マーズとヴィーナスの仔らよ、誓いの口づけを。

如月姫蝶

マーズとヴィーナスの仔らよ、誓いの口づけを。

「父の名はマーズ、母の名はヴィーナス、生まれた私はキューピッド。

 奥手な人間どもよ、この私が、恋の矢により、良縁を恵んでしんぜましょう!」

 暗がりの中に一筋のスポットライトが落ちて、少女が一人、三つ指をついてこうべを垂れている姿を照らし出した。

 彼女は、古風だが決して和風ではない白装束を纏っており、その背中には、白鳥を思わせる翼を生やしていて、天使にも似た姿だった。

 そして、顔を上げるや……なぜか、俺が見知った顔だったわけだが……このゲーム世界の設定に基いた口上を述べたのである。

「先輩、お覚悟を!」

 彼女は、白い翼を羽ばたかせて空へと舞い上がるや否や、やたらとでっかいクロスボウを構えて、俺の心臓目掛けて矢を放ったのだった……


 それは、なんてことない月曜の朝のはずだった。もちろん、俺は進学校として名高い私立高校の生徒だから、今日も一日、勉学に励まなければならない。

 ふと、思うことがある。所詮、俺ごときがベストを尽くしたところで、回し車の中でマウスが一心不乱に走り続けているようなもので、結局、どこへも行けやしないんじゃないかとか……

 いっそ人生が丸ごとゲームなら、努力した分だけ確実にレベルアップできるだろうにとか……

 けれど、既に両親を亡くした俺は、自力で人生を切り拓くしか無いのだから、勉学に励むべく迎えた朝というのは、なんてことないいつもの朝のはずだった。

 ところが、学生寮を出て校舎に入り、階段を昇る途中、後輩の女子とすれ違った瞬間に、俺の心臓は不自然なほど高鳴った。彼女は、日直の役目だろうか、書類の束を抱えていたのだが……

 決して、彼女が突発的にドジっ娘と化して、その書類をぶちまけたりしたわけではない。ましてや、天井を突き破って、隕石が空から降ってきただとか、俺と彼女の二人だけが異世界に転移しただとか、そうしたドラマチックな展開なぞ何一つ無かった。

 俺と彼女は、特に視線や言葉を交わすことすら無く、ただ擦れ違っただけだ。彼女のボブヘアから漂うシャンプーの香りが、ほのかに甘く爽やかだったというだけで……

 不思議なことに、ただそれだけで、俺の胸は高鳴った。全身を巡る血液が、一気に新鮮かつ栄養豊富と化したようで、ついつい目で追った彼女の後ろ姿は、キラキラと金色に輝く光の粉に包まれているかのようだった。


 俺は、その日のうちに、彼女に関する情報をあれこれと収集した。

 名前は碧木愛あおきめぐ。学年は一個下。

 帰国子女というアドバンテージがあるとはいえ、そこそこ大規模な英語弁論大会で優勝した経験があるとのことだった。

 そして何より、胸がたわわだ。

 どうやら、俺がたまたま今まで無関心だっただけで、俺のクラスの男どもの口の端にもしばしば上るような、目立つ女子生徒のようだった。

 メグ……

 俺は、声には出さないようにしつつも、その名を何度も口にした。あろうことか、授業中にまでだ。

 すると、眠気覚ましのミントタブレットを口に放り込んだ時よりも、爽やかで優しい気分になれて、まるで魔法にかかってしまったかのようだった。

 ただ、今夜も遅くまで勉強するためには、購買部でミントタブレットを買い足しておいたほうがいいだろう……そんなふうに考えた時、俺はなぜか、理事長室へと呼び出されたのだった。


 俺は、理事長室のソファに座らされ、なんと、刑事にあれこれ問い質されたのである。

 もちろん、俺が悪事を働いたわけではない。俺の叔父が、勤務先の金を使い込み、それ以前に、両親が俺に遺した金を使い果たして、失踪したというのである。

 両親は揃って地方公務員で、災害時に地元民のために駆けずり回っている最中に殉職したことまでお揃いだった。そんな両親の金で、俺は大学卒業まで学費にも生活費にも事欠かないはずだったのだが、成人するまでの親代わりだった叔父が、その全額を違法賭博で擦ったというのである。

