」

ルシフェルは納得できませんでした。しかし、理解はしていました。ただその事実を肯定したくなかったのです。

「そんなわけないでしょう? だって僕を見てよ」

 彼は両手を広げて魔女を見つめました。

「いたって普通な人間だよ」

 魔女はルシフェルを笑ってあしらいました。

「見た目はね」

 彼女は鳥に指を突かれ、苦痛の表情をすると、空いている指をパチンと鳴らしてその鳥を燃やしました。

「あたしゃあんたの親を知ってる。でも、あんたは知ってるのかい? 本当の親をさあ?」

 ルシフェルは戸惑いました。自分の親はウェルトン夫妻だと思っていたのです。

「僕はウェルトンの子だ。だから僕の両親は――」

「人間なわけないだろう」

 魔女はベルベットのような声で冷ややかに言いました。

「あたしはあんたに言ったはずだよ? 『ここにお連れした』ってさあ」

 彼女はまた口端に笑みを繕いました。ルシフェルは何だか恐ろしくなってきました。これ以上の真実は聞きたくないという気持ちがしてきました。けれど、彼は動けなかったのです。代わりに彼は唾を飲み込んで訊きました。

「じゃあ、貴女が言う僕の親は、誰なの?」

 魔女は両手を胸の前に拝むようにして組みました。

「一人は私のご主人様よ。それはそれは、ご立派な方でねえ。随分とよくしていただいたものさあ」

 彼女は恋い焦がれるように瞳を煌めかせました。

「もう一人も、そりゃあ素晴らしいご身分だと聞いたよ」

 ぶっきらぼうに言い、魔女は紅を差して手鏡を見ました。

「まあ、そこら辺は別に構いやしないね。兎に角、あんたのご両親は特別評判が良かったんだよ。でもね、一つだけ問題があったのさ」

 ルシフェルはヒンヤリとしたものが、蛇のように這いずり上がってくるような嫌な感覚に囚われました。と同時に、その冷たい蛇が頭をかじるかのような、変な痛みも感じられ、苦しい程でした。彼は息を止めていたことに気づくと、意識して何とか空気を吸いました。

「それじゃあ、その問題って?」

 彼は自分の声が震えていることに気づきました。彼自身、その答えが何なのか自分の力から推測していたのです。

「なあに、簡単なことよ。夫婦は天使と悪魔だったのさ」

 ルシフェルは、その言葉の重く鋭い刃に切り裂かれました。けれど彼は何も言わずに、目をつむってそれを受けました。そしてまた、その答えをりながら尋ねました。

「二人はどうなったの?」

「お察しの通り」

 ゆっくりと息を吸い込むと、彼は更にゆっくり吐き出しました。そして、目を開いて微笑む魔女を見ました。

「それで? 二人の問題品はここに置いてたのに、今更何しに来たの?」

 魔女は真っ赤な唇を広げて腕を組みました。

「自分の立場も察したのねえ。よく出来た子だこと」

 彼女は祠の方へと再び歩んで行くと、何かし始めました。

「おまえさんには、二つの道がある。天使の道か、悪魔の道か。これまで様子を見てきた感じだと、どちらも選べそうだからねえ。好きな方を選べばいいさ」

 ルシフェルはふと疑問に思いました。

「人間になる道はないの?」

こだました彼の声が消えたかと思うと、洞穴いっぱいに魔女の高らかな笑い声が響き渡りました。

「人間にだって? あんたも愚かなことを考えるねえ」

 再び彼女は嘲笑のような笑い声を上げました。ルシフェルにはそれが理解できませんでした。

「どうして?」

「どうしてって、あんた、あんなに醜くて汚らわしいものはないよ」

「でも――」

 ルシフェルは心からそれを否定しました。彼が今まで見てきた人々は、全くそんなことはありませんでしたから。彼の頭には、明るく優しいヘザーの姿が映りました。

「まあ、どう足掻いてもそれは無理だからねえ」

 魔女はあっさりと彼の願いを蹴りました。

「言っただろう? あんたは天使か悪魔か、それだけさ」

 彼女は動かしていた手を止め、振り返りました。

「さあ、どうするんだい?」

 ルシフェルはしばし思案しました。けれど、答えは自ずと出てきました。

「天使に、なれる?」

「もちろんさ、私としては気に入らないけどね。でも、お手伝いはさせてもらうよ」

 魔女は祠から二つの壺を取って来ると、片方をルシフェルに渡しました。

「その中には猛毒が入っているよ。こっちの壺には花が入ってる。この花を枯らさずにその毒を浄化できたら、まずは合格さ」

 彼女はまた不敵な微笑みを湛えると、自分の持っている壺をルシフェルのそれの隣に据えました。

魔女の壺の中には、澄んだ水にヘザーの好きな花が浮かんでいました。

ルシフェルは空いている手を壺に添えると、じっと一点を見つめました。実際そこには何もありませんでしたが、彼の目にはヘザーが浮かんでいたのです。彼女の柔らかな笑い声が、朗らかな笑顔が、彼を見つめる夜空の星よりも美しく輝く瞳が。

ルシフェルの手は、ソロソロと壺の口を塞ぎました。中にある花の生き生きとした温かさが指先にまで届くようでした。彼はその生命力をほんの少し借りると、隣の毒が入った壺へと手を移しました。先刻とはうって変わった冷気に満ちた壺の中で、彼はゆっくりと花の生命力を用いて浄化の光を与えました。

すると、壺は徐々に冷気がなくなり、温かみを持ち始めて、最後にはカランという音を立てました。

 ルシフェルは魔女を見やりました。そして、壺を塞いでいた自分の手を外しました。

魔女の持っている壺の方は、先刻までと変わりなく元気に花が咲いてました。一方、ルシフェルの方は――。

「成功だね。これで、あんたも天使の見習いだよ」

 魔女はルシフェルの壺から掌サイズの石を取り出しました。それの見かけは、ただの真っ白な石でした。

「いいかい? これは先刻の猛毒をあんたが浄化して固めてできた石だ。要にこれはあんたの癒しの力の塊さ」

 魔女は祠に壺を戻すと、石をルシフェルに握らせました。

「これが無色透明で、月光を浴びると七色に輝く石に変わって初めてあんたは晴れて立派な天使となる。それまではくだらない人間の悩みでも聞いて、他人の為に尽くすんだね。そうすりゃああんたの血筋だ、立派な天使さ」

 魔女はそう言うと、先刻の壺から花を取り出しました。ルシフェルはじっとその石を見つめました。自分は悪魔ではなく、天使になれると思うと心が落ち着きました。

「ああ、そうそう。忘れちゃいけないよ」

 彼女は花を掌に乗せて注意の言葉を投げました。

「天使になるまでは、誰にも自分の真の姿を教えちゃ駄目。それと、その石は輝きを持ち始めたら見せてもいいが、決して他人に触らせないこと。あんたの癒しの力が弱くなって、天使にはなれなくなるからねえ」

 魔女が花の花粉を吹くと、ルシフェルは気が遠くなりました。そして気がつくと、ピクニックをしていた山にいました。もちろん、その手中には石が収められてました。


 それから、天使になるための、いわば修行の日々が続きました。ルシフェルは家の手伝いをすることはもちろん、人間により切られ、むしられた草木に生命の糸を与え、悩める人の相談に乗ってやりました。生命体を生き返らせることは禁じられましたが、他にも病にかかった人には病を取り除いてやり、苦しみ喘ぐ人はなくなるよう尽くしました。食事は人間と同じものではなく、水や無精卵など、なるべく命を奪うことはしませんでした。

 流石にここまでくると、ウェルトン一家は心配になりました。けれど、ルシフェルは「大丈夫だよ」と彼らに言って、自らの癒しの力で彼らから自分への心配を失くしたのです。

ルシフェルは毎日自分の石を見て、早く輝きを持たないかと思いました。彼はヘザーに美しく輝くようになった石を見せることを楽しみにしていたのです。

 それからまた時間は流れ、ルシフェルがもうすぐ十三歳を迎える頃でした。

 ウェルトン夫人が夕食の準備に取り掛かってる間に、ルシフェルはこっそりと家の外へ出ました。

澄んだ空気に包まれて、彼はゆっくりと呼吸しました。ふと彼は足元に視線を落として、辺りを見回しました。辺り一面、植物が生えていますが、どこも足跡や馬荷の跡が残っています。彼は溜息を吐くと、周りに誰もいないことを確認し、神経を集中させて片足を踏み込みました。すると、どうでしょう。足元が光ったと思うと、水面に雫が落ちて広がるように、輝きが一瞬にして広がりました。光は瞬く間に消えてしまいましたが、地面は何の痕もなくなり、生き生きとなったのです。

 これは全て彼の日課でした。そうして、彼はまたいつものように石を取り出して月に当てました。残念ながら、今宵も石は七色には輝きません。彼は石を持って伸ばした手を胸元へと戻しました。石をしまおうとしたのです。けれど、彼は変化を見つけました。二年ほど前から、白から無色透明へと変わり始めた石に輝きが宿ったのです。それはまるで金剛石のようでした。とても綺麗に輝くそれを見つめるルシフェルの瞳も、同じように煌めきました。これで、ヘザーにようやく見せることができます。ヘザーはこれを見たらどんなに喜ぶでしょうか。どんなにはしゃぐでしょう。彼は彼女の喜ぶ姿を見たかったのです。天使になれるほどまではなっていないのに、彼は達成感すら感じていました。はやる胸を押さえてつい笑顔になるのも押し殺すと、彼は石をしまって家へ戻りました。

 皆が夕食を済ませると、ルシフェルはヘザーを自分の部屋に招きました。

「どうかしたの?」

 ヘザーは不思議そうに尋ねました。それもそのはずです。ルシフェルがこんな風に彼女を部屋に呼んだ事はありませんでした。

「秘密にできる?」

 彼は自分の声に幾らかの興奮が混じっていることを自覚しました。

ヘザーが頷くのを見ると、彼は懐から例の石を取り出しました。彼女は小さな声を上げると、もっとよく見ようと手を伸ばしました。けれど、それは妨げられました。

「ごめん、でも触るのは駄目なんだ」

「どうして? こんなにも素敵なのに」

 彼女は眼を爛々とさせて訊きました。

「分かってる。でも――」

 そこまで言って、彼はしまったと思いました。何故触れてはいけないのか理由を考えていなかったのです。

「こんなに素敵だから、あんまり触ると輝きを失っちゃうんだよ。だから、この綺麗さを保つためなんだ」

 彼は苦し紛れに何とかそう言って笑顔を作りました。

ヘザーはふうんと腑に落ちないように呟くと、何処で手に入れたのか訊きました。これもまた、ルシフェルの考えにはなかったので、彼は「河原の石を磨いたんだ」と言いました。幾ら磨いても河原の石が金剛石のようになることはないのは、お互い重々承知でしたので、ヘザーは疑いを持って、ルシフェルは冷や汗をかいてました。

「宝物を見せてくれてありがとう」

 ヘザーはそう言うと、ルシフェルの額にキスをして部屋を後にしました。

 ヘザーの反応はルシフェルの期待通りとはいきませんでした。ですが彼は幸せでした。彼女は喜んでくれたようですし、何よりヘザーがキスしてくれたのですから。


 ベッドから起き上がると、ルシフェルは大きく伸びをしました。そして欠伸をしながらふと違和感を覚えました。彼は嫌な予感もして、懐に手を伸ばしました。けれど、それは石に当たることはなく、身体に触れたのです。彼は身震いしました。自分の身体のあちこちを触って、石を探しました。けれどありません。彼は部屋中をくまなく探しました。ベッドの下、シーツの隙間、ありが隠れるのがやっとなほどの隙間までも。あらゆる箇所を探しましたが、それでも石は見つかりません。

彼の呼吸は徐々に早くなり、浅いものになっていきました。また冷たい蛇が這ってきたかのような、嫌な感覚が彼を襲いました。彼の頭には一つの疑問があったのです。

 ヘザーが盗んだのか……?

そんな疑いは持ちたくありませんでした。そうではないことを心から願い、部屋の何処かにあることを祈りました。けれど、石は一向に出てきませんでした。

 疲れ果てたルシフェルは自分の部屋を出ました。

皆は朝食をとっていましたが、彼は食欲がなくて家から出ようと戸口へ向かいました。しかし――

「ルシフェル、お早う。ありがとうね」

ウェルトン夫人の声が背後で聞こえました。彼女の声は「ありがとうね」と言っていました。けれど、彼は感謝されるようなことをした覚えはありません。夫人の方へ振り向くと、笑顔の彼女の手にあの石が、金剛石が見えました。

「どうして――」

「おまえが一生懸命磨いたって聞いたよ。石もこんなに綺麗になるのね。ヘザーから聞いた時は何かと思ったよ」

 ヘザー……。

あの冷たい蛇は彼の背筋を這い上がり、彼の頭をカプリと噛みました。噛まれた痕から、その冷気は毒のように彼の身体を駆け巡っていきました。

 ウェルトン夫人はそんな彼をよそに、ニコニコしてその石を皆に見せました。彼女の隣には同じように笑うヘザーの姿がありました。

「磨くっていう行為には願いをかけるっていう行為もあるんだ。だからこの金剛石のような石を願いの金剛石ホープダイヤモンドって呼ぶことにしようじゃないか」

ウェルトン氏の提案に皆賛成しました。ただ一人、ルシフェルを除いて。彼はヘザーから目が離せませんでした。

 朝食が済むと、彼はヘザーを部屋に呼びました。

「何てことしてくれたんだ。僕は君を信じていたのに」

彼女は笑うと、彼の目を真っすぐに見つめました。

「貴方も私に嘘を吐いたでしょ。お互い様よ」

ルシフェルは自分の中で赤黒いものがフツフツと湧き上がるのを感じました。

「あれは命より大切なものだったんだ。なのに」

彼は知りませんでしたが、ヘザーのことを愛していました。誰よりも、何よりも大切に想っていたのです。

「なのに君のせいで台無しだ。折角今まで頑張ったのに」

彼は打ちひしがれました。彼にとって天使になる道を絶たれたも同然でした。

「何? 私や家族が触ると穢れるとでも言いたいの?」

ヘザーは腕を組んで無力なルシフェルにきつい言葉を浴びせました。

「最低ね」

それだけ残すと、彼女は部屋を去りました。

 その日の晩、彼は夫人の部屋から金剛石を取ると家の外へ出ました。そうして、また地面に光を与えようと片足を踏み込みました。しかし、何も変わりません。彼は何度も試みましたが、足跡も馬荷の跡も消えることはありませんでした。彼は辛くて、悲しくてやりきれずに涙を流しました。一度頬を伝った涙はとめどなく流れて、彼の潤んだ瞳から溢れました。

 家に入ると、皆は食卓についていました。悲しいことに、彼の涙は人間には見えません。彼がそのまま部屋へ向かおうとすると、ルーカスが声をかけました。

「飯は食べないのか?」

 ルシフェルは声を上げることも出来ずに、首を横に振りました。

「おまえ、今日一口も何も食べてないだろ」

「いらない」

 何とか絞り出した声で答えると、彼は部屋に戻りました。

 部屋の中で彼は絶望に暮れました。ぐったりとベッドに寄りかかり、何処を見ることもなく座り込みました。掌に握られた〝ホープ・ダイヤモンド〟。命名通り、彼のわずかな願いが込められていた石。その願いも希望も、何もかも消え失せました。と同時にヘザーへの信頼も。

 しばらくすると、外が何だか騒がしくなってきました。外へ出てみると、どうやら馬が一頭逃げ出したようなのです。ウェルトン氏とルーカスとスナイデルが探しに出たと聞いて、ルシフェルも探しに向かいました。

 真っ暗な夜の中を歩いて行くと、スナイデルに遇いました。彼が逃げた方向を知っていたので、二人は一緒に馬を探し始めました。

長いこと歩いていたので、二人は家から離れた川岸まで来ていました。月光で水面はキラキラと輝いていました。

その川の向こう側に、逃げた馬が見えました。二人は顔を見合わせると夢中でそれを追いかけました。その馬はかなりすばしっこかったので、川を右へ左へ何度も飛び越えました。ルシフェルは色々なことで疲れていましたが、何とか馬を捕まえて気を落ち着かせました。

「捕まえたよ、スナイデル」

振り返ってそう言いましたが、後ろには誰もいません。けれど、奥の方でバシャバシャと水を掻く音がします。スナイデルが川で溺れていたのです。川の勢いは激しく、彼を飲み込むようでした。川に入ったらルシフェルも溺れてしまいそうだったので、彼は岸辺から必死に手を伸ばしました。

「掴まって!」

スナイデルはもがいて水流に逆らうと、ようやく彼の手を掴みました。ルシフェルは唸り声を上げながら、精一杯の力で彼を引っ張り上げて仰向けに寝転びました。すぐに起き上がると、義兄の身体を押して水を吐かせました。スナイデルはむせてゆっくり呼吸すると、そのままぐったりとして動かなくなってしまいました。ルシフェルは慌てて彼を揺すりました。けれど彼はされるがまま。脈は止まっていました。ルシフェルは癒しの力を使って助けようとしました。辺りに咲いている花や、川の魚の力も借りて、彼を助けようと懸命に働きました。それも虚しいことに、花々は萎れて枯れていき、魚は水面に浮きあがりました。彼にはもう、癒しの力はなくなっていました。天使の力はないのです。あるのは、命を奪う悪魔の力のみでした。

 亡骸を馬に乗せて、ルシフェルは帰宅しました。ウェルトン氏とルーカスは既に帰っていました。彼はスナイデルの悲劇を話しました。家族はそれを衝撃で迎えました。亡骸は自身が使っていたベッドに乗せられて、周囲には蝋燭が立ち並びました。皆、悲しみに暮れて泣きました。ルシフェルも当然泣いていたのですが、誰も見えません。そして彼にはスナイデルの亡霊が見えました。

彼はルシフェルと目が合うと、驚きながらも言いました。

「おまえ、俺が見えるのか」

彼はゆっくりと首を縦に振りました。

「そうか。おまえ、わざと俺を殺したな」

亡霊の眼は怒りに満ちていました。

「違う」

「おまえは悪魔だ。飯も食わないで生きていけるしな。俺から命を奪って、こうして俺のことも見えてる」

ルシフェルは泣きながら震える声で否定しました。彼の目は大きく大地をかき乱して、彼をふらつかせました。

「おまえは悪魔だ!」

「違う! 僕は――!

 彼は気づきました。彼にはもう一つの道しかないのです。彼は目をつむって奥歯を噛みしめると、ずっと持っていた金剛石を投げ捨てました。

「ルシフェル? どうかしたの?」

 彼のただならぬ様子にメーデルが訊きました。亡霊は彼女の隣で彼のことを睨んできます。

「何でもない」

 歯の間から低い声を出すと、彼は家を飛び出しました。

「ルシフェル!」

メーデルの声が聞こえましたが、彼は振り向かずに走って空を飛んで行きました。


「それで? 何が知りたいのさあ」

洞穴の中で魔女は祠をいじりながら訊きました。

「僕はもう、天使にはなれない。悪魔にしかなれない」

 ルシフェルは感情を押し殺して魔女を見据えました。

「僕はどうすればいい」

「そうさねえ、簡単なことよ」

 魔女は振り向いて口角を上げました。

「呪えばいい。ただそれだけさ」

「呪う?」

「そうさ」

 彼女は近づいてきて、彼の肩に手を置きました。

「ただし、何でもいいわけじゃない。あんたの一番大切なもんに呪いをかけるのさ。そうすりゃあ、地獄への道は開かれるよ」

 ルシフェルは頷くと、洞穴の出口へと向かいました。

「いいんだね? 堕ちることはできるけど、あがることはできないよ」

「そうだな」

 彼は夜空の星を見つめて答えました。

「最初から、信じなきゃよかったんだ」


 洞穴から飛び立つと彼は真っすぐウェルトン家へ向かいました。大切なものがそこにあるのです。

 最初に思い浮かんだのはヘザーでした。哀れにも彼はまだ彼女のことを愛していたのです。なので、彼は他のものを、命よりも大切だったものを呪うことにしました。

 ウェルトン家に着くと、ルシフェルはスナイデルの部屋に入りました。そこにはスナイデルの亡霊を含め、皆いました。

「ルシフェル!」

 アナスタシアは彼に飛びつきました。彼女の涙が彼の肩を濡らしました。

「何処へ行っていたの? 心配してたのよ」

 ルシフェルは温かなものを感じました。けれど、彼はそれを拒絶しなければならないことを自覚しました。

「ルシフェル、おまえ、空を飛べるんだって?」

 アナスタシアが離れると、ルーカスが尋ねました。

「そうだよ。僕は悪魔だからね」

 彼はじりじりとウェルトン家族に近づきました。

「何の冗談だか」

「そうさ、僕は悪魔だ。それと、僕の名はルシファーだ」

 亡霊の目を捉えて言い放ち、それを透かし皆を見ました。

彼の目にはこれまでの幸せな時間が映りました。皆で過ごした日々、人間だと思っていた短い時間、天使になるために誠心誠意尽くしていたころ――。

「仕方ないだろう。君らが僕をそうさせたんだから」

 そして、彼はその思い出に別れを告げました。

「笑うがいい。今まで信じてきた己の愚かさを」

 彼はサッと手を伸ばして、ヘザーが拾っていたホープ・ダイヤモンドに触れました。すると、墨が落ちるように石は青く染まり始め、中に赤い稲妻が十三度光りました。

外では雷鳴が轟き、明かりは消えて、部屋は黒の光に包まれて凍てつくように冷えました。

「せいぜい大切にすることだね。くだらない、そのホープ・ダイヤモンドを」

 彼は低く据えた声でそう言い残しましたが、彼の目には誰にも見えることのない涙が光っていました。

 何処へ行くあてもなく、家を飛び去ったルシファーは泣いていました。宙で静止し、独り泣いていました。

そんな心とは裏腹に、空にはいっぱいに星が煌き、満月は美しく銀色に輝いていました。雲一つない晴天でした。

 しかし、突然稲妻が瞬いたと思うと、低い轟きがしてルシファーの目前に鮮血のように赤い門が現れました。

彼は自分の愚かさを、惨めさを懸命に笑い飛ばすと、涙を拭い払ってその門を両手で開き、くぐって行きました。

 門の向こうには、見たことのない世界が広がっていました。魔物や獣が円状の部屋にびっしりといて、中には悪魔も魔女もいました。部屋中紅と黒で包まれていました。門からは真っすぐな道が出来ていて、その先には玉座のような立派な椅子がこしらえられてあります。

「ルシファー様、貴方様のお父様は素晴らしいお方でした。どうぞ、あの椅子にお掛けになってください」

 彼が現れるなりひれ伏した民衆の内、見覚えのある魔女が一人、彼にそう言いました。

彼は言われた通り道を進み、階段を上がって座りました。あちこちで火柱が上がり、民衆は一気に沸き立ちました。

ルシファーが舞い降りたのは、他でもない地獄でした。彼はそこで魔王サタンの称号を授かりました。


 ――それからというもの、彼は悲しみと怒りで胸をいっぱいにして、人間への制裁を始めました。ホープ・ダイヤモンドはやがてフランスに渡り、各地に禍を降り注いだと言われています」

 男は話し終えると、子どもたちに目をやった。皆恐怖や悲しみの色に目を染めている。

彼はニヤっと笑った。これからがクライマックスだ。

「因みに、君らは俺のことはどう思う?」

 彼の顔は徐々に親しみやすさを欠いていった。

「俺を悪魔だと思うかい?」

 子どもたちの顔は青白く変わり始める。

「その通り。俺はその魔王のせがれだからね。俺の名は、メフィストーフェレスって言うのさ」

 牙をむきだすと、彼は勢いよく子どもたちの頭上を舞った。次の瞬間、彼らは姿を消し、メフィストーフェレスが持つ瓶には十三の魂が光っていた。

「まあ、俺からすれば、君らの方こそ悪魔だよ」

 彼はそう吐き捨てると高らかに笑い、血に染まるように赤い夕陽の中を飛び去った。

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