26
医師や看護師の治療のおかげもあり、
術師は化想を操る為、化想を連続して生み出したり、他人の化想に呑み込まれたとしても対処が出来るし耐性もある。化想の影響を受けづらいとはいえ、野雪は完全に術者の化想の中に取り込まれていた。今回は、大晴の時とは状況が違った。あの時は、化想の入り口があり、化想と現実が繋がっていた。でも、今回の化想は、野雪の存在を完全に消してしまっていた。無事に現実に戻ってこれても、術者の命を引き止める為、ビルから身を投げ、血を使って化想を出し、クッションの上とはいえ落下して。
心と頭と体を全て使って、一歩間違えれば、化想に精神を侵され目を覚まさない術師も少なくない。どんなに強く思いを持っていても、自分でも気づかない心の隙をつかれる事もある。
いくら野雪が、化想を出すにしても受けるにしても耐性があり、強い力を持っていても、それが積み重なれば、いつか体に影響を及ぼす事になる。その事を、野雪も分かっている筈だ、だから
処置室で目を覚ました野雪に、
今にも泣き出しそうな志乃歩の顔を見て、掠れた声で志乃歩の名前を呼べば、志乃歩は心底安堵した表情を浮かべ、治療ベッドの横で力なく座り込んでしまった。
「良かった…」と、絞り出すように呟いたまま顔を上げない志乃歩に、野雪はややあって、志乃歩の頭を撫でた。ベッドの上の野雪からは、志乃歩の項垂れたつむじだけが見えていた。
「はは、やめなさいよ」
力なく頭を撫で続ける野雪に、志乃歩は俯いたまま笑い、笑った途端、床にポタと、涙が一つ落ちた。
「大丈夫だよ、志乃歩」
掠れた声は、相変わらず抑揚もないが、志乃歩にはそれで十分だった。涙が止まらない志乃歩の様子を見て、傍らにいたたま子は、そっとその場を後にした。
処置室前の長椅子に戻り、たま子は志乃歩を、野雪を思った。
志乃歩は、ずっとあの涙を堪えていたのだろう。志乃歩が涙するほど心配していたのは、彼らが家族で、大事な人だからだ。
「……」
ふと頭を過る家族と呼べるその顔に、たま子はそっと目を伏せた。じくっと肩に痛みが走り、その肩を撫でさすったけど、どういうわけか、肩よりも胸が痛くてしょうがなかった。
野雪達の治療は終わったが、まだ野雪は処置室で待機していた。野雪が救った術者の彼女は、
化想の患者は、一般患者人と同じ病室を使用することはなく、一般患者とは離れた場所を利用することになっていた。朱実は、化想を操ってはいたが術師とは呼べず、一般の無意識下の化想を出す患者と同じ扱いだった。その為、今は病室を確保して貰っている所だ。
簡単に空きが出せないほど、化想患者が増えているようだ。
病室が確保出来るまでの間、志乃歩は別室で医者から話を聞いており、たま子は姫子達と合流していた。なので、処置室には、野雪と朱実の二人だけだ。窓から見える空には、まだ雲が月を隠していた。今日は月が見えないのだろうか、それをぼんやりと眺めていた野雪は、布が擦れる音に気づいて振り返ると、朱実が目を覚ましていた。野雪は、はっとしてベッドから腰を浮かせた。
「気づいた?今、先生呼ぶ」
「ま、待って」
部屋を出ていこうとする野雪だったが、朱実の手が力なく伸び、野雪の腕を掴んだ。
「何?」
「…妹と会ったの、あれは夢?それともあなたがつくりだした幻?」
問われ、野雪は言葉に詰まった。正直、あれが何だったのか、野雪にも分からなかった。
あの時、朱実の出した針山を見て、野雪は燕に針山を壊すように命じ、燕の背に線を引き、黒兎のようにクッションになる物を出そうとした。だが、現れたのはあの羽だった。
焦った野雪が別のイメージを入り込ませてしまったのかもしれないし、朱実の妹の事が頭を過ったせいであのような化想を見せたのかもしれない。
それに、あれは朱実が出した化想の可能性もある。彼女はノートを手にしていたし、死を覚悟した局面なら、朱実にも少ないペンの運びで化想を生み出せる可能性はある。野雪の化想に、朱美が化想を重ねる事だってあるかもしれない。
それとも、本当に妹が会いに来てくれたのだろうか。
どちらにしろ、姉妹の思いがあっての事だ。答えは明確でなくても良いと野雪は思えた。
「…あれは、本物だ」
化想ではないと野雪は言った。化想かどうかは、関係ないと思ったからだ。
「…会いに来てくれたって事?」
「…多分」
「そうなんだ…そっか…ダメだな、私って本当」
最後まで、死んでからも心配かけてる。
朱実はそう笑って、両手で顔を覆った。野雪は窓の向こうに視線を向けた。空にはぽっかりと月が浮かんでいる。雲が晴れたようだ。
「…妹思いの、良いお姉さんに見えた」
抑揚なくぽつりと零した野雪に、朱実は目を丸くした。すぐに妹の言葉が頭を過り、笑おうとしたけれど、耐えきれずに涙を零してしまった。
「あー、ダメだ、笑えないよ、悲しいもん」
「…笑って思い出せって言ってた。泣いても良いから、生きて、思ってくれって事だ」
顔を覆った両手で、朱実は頷きながら髪を掻き上げ、無理矢理顔を上げた。唇を引き結んで、耐えて、耐えきれず苦しくて、どうしようもない。
「…生きるのって、しんどい」
呟いた一言に、野雪は思いを受け止めるように頷いた。
「でも、これだけは簡単に投げちゃいけないんだ、悲しい事知ってるから、悲しませちゃいけない」
「…誰を?」
「妹が怒る」
「…確かに、そうだね」
