de capo

杏野楽

秋山明香の恋 ①

 「過去にもう一度戻れるとしたらいつがいい?」と聞かれたならば、間違いなくあの日と答える。彼が私に勇気を振り絞って告白をしてくれた日。私と彼が恋人同士となった日。あの時の彼のうわずった愛の言葉も、赤く染まった頬も、返事を聞いた後の幼い子供のような喜びようも、全てありありと思い出すことができる。私もきっと驚きと喜びで情けない顔をしていただろう。けれど、そんな顔ですらも、彼にとって一生忘れられないものになっていればいいな、と思ってしまう。


*********************


 始まりはきっとあの時だった。金木犀の香りが秋を感じさせ、風が冷たくなってきた十月の初めのころ。高校ではいよいよ学校祭が三日後に迫り、クラスの出し物である、喫茶店の準備が進められていた。私、秋山明香あきやまあすかも高校生活初めての文化祭を人並みには楽しみにしていた。


 「放課後も使って準備をします。」クラス委員が言っていたのを真面目に聞いていた私は、部活を終えて一年四組の教室に向かったのだが、教室は数時間前の騒がしさが嘘のように静まり返っていた。奥に追いやられたいつもの机はやけに肩身が狭そうだ。運動部の男子が作ったいかにも素人仕事のテーブルと椅子や、百円ショップで購入したテーブルクロス、調理に使うのであろうポット、食器、携帯コンロがそこらに雑におかれている。


 教室には誰もおらず、カーテンが物寂しそうに揺れていた。あれだけごろごろといたクラスメイト達はどこへ行った。数時間前はあれほどやる気に満ち溢れた目で準備していたではないか。もっとも本当に作業をしていたのはほんの一部で、多くは友達と会話をすることを「文化祭準備」と捉えている不届き者だったのだろうけど。私は文化祭準備などそっちのけで部活に行った自分を棚に上げ、内心で怒った。


 こんなことなら部活の友達と一緒に帰れば良かった。最近ストーカーのような人物の視線を帰宅するときに感じるようになって、気味が悪いと思っていたのだ。あくまでそんな気がする程度であって、実害は出ていないのだが。スマホを見ると、仲の良いクラスメイトの真希から「みんな帰っちゃった。私も帰るね!」とメッセージが入っていた。このメッセージを早く見ていれば。というか文化祭三日前だろ。こんな状態で大丈夫なのか一年四組。


 まあ仕方がない。所詮は高校の文化祭なんて前日に一夜漬けで準備をするものだろう。一種の諦めを覚えて帰宅の途につこうとしたその瞬間、後ろから何者かに名前を呼ばれ「ふえっ!?」と情けない声を出してしまった。振り返ると担任の道下先生が少し困惑した表情で立っているではないか。私は恥ずかしいやら申し訳ないやらで慌てて言った。


「すみません…びっくりしちゃって。どうかしましたか?」


「あ、いや大丈夫だ。それより秋山、この教室明日授業で使うんだ。なんとか元の状態に戻してほしいんだが…」


 いやいや、待て。この台風が通った後のように散らかっている教室を一人で片付けろって?そんなの何時間かかるんだ。日が暮れるまでやらせるつもりだろうか、勘弁していただきたい。流石にここは先生にも協力してもらわねば…と思っていたところで悲報を伝えるアナウンスが流れた。


「五時半より、教員会議を開始いたします。教職員の方々は三階会議室にお集まりください。繰り返しますーー-」


 なんてこった、神は私を見放したのか。日常で悪いことをしてきた覚えはない。いや、今日も遅刻から課題の未提出、授業での居眠り、文化祭準備のサボりまでのフルコースをきれいに決めたではないか、であるならばこれは天罰か。そうであったとしても蜘蛛の糸くらい垂らしてくれていいじゃないか。そう思って先生の顔を見ると、先生は有罪の決まった被告人を見る弁護士のような目をして首を横に振り、


「すまんが頼んだ。会議が終わったら手伝うからな。」


 そう言って上へと続く階段へと走っていってしまった。こうして被告人、秋山明香の教室片付けの刑が確定したのだった。


 片付けを始めて十五分ほど経っただろうか。未だに教室がきれいに片付く未来は見えず、焼け石に水の状態だった。女子高校生一人の腕力では一度に運べるものにも制限があり、とても引っ越し業者のようなスピーディな作業は期待できなかったのだ。そもそもこの教室を放置して帰ったクラスメイトはどうなってるんだ。今頃男女で楽しくカラオケにでも行ってるんだろうか。もしそうなら奴らの部屋に、リサイタルの準備万端のジャイアンでも送り込んでやりたい。


 そんなランプの魔人もビックリのくだらない願いを思い描いてみても、この絶望的な教室の状況は改善の兆しを見せるはずもなく、いよいよ長期戦は避けられないことを実感し始めた。諦めて作業に取り掛かろうとした時、教室の扉が開いて、一人の生徒が様子を窺うように中をのぞいてきた。


 訪問者の名前は前田達哉まえだたつや。クラスでダントツの天才で、この前新聞で取り上げられていたほどの有名人だ。「天才高校生発明家!」と紹介されていた気がする。なんとなく胡散臭さは拭えない二つ名を持つ彼だが、今の私にとっては地獄に舞い降りた天使も同然だった。


「ほんっとうにナイスだよ、前田くん。今ちょうど人手が必要でさあ。」


 普段頻繁に話す方ではないクラスメイトに、突然ハイテンションで圧をかけられ困惑気味の天才だったが、


「何か手伝えるならやるよ。何するの?」


「教室の片付けやれって道下先生に言われて、一人じゃしんどいから手伝って欲しい。お願い!」


「いいよ、でもこの片付けを一人でやってたの?無茶苦茶だなあ、道下先生も。」


「ほんとうにね。職員会議終わったら戻ってくるって。」


 本当に「無茶苦茶」なのは先生ではなく、今カラオケに行っている(ことになっている)クラスメイト達なのだが、訂正するのも面倒なので同調しておいた。


「じゃあ、それまでに終わらせるか。秋山、まずこのテーブル二人で運ぼう。」


 なんて行動の早さだろうか、しかも文句やため息の一つもなしに手伝ってくれるなんて。どうやら人間としての出来が私などとは違うらしい。


「わかった、ありがとう。」


 私は彼に感謝の気持ちを述べてから、テーブルに駆け寄って片方の端を持った。


「重っ。私だけじゃ無理だったねこれ。」


「大丈夫か?何なら俺だけで」


 ゴンッ。彼が足を近くの椅子にぶつけて顔をしかめる。その顔が面白くて思わず笑ってしまった。


「せっかくかっこつけてたのに…」


 彼が気まずそうに言う。


「大丈夫?手伝ってくれるだけで十分格好はついてるよ。」


「ならいいんだけど。」


 天才とまで言われていて、さぞかし冷静で頭の切れる人だという前々からのイメージとのギャップが可笑しかった。思っていたよりずっと親しみやすい。これなら今からの長い共同作業も苦に思うことなくできそうだ。私はそう思って机にもう一度手をかけた。


 ◇


 それから三十分後。気づけば時間は下校時刻寸前になっていた。私は教卓を元の位置に戻し、大きな息を吐いた。これで教室は私の記憶の限り元通りになったはずだ。作業を終えることができたのが前田くんの力が大きいのは間違いなく、重いものは率先して運んでくれる等、細かい気づかいが心に染みた。私は改めて彼に感謝した。


「ほんとに助かった!ありがとう。また何かやってほしいことあったら言って。お返ししないと。」


「いいよそんなの。どうせ文化祭の準備手伝うつもりで来たんだから。」


 またかっこつけたかと一瞬考えたが、この言葉に素直に頷いた。突然頼んだ教室の片付けを真面目にやってくれた彼なら、なんちゃっての「文化祭準備」はしないはずだと考えると、この言葉も誇張ではない気がしたのだ。


 まもなく道下先生が様子を見にやってきて、綺麗になった教室に明らかに驚いた顔をした。まさか私一人だけで、下校時刻までにあの世紀末状態の教室を片付けられるとは思っていなかったようだ。そこで先生が前田くんを見つけ、私が彼が手伝ってくれたことを説明すると、納得した顔で私たちに感謝を述べた後に、


「もう今日は下校時刻だ。帰りなさい。」


 と促した。そして多忙な我らが担任は、この後も仕事があるのか急ぎ足で職員室へと向かっていった。まだ若いのに担任を任されているのは勤務態度が良いからだろうか。あの状態の先生を手伝わせるのは気が引けるので、本当に片づけを終わらせられて良かったと思った。


