6
校舎内にそれほど人はいない様だが、校庭ではサッカー部や陸上部等が部活動に励んでおり、賑やかで活気のある声が聞こえてくる。
二階の端の教室は、他の教室とは階段を挟んで一部屋だけ離れた造りになっており、より静かに感じられた。ここに化想が現れているのか、そもそも誰か居るのだろうかと、
教室内には、男子生徒が一人机に突っ伏しているのが見えるが、その姿がゆらゆらと揺れている。揺れているのは彼だけではない、窓のカーテンも、彼が座っている以外の机や椅子、教卓等が宙に浮かび揺らいでいた。教室はまるで水槽の中のように、いっぱいの水に溢れていたからだ。
「水!?窒息するんじゃないのか!?」
驚きドアを開けようとする壱登を、
「心配ない、あの子の手は動いてる。人払いを頼める?」
「わ、分かりました!」
壱登ははっとした様子で頷くと、混乱している様子の教頭を伴い、教室から離れていく。教頭の事は、壱登がフォローしてくれるだろう。
「よし、準備出来たね」
志乃歩が窓の外を見て呟いたのを聞き、壱登同様に困惑していたたま子は、「あの、今のは?」と、おろおろしながら志乃歩に尋ねた。
「目隠しだよ。この校舎に何が起きても、外からは、いつもと変わらない校舎の様子が見えるようになってる。化想で校舎の姿を投影してる感じかな。例え校舎が崩れたとしても、外側からは何の変哲もない校舎があるように見える筈だよ。流石に、何かあれば内側の人は気づいちゃうけどね」
「これも
「そう。それでここからは、たまちゃんの初仕事だ」
言いながら、志乃歩が教室のドアを開けると、室内のギリギリで水が波打っていた。臆せず中へ入る野雪に、それに続く志乃歩。たま子は、ごくりと唾を飲み込んだ。
「な、なんでそんな平然と出来るんですか…?」
分かっていても怖じけずく。たま子も無意識の化想については教わっている。これは、水のように見えるが、本物の水ではない。色々な物が浮いているので勘違いしそうになるが、息は出来る筈だ。だが、それでも、たま子の脳は目の前のそれを水だと思い込んでしまっており、ここに入ると思うと、もう息苦しさを感じてしまう程だ。
そんなたま子の様子に、志乃歩は笑って振り返った。水の中だというのに、水の抵抗も感じさせない動きだ。
「大丈夫だって。これは、あの少年のイメージした世界だ、全て本物のようで本物じゃない。息も出来るから」
「この水を本物の水に変えられるのは、化想操術師だけだ。彼は、悲しみに囚われている。これは、涙だ」
志乃歩に続き、野雪は淡々と言う。感情の見えない声だった。
「そういう事。俺達なら本物の水で教室を埋め尽くす事も出来るけど、術師じゃなければ、本物には変えられない、ただのイメージだ。まぁ、中には素質や天然で術師と同じ事が出来るのもいるけど、稀だよ。何より、この場で一番危険な状態なのは、あの少年だ」
その言葉に、たま子は少年を見つめた。彼は取り憑かれたかのように、机に突っ伏して何かを描き続けている。恐らく、この悲しみの世界に囚われ、化想を作り続けているのだろう。
自分達が助けてあげなければ、少年はこの悲しみに呑み込まれ、心を病んでしまう。
たま子はぎゅっと拳を握ると、小さく深呼吸し、意を決して教室の中に飛び込んだ。
「わ!」
誰かの生み出した化想の世界に入ったのは、初めてだ。
水の浮遊感が体に纏わりつく。冷たくも熱くもない、息が出来るのに水の中だと分かる、何だか不思議な感覚だ。チョークがふわふわ浮かんでいるのを避ければ、髪も体も水の抵抗を受けた。志乃歩と野雪はしっかり床に足を着けている、それがたま子には不思議で仕方ない。下手すれば、体が簡単に宙返りしてしまいそうなのに。これが、術師との差なのだろうか。意識をしっかり持てば、化想の外に居た時のように歩けるのかもしれないが、意識はなかなか変えられない。これが、何も知識のない一般の人だったら、まやかしの水で溺れてしまうかもしれないし、意識を奪われれば、心を囚われ病んでしまう、その事をたま子は痛感し、懸命に恐怖を頭の中から追いやった。
ふと少年を見れば、彼はペンを持つ手を止めていた。
「野雪、たまちゃんを。世界が変わるぞ」
野雪が頷いてたま子の側に行くと、僅か浮いているたま子の腕を掴み、床に足を着けさせた。たま子はきょとんとして野雪を見上げた。野雪の手に掴まれただけで、安心している自分がいる。息を吸うのも恐々していたのが嘘のように、たま子の周りに空気が溢れ、まるで水が消えたような感覚すらした。
これが、術師の力で、力量というものだろうか。野雪からは、簡単には揺らがない意志のようなものを感じる。術師にとって、自分の意識や心をコントロールする事は何よりも大事な事だと、たま子はその手に教えられたような気がした。
「あ、ありがとうございます」
「掴んでて」
「は、はい」
言われて、僅か背の高い野雪の腕を掴む。こうしてみると、野雪も男の子なのだと分かる。小柄で、いつも大きなシロといる姿を見ていたので、勝手にか弱いイメージを抱いていたのだが、そうではなかったのだと、たま子の中で野雪のイメージが覆った瞬間だった。自分が掴んでも全然動かない野雪に、今は逞しさすら感じる。
「来るぞ」
志乃歩の声に、たま子ははっと我に返った。少年のノートからは、水の中なのに、そこから更に水が溢れ出る様子が分かった。これも化想だからかもしれない。濃い青の水が、破裂した水道管のように勢い良くノートから飛び出すと、それは巨大な水の渦へと変わり、教室の壁を突き破り、天井を破壊し、椅子も机も外へと放り出されていく。志乃歩は暴れる水の渦に、二人を守る様に立ちながらも堪らず顔を覆った。たま子は恐怖も相まって、目を閉じて立っているだけで精一杯だったが、野雪だけは、脱げたフードもそのまま目を閉じる事なく、志乃歩の背中越しに、溢れる世界が構築されていくのを見つめていた。
水上から差し込むのは太陽の木漏れ日だろうか、控えめにキラキラと光に照らされるのは、海に沈んだ都市の一部みたいだ。崩れ落ちた廃墟の建物がそこに次々と建ち並び、野雪達の前を後ろを全てを埋め尽くしている。教室のドアも壁も床も天井も消え、魚が真横を横切った。海藻が揺らぎ、足元には砂、ここは海の中みたいだ。
「これが、あの少年の世界か」
志乃歩は呟き、砂の上に倒れる少年の元へ向かう。野雪は、しがみついているたま子に目を向けた。たま子はまだ目を閉じ、震えている。
「大丈夫、もう変化は終わった」
やはり抑揚のない野雪の言葉に、たま子は恐る恐る目を開ける。すると、目の前を魚がのんびりと泳いでいき、たま子は一変した世界に驚いて、慌てて口を塞いだ。
「大丈夫、イメージの世界に変わりない」
だが、パニックになっているたま子は、瞳を泣きそうに動かし、手を口から退けようとしない。このままでは、本当に窒息してしまう。
「大丈夫」
野雪はたま子の両肩に手を置いた。真っ直ぐ見つめる瞳と目が合い、たま子は僅かに目を開いた。
「大丈夫、息は出来る。手を離して、俺の真似して」
大丈夫、そう繰り返す言葉はやはり感情のない声だったが、それでもたま子を説得するには十分な効果はあった。ぶれない瞳が、声が、今は何故か安心する。たま子は恐々ながらも口から手を離した。
「口を開いて、そう、吸うよ」
合図に野雪の目を見つめ、同じタイミングで肺が膨らむと、肩が少し上がる。思いきって息を吸った為か、想像した水は口の中には一切入ってこず、その分、一気に肺に空気が満ちたので、たま子は驚いて腰を抜かしてしまった。
「大丈夫?」
「は、はい、ありがとう…」
野雪に支えられたお陰で、尻餅をつかずに済んだ。たま子が苦笑って礼を言えば、その様子を見守っていた志乃歩が、微笑ましそうに頬を緩めた。
「はは、本当に初めてみたいだね、化想に入るのは」
「記憶喪失だ」
だから当然だ、とばかりに野雪は首を傾げたが、たま子は苦笑ったまま、志乃歩も笑うだけだ。
「僕は、この子を見とくから、二人で心の欠片を見つけてこれるかな」
「うん」
「え?」
「何かあったらすぐに僕も向かうから、その時は合図を送って」
「へまはしない」
「分かってる、頼りにしてるよ」
気をつけてと見送られ、野雪は海の奥へと進んでいく。
教室の大きさを優に越えた悲しみの海の世界、その先へ。
「たまちゃん、野雪から離れないでね」
「は、はい」
たま子は慌てて駆け出した。平然としている野雪の後を恐々歩き出すたま子、志乃歩は少し心配そうに二人を見送っていた。
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