「俺も教えて貰ったから」
「どんな事?」
野雪は、無表情の顔を僅かに綻ばせ、黙って月を見上げている。朱実もつられるように窓の外へ目を向け、そっと頬を緩めた。
「…月って、こんなに綺麗だったんだね」
「きっと、見守ってる」
「…そっか」
そうだね、うん、そうだ。朱実は繰り返し頷き、目を閉じる。瞼の裏には、妹の笑顔が浮かんでいた。
「容態が回復次第、警察に行くって。刺された相手も命に別状ないみたいだ。それでも彼女は、罪にはなるけど」
翌日の午後、今日も
昨夜の騒ぎはニュースとなり、国民の知る所となったが、化想に関しては明るみに出る事はなかった。それも、黒兎の目隠しと警察の協力のお陰だろう。
「つってもさ、妹を昏睡状態にしたのは刺された奴だろ?そっちが結局おとがめなしってさ」
志乃歩の話に、
「化想絡みは、そういうのばかりだよ。直接死因とみなされないから、泣くのは遺族ばかり。化想も故意ではないとはいえ、自然に起きたものでも他者を巻き込む悪とされるから、
「腑に落ちませんね、どうにも…」
志乃歩の言葉に、黒兎は溜め息を吐いてハンドルを切った。
その頃の朱実は化想を知らなかったので、郁実は突然の病で亡くなったと聞かせれていたそうだが、朱実はそれを素直に受け入れる事が出来なかった。そんな彼女に、事の真相を吹き込んだ人物がいた。
この世には化想というものがあって、それを操る術師がいると。妹の郁実は、術師の点数稼ぎの為に使われ、命を落としたのだと。
郁実が化想を出すに至ったのは、交際相手が原因だった。金目当てだと分かっていても、お金があれば彼は側に居てくれる、そうやって気づけば多額の借金を背負い、彼女は捨てられてしまった。
更にその交際相手は、阿木之亥家の術師の仕込みだったと教えられたという。ターゲットを絞り、その人物を追い込んで化想を出させ、更にその化想を自分が壊せば、阿木乃亥での名が上げられると。朱実はそれを知り、妹の為に復讐を誓った。その時に、化想を教え込まれたのだという。
だが、朱実が聞いた真相には、偽りがあった。
朱実に刺された男は阿木之亥家の術師であり、郁実の化想を無理に壊した人物で間違いないが、彼が阿木乃亥家での地位を勝ち得る為に、郁実の交際相手まで仕込んでいた訳ではない。彼は化想が出たことを感知したから、現場に向かっただけだった。
「それも、シンが吹き込んだのか?」
姫子の問いかけに、志乃歩は頷いた。
「恐らくそうだろうね。お姉さんは、騙されたんだ。
元々、妹さんとは交際相手の事で揉めていたみたいでさ。お姉さんは、そんな相手と別れた方が良いって言ったみたいだけど、妹さんも相当相手に惚れ込んでたみたいでさ。言っても聞かないなら勝手にすれば良いって、妹さんを突き放したって。あの時、もっと親身になって根気よく説得してたら、妹さんは化想を出す事もなかったかもしれないって、悔いてたみたいだ」
「そこを利用されたのか…、全くどこでそういう話を拾ってくるんだ?」
姫子が苦々しく言えば、「きっと、どこかで仕入れてくるんだろうね。友達が、あるいは友達の友達とか、ご近所さんとか、行きつけのカフェとか。どこにシンの信者がいるか分からないし、何気ない会話の中でも誰かの悩みを見つければ、シンはどこへでも侵入してしまうんだろう」と、志乃歩は溜め息を吐きながら答えた。
「でもさ、恨ませるだけなら、変な嘘は要らなくない?」
「より阿木乃亥に敵意を向けさせる為か、阿木乃亥の行為によって化想の被害者を出した、化想に関わる騒動を起こさせたと世の中に示したかったのか。シンの組織は阿木乃亥を潰したい訳だからね」
志乃歩の説明に、姫子は、ふぅんと、不服そうに足を組みかえた。
「シンはそうやって、化想とは無関係の人を手繰り寄せて操り、阿木乃亥の人間に敵意を向けさせる。昔とやり口が随分変わったみたいだ」
「どうにかそいつら捕まえられない?アタシらだけじゃ探しきれないし」
「警察も協力してくれてるんだけどね…」
未だシンの本拠地すら掴めていない。昔は拠点とされる場所を構えていたが、今は拠点を転々としているようで、その拠点が掴めたと思ったら、もう移動した後だったというのが常だ。
「着きましたよ」
そうして話している内に、車がゆっくりと停まった。駐車場の向こうには、立派なお寺がある。皆がやってきたのは、郁実の眠るお墓だった。
墓地は住宅地から少し離れた高台にあり、木々の香りがする穏やかな場所だった。
整然と並ぶ墓地を進み、皆は足を止める。
「お姉さんが手入れしてたって言ってたね」
志乃歩の言葉に野雪が頷き、そっと花を手向けた。
よその墓石と形や大きさの差はないけれど、それでも彼女の墓はきれいに整い、磨かれ、どれ程彼女が愛されているかを感じられるようだった。
「…引き止めてくれて、ありがとう」
野雪がしゃがんだまま、手を合わせ呟く。後ろの方でたま子も手を合わせながら、そっと視線を彼らから逸らした。
志乃歩は、病院の待合室で話をしたきり、たま子については何も話してこない。
志乃歩は、野雪は、どこまで気づいてるのだろうか。
たま子は、ぎゅっと手を握りしめる。
たま子には、記憶がある。そして、朱実のように、誰かを傷つけようとしている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます