惜敗
その男、掛川紫苑はドレッドヘアをゴムでひとまとめにする。
モデル顔負けの優男だった。
「買いかぶりは困るな、見田君。全国に一体、何人の渕上先生の弟子がいると思っているんだい?俺の頭に入っている人間の名前でも百人以上はいるよ」
胴着から見える黒い肉体は躍動感に富み、黒人特有の俊敏さと強靭さを備えている事は明白だった。
「去年の春、渕上派だけでやった小さな大会。一位は最古参の進藤賢二だったが俺は三位のアンタが八百長したと思っている…」
進藤賢二。現在の天眼道場の顔役と呼ばれている男であり関西支部を日本一にまで押し上げた立役者である。
地方の潰れかけた掛川道場に、天眼道場への参加を要請したのも進藤賢二だったと見田は聞いている。潰れかけていた掛川道場には渡りに船だったはずだ。
「はは。進藤先生を相手に手加減をしたら肋骨どころじゃすまないだろうね…。顎を砕かれてしまうよ」
掛川紫苑は苦笑する。
見田の推測通り、掛川紫苑の祖父
道場の跡取りとして紫苑の父
だが進藤は自他ともに厳しい男であり身内びいきなどしようものならば雷喝を受けるどころでは済まない。
「前回は勉強も兼ねて【渕上杯】に参加させてもらったが、次は堂々と優勝を狙わせてもらうつもりだ。これで俺の八百長嫌疑は晴れたかい?」
掛川紫苑は微笑ながら片目を閉じてみせる。見田は地面に爪を立てる。戦いはもう始まっていた。
「さてね。だがアンタが最強の血統である事には違いないぜ。人呼んで孤高のボクサー、トミー・ブラウンの孫だからな。空手以外も使えるんだろ?」
「何だとッ‼掛川さんがあのトミー・ブラウンの孫だと⁉」
亜門清之助が絶叫する。
「え…?」
見田は別の意味で驚いていた。てっきり掛川紫苑が渕上派の神輿として担がれたのは本人の実力と祖父の名前があってからこそだと考えていたからである。当然、今日羽柴の道場に来た連中は知っていると勘繰っていた。
「おい、見田‼いい加減な事を言うなよ‼いくら黒人同士だからってみんな血縁関係にあるわけじゃないんだぞ‼」
亜門は本当に知らなかったらしく、かなり失礼な感想を述べている。
「そうだよ、見田君。そもそもトミー氏と掛川君では名字も違うし国籍も違うんだ。誰からその情報を聞いたんだ?」
今度は見田の師匠の若島が食らいついてきた。
見田は若島も知っていると考えていただけにさらに残念な気分になる。
「桜井社長だよ。フラッシュプロレスのサンダーボルト桜井。団体を立ち上げる前に非公式でトミー・ブラウンと戦ったらしい」
見田はア頭をボリボリとかきながら掛川紫苑を見る。掛川は口をあんぐりと開けて驚いていた。
「お、俺の祖父さんがサンダーボルト桜井と戦っていたって⁉そんな話、聞いた事も無えよ‼」
見田は額に手を当て頭痛を堪える。
それから、サンダーボルト桜井とトミー・ブラウンの家庭事情を知っていた大久保と羽柴が見田に代わって説明をしてくれた。見田はこの間に亜門と大久保の戦いで負傷した箇所を冷やす事にする。
「…」
話の後、掛川が見田のところにやって来た。
「その、実は道場のみんなに俺がトミー・ブラウンの孫って事は内緒にしてあるんだ。出来るだけ口外しないでくれ。父親が家出同然で日本に来ているから複雑なんだ」
見田は気力を削がれたような顔で首を縦に振る。
「それでは、ええとこれから模擬試合を始めますがあくまで実戦形式の稽古なので怪我をしないようにお願いします」
再度審判役となった羽柴は疲れ切った顔をしていた。
「はい。わかりました」
掛川紫苑と戦えるならば見田助六に異論など無い。仮に掛川を倒せば大ボスの渕上と関西空手界最強の男 進藤賢二は必ず出てくるだろう。そして渕上を倒せば、見田に苦汁を舐めさせた男である神野千里は黙っていないはず。
獣は奥歯をぎりりと噛み締めた。
まだ癒えてはいない。
神野から食らった膝蹴りは見田の自尊心をも打ち砕いた。
(俺を舐めたヤツは絶対に許さない。神野、お前だけは絶対にぶっ殺す)
ふしゅるぅぅぅぅぅぅ…。見田の内なる獣が唸り声を上げた。
(低い位置に構えているな。大久保君には悪いが彼の見田情報が役立った。アメリカにいた頃、ブラジリアン柔術の大会で優勝したんだっけ?)