 帰り道は、流れでそのまま前田くんと一緒に帰った。彼はすごく聞き上手で、私の話も相槌を打ちながら楽しそうに聞いてくれた。以前は、天才肌で近寄りがたい人なんて思っていたのだが、面と向かって話してみないとその人のことなんて分からないものだ。


「すごい研究してるんだよね。同い年なんて考えられない。」


「そんなことないよ。最近は学者からも批判されることが多くなってきて、自分がやってることが正しいのか分からなくなってるとこ。」


「そうなの?」


「自分で言うのもなんだけど、革新的な研究だよ。でも、その分使い方を間違えると大変なことになるんだ。」


「なるほど。でもそんなの全部そうじゃない?刃物だって使い方によっては凶器にもなるし、自分が世の役に立つって思ったなら精一杯やっていいと思う。」


「そうかな。」


「そうだよ。批判されても、最後に信じるべきなのは自分の信念でしょ!」


 ここで気づいた。なに上から目線で物言ってんだ私。彼も全くの素人からこんなこと言われたくないだろう。


「ごめん、偉そうだったかも私。何も知らないのにこんなこと言って…」


「いや、大丈夫だよ。むしろありがとう。そうだよな。何があっても自分の信念を曲げたらダメだ。大切なことを忘れてたよ。」


 と、感銘を受けたといった顔でお礼を言われたので少々面食らってしまった。まあ私の薄っぺらい言葉でも、彼の心に届いたのならよしとしよう。


「どういたしまして。」

 

 そう彼に笑いかけた。


 会話を続けているうちに目的地だった駅に到着し、電車通学の前田くんとはここで別れることとなった。おぼろげながらもどこか温かく心和む時間だった。いつもなら後ろからの視線を気にしながら歩く帰り道も今日は不思議と怖くないだろう。と、確かにそう思えた。


 ◇


「えー古文の『知る』は現代語にすると『分かる』になるわけですから…」


 古文の文法の解説をしている教師の声が、眠気と憂鬱の充満している小さな教室の中に響き渡っている。私は眠い目をこすりながら物思いにふけっていた。

 

 あの出来事から二か月ほどが経った。結局文化祭は、一夜漬けの準備でなんとか問題なく喫茶店を開業することができた。お客はそれほど多くはなく大繁盛というわけにはいかなかったが、それでも特に大きな問題が起こることもなかったので、無事に成功したと言えるのではないだろうか。


 あの日教室の片付けを手伝ってくれた前田くんとは、未だに連絡を取り合っている。帰り道にSNSのアカウントを交換していたのだ。直接話したりもよくするようになり、私が一番仲の良い男子であるといっても過言ではないだろう。しかし彼に気があるのか、と聞かれればあるともないとも言えないのが正直なところだ。確かに返信が急に遅くなったりするともやもやしたものを感じるのだが、友達以上の関係を求めているといったこととは少し違う気がする。


 そんな矛盾した思いを抱えながら生きているのってなんか青春っぽいな。やはり私もJKの端くれということか。そんな精神年齢が推定六十歳くらいの考えに浸る私を、授業終了を告げるチャイムの音が現実に引き戻した。授業中のどこか張り詰めた空気が、今日の学校から解放された生徒の安堵と歓喜の声で消えていく。


「ほら、明香、行くよ!」


「わかったー。」

 

 まだ少しぼーっとしていた私は真希(文化祭準備の日、先に帰っちゃった子だ)に呼ばれ、明らかに気の抜けた返事をして立ち上がった。個人的に七時間目の古文は、人を眠らせる魔力を持っていると思う。担当教師の声なんてまるきり眠気を誘ってくるオルゴールだ。


 古文の授業がいつも行われる小さな教室を出て、秋の肌寒い空気を感じながら一年四組のホームルームへと向かう。白塗りの壁の廊下にはパラパラと生徒がいて、終礼を受けるため自分のホームルームに戻ろうとしていた。この学校の特徴の一つとして理系の生徒の数がかなり多いことが挙げられるのだが、私は文系を選択した。受講生徒数がやたらと少ない古文を私が受けているのはそのためだ。ちなみに選択理由は「理科、特に化学が苦手だから。」という怠惰に満ちたものである。


 真希の話を半分眠りながら聞き、歩いているといつの間にか教室についていた。一年四組は文理の生徒が混ざっているクラスで、ホームルームで授業だった理系の生徒は思い思いに過ごしながら終礼を待っている。理系は人数が多いこともあって、広いホームルームで授業を受けることがほとんどなのだ。移動をしなくていいという面だけで見れば羨ましい限りではある。


 それぞれの仲の良い友達といつもと同じような位置で話している、毎日見る光景だ。私と真希も仲の良い友達のところへ混ざりに行こうとしたその時、教室の後ろでいつも話している男子の集団から一人抜け出してこちらへ歩いてくる人がいた。前田くんだ。彼は私の前まで来て少しうわずった声で言った。


「なあ秋元、今日一緒に帰らない?」


「え?」


 一気に目が覚めた。果たしてこれはどういうことだろうか。思わぬ急展開に私の頭のCPUはついていけない。ショート寸前の頭がなんとか捻り出したことはとりあえず断るのはない、ということと、単純な疑問だった。


「いいけど、どうして?」


「昼休みにストーカーの話してくれたよな。それ聞いて心配になってさ、なにかできることないかなって思ったんだ。」


 そういうことか。ちょっとした不幸自慢のつもりで、確かに今日の昼休みにそんな話をした。文化祭の頃は視線を感じる気がする程度のものだったが、最近明らかに人の気配を感じるようになったのだ。

 警察に相談することも考えたが、実際に被害にあっている証拠がないと、取り合ってもらえないとネットに書いてあったので諦めた。親にこのことを話しても、心配はしてくれたが共働きの我が家では車で送ってもらうことはできない。結局、「人通りの多いところを通って、何かあったら電話しなさい。」と言われてその話は終わってしまっていた。


 流石の私も危機感を覚え、最近は真希に家までついてきてもらっている。せっかく言い出してくれたのは嬉しいけど、それで真希に「じゃあもうついてこなくていいよ。」なんて言えるほど私は人の心を捨ててはいない。


「わざわざありがとう、でも今は真希っ…いっ!」


 前田くんに説明しようとした瞬間、真希に思いっきり足を踏まれ、思わずうめき声を出してしまった。私の言葉をさえぎった真希は一歩前に出てそのまま勝手に話を進め始めた。


「そうそう、正直結構やばいと思うんだよねー。前田くん、よかったらこれから毎日でも帰ってあげてよ!」


「予定が合う限りそうするつもりだったけど…」


「だよねだよね!ほら明香もいいでしょ、ちょうど困ってたじゃない。」


 そう言って真希は後ろを振り返り、有無を言わせない笑顔を私に向けた。これで、この誘いを断る理由はなくなったわけだ。しかし私は、前田くんが私にとってどんな存在なのかをまだ決め切れていない中で、この誘いを受けることに躊躇していた。それを悟ったのだろうか、真希が前田くんに背を向けたまま口パクで私に言った。


「明香、慎重すぎ。それじゃ何も変わらない。」


 慎重すぎ。ハッとした。今はその必要はなくても、いつかきっと自分の気持ちに答えを出す時は来るだろう。この誘いを受けることが道徳的にどうか、と考えることを隠れ蓑にして、関係を進める勇気のなさから目を背けている自分自身に気づいてしまった。ここは前に進んでおくべきなのかもしれない。


「そうだね。じゃあお願いしようかな。」


「わかった。なら終礼終わったら校門で待ってるから。」


 そう言って、前田くんは友達のところへ戻っていった。一つ大きな決断を済ませたことによる脱力感と、この後のことに対する緊張が同時に襲って来る。ふと真希の方を見ると、やつは完全にこの状況を面白がっている顔でこちらを見て笑っていた。


「なににやついてるの。」


「いや、明香も大きくなったなーって。」


「親じゃん。」


 少々、いやかなり馬鹿にはしているようだが、さっきの言動を顧みるに、私の前田くんへの気持ちのあるなしに関わらず本気で応援してくれているようだ。このくらいの温度感が私にはちょうど良い。


 その時、教室のドアがガラガラと開いて道下先生が入ってきた。生徒が一斉に自分の席に座ろうと動き出す。私も自分の席に戻り先生が話し出すのを待った。その時、無意識に前田くんを目で追ってしまっていることに気づいたのは、彼と目が合ったからだ。彼が私に笑いかける。私は会釈だけして慌てて目をそらした。



 運動部の男子が入り乱れる下駄箱を通り抜け、私は校門に向かった。色とりどりに染まった大きな紅葉やイチョウの木を横目に見ながら、小走りで通り過ぎていく。秋の冷たい風が容赦なく吹き付けるが、火照った体は寒さを感じなかった。前田くんは私を見つけると手を振って私を呼んだ。


「秋山、こっちこっち。お疲れ様。」


「ありがとう。おまたせ、待ったよね。」


「掃除当番だし仕方ないでしょ。」


 少し硬い空気の中二人は歩き出す。ふと後ろを見ると、顔を見たことがあるくらいの女子グループ三人ほどが、こちらを見てなにやらこそこそと話していた。きっと私たち二人の話だろう。彼女らからは恋バナ特有の浮ついた空気と、どこかで値踏みをするような雰囲気が伝わってきた。もちろん、決して気分のいいものではないが、こうなるのは分かっていたことだ。それでも周りからの視線を気にしてしまう私は臆病者だろうか。平然と歩く彼の顔を見てそう問いかけたくなった。


 そんなことを考えながら、私が話し出すのに逡巡していると前田くんの方から話題を振ってくれた。近くに迫るテストの話だ。

 正直私としては、おそらく勉強がかなりできるであろう彼と比べられるのが嫌で、避けたい話題だったのだが仕方ない。自虐気味に話を進めよう、そう思っていたのだが、意外にも彼の悩み相談から始まった。


「俺現代文がとにかくダメなんだよ。作者の思いとか分からなくない?」


「でもそういうのって案外文章の中に答えがあるよ。それを要約して答えにするの。」


「うーん、文の要約も得意じゃないんだよな。勉強しないと。」


 この年で学術論文等も書いているだろう彼に国語力がないとは思えないが、学校のテストと論文は別物なのだろうか。

 天才と呼ばれる彼でも勉強で困ることがあるとは。思っていたより彼も普通の人間かもしれない。


「現代文に時間割くよりも、数学とかやりたくないの?」


「いや、理系科目は勉強しなくてもなんとかなるから、どっちかというと文系科目をやらないと…」


 前言撤回。やはり住んでいる次元が違ったようだ。


 それから話題は彼の発明品のことへと移った。俺たちの間だけの秘密、と言って彼が話してくれたのは、とんでもないことだった。なんと、もうとっくに彼の持つ技術や、組み立てた理論は現代の科学を超越しているらしいのだ。突然のありえない告白に啞然としている私に、彼は具体例を挙げて説明してくれた。


「例えば、人間の将来がどうなるか予測できたり、それを改変できたりするかもしれないんだ。研究の結果次第ではね。」


 とんでもない話だ。人間の人生を支配するなんて。それに、こんな話は私が生きてきた中では聞いたことがない。つまり、今私の目の前にいる人物は世界で一番の智者と言っても過言ではないだろう。壮大すぎてまたもや頭が混乱してきたが、ふとそんな彼はなぜこんな高校に通っているんだろう、と不思議に思った。こんな才能を世界が放っておくはずがないではないか。聞いてみると、


「そりゃあ、せっかく一度の人生なんだから高校生活を楽しみたいしな。」


「でも何かの組織とか、政府とかに拘束されたり…」


「はは、さっき俺達だけの秘密って言ったろ?このことを知ってるのは、秋山と本当に信用できる研究者くらいのもんだよ。」


 「才能を持つ人は悪の組織に拘束される」という漫画あるあるを言って軽く笑われたのは置いておいて、なるほど、私はもしかすると国家機密レベル(いや、国も知らないのだからそれ以上だろう。)の情報を帰宅途中に聞いてしまったのかもしれない。これを漏らすなんてことがあればどうなるかくらい私にも想像がついた。

 

 彼から信用されているということだろうけど、私には少々荷が重い。それにどんな研究なのか想像もつかないのでいまいちピンと来ていなかった。それが顔に出ていたのだろう。彼は、全くの素人の私にも分かりやすいように彼の研究について説明してくれた。


「因果律っていう考え方から思いついたんだ。これは例えば、誰かが石を思いっきり窓に投げたとする。それで窓が割れるという結果が起こるように、原因から結果が起こる場合のことを言う。あとは、その『結果』はその物事が起こる過去の出来事にしか影響されないっていう意味もある。」


「へー、でもそれがどうして未来を動かしたりすることにつながるの?」


「さっきの考えに従うと、世の中の出来事はすべて過去の『原因』に由来するだろ?だからその『原因』を何らかの形で操作すれば未来も動かせるんだよ。」


「なるほど、その『何らかの形』の中身が研究対象ってことだよね。」


「そういうこと。」


 出来事の原因といっても、膨大な数があるだろうし本当に操作なんてできるのかと疑問を持ったが、それについての詳しい話を聞くと彼は苦い顔をした。きっとここからは素人向けに説明するのは難しいのかもしれない。そう思ってしつこくは聞かなかった。


