35




化想操術師が怖いなら、その思想を止めさせればいい。思想を止めさせるのが不可能なら、その手で何も描けなくさせればいい。

深い眠りに誘えば、誰も追ってこない。深い眠りに誘うのは簡単だ、自分以外の食事に眠り薬を混ぜればいい。

たま子が手にしていた小瓶は、強い睡眠薬だ。夢さえ見せないように、深い深い眠りに誘うもの。


夕飯は終わってしまったが、皆は寝る前に、姫子ひめこの淹れたハーブティーを飲むのが習慣になっている。リラックス効果のあるものらしく、たま子もほっとするその味わいに、何度心を解されたか知れない。


たま子が姫子の手伝いをするのはいつもの事なので、隙をつくのは簡単だった。姫子に変わって紅茶を運ぶ時に、たま子は薬を入れた。罪悪感はなかった、これが自分の仕事だと言い聞かせれば、感情など沸いてこなかった。

そう、自分に言い聞かせていた。



そしてその作戦は成功した。

薬が効くまでに、そう時間はかからない。頃合いを見計らって、たま子がそっと一階に向かうと、静かになったリビングの中で、志乃歩しのぶ黒兎くろと、姫子が、ソファーや床に倒れるように眠っていた。


「……」


たま子は床に眠る姫子を見て、部屋から膝かけを持ってきてその体にかけた。

胸も痛まない、もう迷わない、そう心の中で自分に言い聞かせながら、彼らの手足に枷をつけた。

手足の枷は簡単だ、化想操術師なら、本物と同じ質量の物が生み出せる、まるで魔法のように。あらかじめ用意していた絵の描かれたカード、先程、たま子が机に向かって描いていたものだ。それは、たま子が描いたとは思えない完璧絵で、それをなぞると、重い鉄の枷が皆の手足に固定されていく。


それから、たま子は再び二階に上がり、野雪のゆきの部屋のドアを開けた。野雪の部屋を想像するに、殺風景な部屋を想像していたが、部屋の中は予想に反して物で溢れていた。

本が多いが、建物や船や車等の模型やパズル、映画やドキュメンタリーのDVDも多く積み重なっていて、壁にはキャンバスが幾つも立て掛けられていた。

壁際には、物に埋まりそうになりながらベッドが置かれ、その上で眠る野雪からは規則正しい寝息が聞こえてくる。たま子はそっと近づき、その手足に枷をはめた。


「……」


野雪の幼く見える寝顔を、たま子はぼんやりと見つめた。

自分が出会ったのが志乃歩のような人なら、野雪のように生きられたのだろうか。

伸ばしかけた手を引いて、たま子は目を伏せ立ち上がると、そっと部屋を後にした。それから、志乃歩の部屋に向かい、机の抽斗の中から離れの家の鍵を手にすると、足早に一階の玄関へ向かった。


外へ出ると、夜風が先程よりも冷たく感じられた。夜の山は真っ暗だ。空を見上げると、星が見える。敷地内の灯りを頼りに、中庭へ目を向けると、いつもいるシロは、紙の中に帰ったようだった。


誰もが寝静まる屋敷を出て、たま子は離れの家に向かった。一度家の前で立ち止まると、ポケットから小さな四角い紙を取り出した。黒い霧から渡されたものだ、そこには鳥の絵があり、それを指で擦ると、黒いカラスが現れた。現れたカラスはすぐに飛び立ち、街の方へ飛んでいく。それに続くように、屋敷の周囲からも数羽のカラスが飛び立った、恐らく化想だ。たま子の監視でもしていたのかもしれない。


これで、黒い霧の化想を出した術師へ、合図を送った事になる。もう、後戻りは出来ない。


そう思えば、たま子の足が止まる。殺した筈の心が甦り、嫌だと訴えるみたいで泣きそうになる。それでも、たま子はカラスの描かれた紙をくしゃっと握ってポケットにしまうと、懸命に顔を上げ、離れの家の鍵を開けると、中へと入った。


書庫となっているその中を進み、たま子が向かうのは地下だ。

隠し扉を開ければ、さすがにセキュリティが働くのではと考え、扉と少しずれた場所に化想でドアを作った。一度中に入っているので、イメージするのは簡単だ。ドアをくぐれば、足元は階段の途中で、ジャンプするように飛び降りて先に進む。ガラス戸の本棚を目印に、本の背表紙を辿っていく。ガラス戸を開けて、中から一冊手に取ると、踵を返し先程の化想のドアから地下の書庫を出た。


「、」


出たところで、ひ、と悲鳴が喉奥に吸い込まれた。そこには、志乃歩、野雪、黒兎に姫子と皆が待ち構えており、たま子は本を抱きしめて立ち止まる。声が出せなかったのは、喉に手刀が当てられたからだ。スーツ姿の黒い男、野雪の化想だ。