掛川は大久保の事を考えながら苦笑する。一年前、渕上が顔に大怪我をして担がれてきた時、それまで決して仲が良かったとは言えない大久保と心の距離が縮まった。
掛川紫苑は中学まで不良少年であり、公正の一環として祖父から空手を習った。その時に出会ったのが渕上誠一である。
天性のセンスを持った紫苑は道場の内外で負け無しだったが、ある日祖父が連れてきた渕上には触れる事さえ出来なかった。
それから十年、掛川紫苑は渕上の背中を追い続けた。
不良仲間は彼の空手家として活動を心から祝福し、彼らに背を押されて第二の人生が始まる。はずだった。
渕上が東京の本部道場に行った時に不吉な報せを聞いた。
他流派の選手と個人的な試合をして左目が失明の危機にあるという物だった。
その時、掛川は怒りに我を忘れ、全身を熱いマグマが駆け巡ったような心境となる。紫苑は一人、道場に残ってかたき討ちを考えていた。
大久保、亜門が道場にやってきて「どうせやるなら三人で」と空手家らしからぬ提案をする。その場にいた全員が笑った。
結局仇討に関しては渕上自身の口から禁止するよう厳しく言われた。
そして祖父と進藤の口から渕上と神野の浅からぬ縁を聞かされて一応、納得したつもりである。
「噂には聞いていたが見田君は無節操だな。これは空手の試合だって宣言しただろ?タックルは禁止されているはずだぜ?」
掛川紫苑はタックル対策を終えた後に平気で言ってのける。
空手は全局面に対応した格闘技だ。リングの上でしか戦えない
「じゃあさ、掛川さん。アンタ、天眼道場に
(言うまでもない。倒して、送り返す)
掛川紫苑の口が耳まで裂けたのかと思う程に開いた。
この時代に格闘技をやっている人間で”紅城強”の名を知らぬ者などいない。
「そうだな。とりあえず怪我させてから警察に通報するよ。恐い人が来ましたってさ」
タンッ。足を後方に引く。
天眼道場出身の選手には珍しい迎撃中心の戦法が掛川紫苑の戦い方だった。
(さすがは”最強の血統”…。万に一つでも反射神経の戦いでは負けないってわけね)
見田は”八卦”を使う為に床を足の指で掴む。すると外野の大久保と亜門が唾を飲み込む音が聞こえたような気がした。
「しっ‼」
見田は電光石火の歩法、八卦からのジャブを打つ。
あえて刻み突きを使わなかったのは掛川紫苑の反応速度を見たかったからである。
掛川は酷薄な笑みを浮かべながら余裕でジャブを回避する。
「ほっ‼」
だが二発目は打たせない。関節が伸び切ったところを手首を掴み捻じってから肘に突き上げ掌底を当てる。
(思った以上にえげつないな。空手で関節攻撃はご法度だろ‼)
ばん‼
見田は是を反対の手で受け止めた。そしてそれはそれなりに痛かった。同時に掛川の一連の行動がダメージを与える為ではない事に感づく。
ぞんっ。
見田は不意に殺気を感じてガードを固めた。
「…正解だよ」
正拳中段突き。空手の手を用いた技では最強クラスの攻撃力を持つ攻撃を見田は正面から受けてしまった。
「か…はっ‼」
息が凍った。
呼吸がこれほどの苦痛を伴う行為であるとは知らなかった。
掛川紫苑の正拳突きは鈍器ではない、蜂の一刺しだった。
「すっげえ痛えよ…。そのリーチでそのスピードは反則だろ…」
見田は口からこぼれる泡を拭き取りながら相手を睨んだ。掛川は呼吸を整え、既に残心の構えに移行している。
「今ので倒れないのか‼」
亜門が片膝を立て立ち上がろうとする見田を見て、叫んだ。
掛川紫苑の正拳突きは身内からも一撃必殺の拳として知られている。
逆正拳突きに至っては渕上、進藤から”禁じ手”と挙げられているのだ。だが見田は立ち上がった。
「一本じゃないよね。…最悪で技有りだよね?」
見田はまだ上手く呼吸が出来なかった。鼻の奥には血の匂いが残っている。そして、息を浅く吸い込む。呼気が骨まで響いていた。
「ああ…。”技有り”だ。でも大丈夫かい?試合、続けられるかい?」
羽柴は心配そうに尋ねる。見田は首を大きく縦に振った。
(…その程度で音を上げられてはこちらも拍子抜けというものだよ)
掛川紫苑は満足そうに笑っている。見田はその場でタッタッと二、三回飛んでから中央の開始線まで戻った。
「始めっ!」
羽柴の号令と共に試合が再開される。見田は大きく踏み出して左の外回し蹴りを放った。
ぶおんっ!
反撃を誘う大技ろいう見田らしからぬ攻撃に若島は表情を曇らせる。
見田が勝負を焦っているのは明白だった。掛川紫苑は蹴り足を払って、踏み込んでショートアッパーを放つ。
「む?」
その時、若島と羽柴は異変に気がつく。掛川の放ったショートアッパーを受けた時、見田の意識が一瞬だけ飛んでしまったのだ。
見田は見ての通りの小柄な体型だが耐久力は重量級に劣らない。
「があっ‼」
見田は自分が一瞬だけ失神した事に気がつかずに前蹴りを放った。
掛川は難無く是を弾いた。そして肘打ち、追い突きで見田を引き離した。
(ああ、ほっぺに肘を食らっちまったか。
見田は赤くなった頬に手を当て、現状を分析する。
掛川は所謂オールラウンダーというヤツで生半可な攻撃を仕掛ければ、全て撃ち落とされて致命的な反撃を受ける。
見田の知っている戦法ならば全て対抗策を講じているだろう。
(やってみるか…。”新月首折り”…)
見田の貌に険しさのような物が生まれた。浪岡流歩法”八卦”の派生技において必殺技とされる”新月首折り”は若島からも使用を禁じられている。
だが不謹慎にも見田は自分の技が掛川紫苑に当たるとは思っていなかった。
「にしししっ」
見田は両手の構えを解いて全身から力を抜いた。昂じる気を抑えた。やがては呼吸の音も消えて、気配さえも消える。
これが浪岡流の骨子”八卦”だった。
(何てヤツだよ、見田助六。こうして目の前にいるのに何も感じない)
掛川紫苑は目を瞑る。そして自身の呼吸の回数を最小限に止めた。
「りゃああああ‼」
見田は大声を上げながら掛川紫苑に向って走って行った。
掛川紫苑はまず三田に向って正拳突きを打つ。見田は野生のカンで是を受け止める。そして後方にバックステップを切り狙いを定めた。
「しゅわっ‼」
見田は足の指、膝、太腿の筋力をフルに活用して大きく飛び上がる。
八卦はかつて”猫の三寸返り”とも呼ばれ体術においては秘術として恐れられた。
その本質とは空中での動作制御。野球の変化球よろしく地面を強力な足の指のピンチ力で掴んで跳躍する。
見田は空中で一回転をしてから踵落とし、サマーソルトキックを放った。
対して掛川紫苑は見田の踵落としを横に避けた後、サマーソルトキックを十字受けでやり過ごそうとする。
見田は笑った。
「にひっ」
「‼」
掛川が異変に気がついた時は既に遅かった。サマーソルトキックの動作を途中で止めて、タックルの仕掛ける。
八卦とは駆け抜け、飛び上がるだけの技ではない。動きを嬌声停止させる技でもあるのだ。
見田は掛川の胴に手を回して押し倒そうとした。当然、掛川は抵抗するが組技には見田の方が一日の長がある。
(このままでは負ける。それだけは避けたい。…これは出来れば使いたくなかったが已むを得んな)
掛川は自分から倒れた後、見田から手を解いて腰に拳を当てる。
(紫苑。くれぐれも無雷は使うなよ)
その無雷を使う前に一瞬だけ、掛川紫苑は祖父の貌を思い出す。そして一瞬だけ引いてから拳を急所に打ち込んだ。
「ッッッ‼‼」
次の瞬間、見田助六の全身に電流が疾走する。見田は身体をビクビクと震わせた後、気を失ってしまった。
掛川紫苑は気を失った見田の下から這い出て立ち上がる。その光景に誰もが言葉を失っていた。
「羽柴先生。一本だ。俺は帰らせてもらう」
掛川紫苑は失神した見田の方を見ずに道場を出て行く。その後ろを慌てた様子で渕上派の選手たちが追いかけて行った。
「あれは…無雷か?どういう事だ?」
若島は気を失った見田を起こしながら掛川の後ろ姿を見守る。
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