 それからくだらない話をしている間に前田くんが通学に使っている駅にたどり着いた。最近建て替え工事があって新しくなった駅には、帰宅ラッシュの時間だからか、多くの学生や会社員の姿があった。次の電車が近いのだろう。みんな寒そうにしながら小走りに改札をくぐっていく。駅のアナウンスがこの楽しい時間の終わりを告げるチャイムのように鳴り響いていた。


「家まで送らなくて本当にいい?時間なら大丈夫だよ。」


 前田くんが喧騒にかき消されないように少し大きな声で言った。申し出は嬉しいし、ありがたかったのだが、多忙であろう前田くんをこれ以上連れまわすのは申し訳ないという気持ちの方が勝った。


「私なら大丈夫。ここからはずっと大通りだし、人通りもあるから。」


 そう言い終えた瞬間のことだった。ナイフで刺すような、鋭い視線を感じて私は振り返った。人混みの奥、駅前の交差点を挟んだところに男性がいる。マスクと黒いパーカーのフードで顔は見えないが、首を傾げ、その目は明らかに私を捉えていた。幾秒かの間、目が合ってしまう。その男がニィと笑ったように見えた。

 恐怖のあまり、私は声すら上げることができずに後ずさりした。


「どうした?」


 前田くんの声で我に返った。


「あっちの交差点。こっち見てる。」


 その方向を見ないようにしながら、震える声で答える。


「交差点?誰もいないけど…」


 そう言われ私は恐る恐る振り返った。そこには先ほどの男性の姿はなく、信号が青になったのに合わせて人が往来していく。すかさず周りを見回すがそれらしき人物は見当たらない。前田くんが小声で聞いてくる。


「もしかして、ストーカーがいたのか?どっちに行った!?」


「いなくなるところは見てなかったから分からない…でも、多分これまでのストーカーと同じ人だと思う。」


「出てきたかやっぱり…。警察は…見られただけなら無理か。危険だな、家まで送るよ。」


 そう前田くんは言ってくれたが、あまり話が入ってこない。


 ダメだ。気分が悪い。これまでは視線だけだったのが、その人物が「実在する」という真実が明確になった今、薄気味悪さと不快感が容赦まく私を襲う。


 あの目線は完全に悪意そのものだった。交差点でその人が立っているところだけが黒く沈んだ色をしているようだった。間違いなく通行人などではないだろう。

 人の悪意がこれほど強烈で恐ろしいものだとは。私は驚きすら感じていた。


 私がきっと幽霊みたいな青ざめた顔をしていたのだろう。前田くんが心配そうに声をかけてくれた。


「気分悪そうだな。ちょっと休むか?」


「いいよ、大丈夫。ここから家まではそんな距離ないから。」


「無理するなよ、あんまり大丈夫そうじゃない。」


「気にしないで。私のメンタルが弱いだけ。」


「誰だってそんなことが起こったら怖いって。今は他のことより自分を優先していいからさ。」


「ううん、本当に大丈夫。」


 私は立ち上がった。前田くんはああは言ってくれたが、目が合っただけでこんなことになってしまう自分が情けなかった。休むのなら家に帰ってからでいい、そう思ったのだ。

 そう思って、私が歩き出したのと彼が私の腕をつかんだのは同時だった。


「秋山は自分が弱いっていうけど俺はそうは思わない。今、怖くて苦しいのにこうやって歩き出そうとしただけで強いよ。でも、もっと自分を大切にしてもいい。迷惑かなんて気にせず誰かに頼ってもいい。家まで送っていくよ。何か起こった時、もう秋山にそんな顔させないように。」


 なんて温かい言葉だろう。どこまでも独りよがりな私の内面を見透かした上で、それを受け入れてくれるような安心感。今、彼になら少し迷惑をかけたり、わがままを聞いてもらってもいい。そう思えた。


 彼が私の横に並ぶ。彼の方をを見て「ありがとう。」と呟いた。そして、私のちっぽけさや、不安を共有するかのように彼の手を取る。


 これが私の今のわがままだ。


 



 











 


 


 


 




 



 







 






 








 


 


 


 

 



 




 








 


 


 


 






 


 



 


 


 

 

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