「下がっていい」と野雪が言うと、化想は手を下ろし、一歩下がって控えた。よく術師に従う化想だと、たま子は感心すらする。


「野雪さんの化想は、まるで意思を持ってるみたい。この化想からは、警戒心が感じられる」

「術師の意識の繋がりは、心の繋がりでもある。化想は操り人形じゃない、記憶を維持してるから、化想自身が経験を得られるんだ、たまちゃんの使う化想とは正反対だね」


志乃歩が言う。やはり全て見抜かれていたのだと、たま子は拳を握った。自分に記憶がある事も、皆に睡眠薬を飲ませた事も、手足を拘束した事も。皆、あのハーブティーを飲んだように見えたが、もしかしたら、どこかで別の物とすり替えられていたのかもしれない。飲み物が、或いはたま子の持っていた薬自体が。相手は術師の集まりだ、たま子が何かするかもしれないと思っていたなら、事前に化想を使ってたま子の目を欺くなど、簡単な事だろう。


そして、たま子は心のどこかで、こうなることを期待してもいた。彼らなら助けてくれるのではと、この期に及んでもまだ、その思いを捨てきれないでいた。


だけど、だからといって助けてなんて言えない。任務を遂行するしか、たま子に道はない。今の状況だって、きっと監視されている。どこにその目があるのかたま子には分からないが、彼らの化想は、簡単にこの屋敷に侵入した。


不意に黒い霧の姿を思い出すと、たま子は震え出す手をぎゅっと握った。今、この首は、野雪の出したスーツ男の化想の手中にある。この首が折られるかもしれない、その恐怖よりも、たま子は頭の中に残る、黒い霧の残像の方がよっぽど怖かった。あの術師は、野雪達とは違う。簡単に命を、心を切り捨てる。たま子の抱える大事なものも、簡単に壊されてしまう。それだけは、なんとしても守らなければならない。


それに、たま子は彼らに手を掛けてしまった、自分は彼らにとって敵なのだと、思いを新たに視線を上げ、心を殺した。


「…最初から気づいてたの?気づいてて私を側に置いたの?」

「最初から怪しいと思ってたよ。でも君からは敵意みたいなものはまるで感じないし、誰かに操られてるなら乗っからないとって思ってさ」

「…どうして?」


志乃歩は眉を下げ、表情を緩めた。


「たまちゃんは、楽しんで、戸惑って、ご飯も美味そうに食べてたし、でも、何だか少し寂しそうだった」

「……」

「何も起きないなら、頃合いを見て話し出そうかと思ったけど…、この間のシロの偽物が出たのが合図だったのかな」

「……」


たま子は黙って、視線を逸らした。

あの時、フードを被った二人組の化想に襲われたと装って、後ろ手に小瓶に入った薬を渡された。本を盗み出す事も、予定ではもっと早くに行う筈だった。準備が整ったらこちらから合図を送る手筈だったのに、たま子がなかなか行動に移そうとしないので、仲間達が行動に移したのだ。

それでも、たま子は動けなかった。倒れた事もあるが、助けを求めようとすらした。あの黒い霧の化想の術師は、そんなたま子の気持ちに気づいたのだろう。だから、化想とはいえ危険を承知で、たま子の元を訪れたのかもしれない。


「それ、何だか分かってる?」

「…鳴島さんの化想が封じられた本」

「どうするつもり?」

「この化想を人質にする」


化想を壊せば、化想を切り離しているとはいえ、化想を生み出した人間の心にも影響が出かねない。志乃歩達が人を傷つけないようにしているのを知って、本を交渉材料にするよう指示を出されていた。

志乃歩は溜め息を吐いた。


「目的は?」

「野雪さんに一緒に来てもらう」

「何の為に?」

「知らない、私は知る必要がない」

「理由も知らされないなんて、君が言う事聞く必要もないじゃない」

「…そんな訳には、いかない」


たま子は本の表紙をさらさらとなぞる、途端に地響きが起き、地面からは鉄の鎖が勢いよく飛び出した。その勢いのまま皆の体に飛びかかろうとする鎖は、皆を拘束しようとしているようだ。たま子の手にした本の上には何枚かカードがあり、たま子はそれをなぞって化想を出していた。

志乃歩は飛び出る鎖を左手に絡ませた。


「君の化想はハリボテと同じだ、意味ないよ」

「それでも足止め位にはなる」


二人のやり取りに、どこかにたま子に指示を出す術師がいるのかと、姫子が窓の外へちらと視線を向ける。そして、目に飛び込んできた光景に、姫子はその綺麗な目を見開いた。


「火事だ!」


姫子が血相を変えて書庫の外へ向かうと、黒兎も驚いてそれに続いた。志乃歩が窓の外へ視線を向けると、暗い山の中で赤い火が上がっているのが見えた。志乃歩の腕から鎖が外れる、野雪も側の窓を開けて身を乗り出した。火が山をぐるりと囲い、その火は屋敷ではなく、麓の街に近かった。

街からは騒ぎ声が聞こえ、それは徐々に大きくなる。間もなく消防や警察も動き出すだろう。


「煙も匂いもない、化想か」

「今は」


志乃歩の言葉に、たま子が言う。今のたま子の目は、野雪に似ていた。だが、野雪のそれとは違う。諦めたような色に、野雪はただじっと、たま子を見つめた。



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