 刑事は、万が一にも逃走中の叔父が連絡なり接触なりしてきたら、すぐにも警察に知らせるようにと、ただそれだけを俺に念押しして立ち去ったのだった。

 俺はソファから立ち上がれなかった。そのクッションの底が抜けて、どこまでも落ちてゆくかのような感覚を味わっていた。


高見玲生たかみれおくん!」

「はい……」

 俺が返事をした時には、理事長の声は幾分尖っていた。どうやら彼女は何度か呼び掛けていたのに、俺は気付きもしなかったらしい。

「端的に言います。あなたは一文無しで、あなたの来月以降の学費も当校に振込まれていません」

「……退学ですか?」

 俺の声は震えていた。ただ、少子化の昨今、私立の学校経営がシビアであろうことくらいは、俺にもわかる。

「ええ、あなたが望むのであれば。けれど、あなたが当校に留まるために、アルバイトを紹介してあげることもできますよ」

 理事長は、老眼鏡越しに、意味ありげな視線を寄越したのだった。


 チュートリアルは、ウィリアム・テル状態だった。

 遥か頭上からは、梢が風にそよぐ音が聞こえ、背中には、大木の幹のごつごつとした感触が伝わる。そして、俺を縛り上げた縄は、容赦無く腕や胸に食い込むのだ……

 ちょっと、何を言っているのかわからないかもしれない。

 つまり、理事長が世話してくれたのは、開発中のゲームのテストプレイに従事するアルバイトだったのだ。

 俺は——俺のアバターは、3Dの仮想空間において、クロスボウをぶっ放すスナイパーから、ひたすら逃げ回る役回りだ。ゲームの難易度調整のためとかで、そういうデータが必要なんだそうだ。

 俺は、アバターを俯瞰するわけではなく、アバターと一体化して世界を知覚し、行動するのだ。

 この仮想世界がまたよく作り込まれていて、五感の全てに対応しているのだ。

 俺は、初めてログインした途端に、林檎の丸噛りを勧められた。そして、その歯触りや甘酸っぱさのリアルさに驚いたのである。

 しかし、そうこうしているうちに、一口試食しただけの林檎は、俺の頭上に乗せられた。そして俺は、大木にぐるぐる巻きに縛り付けられ、眼前にはクロスボウを装備した人物が登場したのである。

 そう。ここまでが、ウィリアム・テル伝説を元ネタとしたであろうシチュエーション。

 ところが、クロスボウを撃つ気満々な彼女は、どう見ても碧木愛であり、しかも、設定上はキューピッドということで、空まで飛ぶのである。

 そういえば、キューピッドの両親とされる神々は、生物学で使う♂や♀といった記号の元ネタだったはずだが、それはさて置き……

「ちょっと待ってくださいよ、理事長!」

 俺は、傍らの立会人に質問しようとした。主にメグについてである。

「この世界では、『ヴィーナス様』とお呼び!」

 ピシャリと言われて驚いた。まあ、アバターなのでどうとでもなるのだろうが、理事長はこの世界では、古風なドレスを纏った金髪美女と化しているのだ。

 それは、翼と服装以外は、顔も体つきも実物そっくりのメグや、学生服姿に至るまで忠実に再現された俺のアバターと比較すると、あからさまにベクトルが異なる。

 理事長……いや、ヴィーナス様は、碧木愛もまた奨学金を得るべく、ゲームのテストプレイヤーとなったのだと教えてくれた。そして、「当たると、ちょっとチクッとするわよ」と付け加えたのだ。

「先輩、お覚悟を!」

 メグが、仇討ちかよと言いたくなるほどの気合いで、滞空しながら放った矢は、俺の心臓を狙ったらしい。しかし、代わりに頭上の林檎を射抜いて、それをしっかと木の幹に縫い止めてなお、ブーンと唸りをあげたのである。むしろ、外れたからいいようなものの……

「ヴィーナス様、『ちょっとチクッと』って、どのくらい痛いんですか?」

「ちょうど、歯医者の麻酔の注射くらいよ」

 嫌だ! 痛いと手を挙げて訴えたところで放置されるアレと同レベルだなんて!

「うっかり射殺されたと思い込めるほどの強度にも調節できるけど?」

 違う! 違うんだよ、そうじゃない!

 俺は必死に交渉して、もはや痛み未満である「ぷにぷにと頬に触れられた程度」に調節してもらったのである。

 そうでもしなければ、クロスボウの腕前はてんでポンコツなになんぞ、とても付き合いきれなかったろう。

 メグは、気合いだけは十二分で、「先輩の心臓ハートを射止めてから自分のことも射抜きます!」などと、おっかないことを口走った。

 ちょっと待て。元ネタの神話に照らせば、それって、俺と彼女が両想いとなる展開を意味するのではなかろうか……


 俺は、部活とは無縁だった。しかし、奨学金を得るために、まるで部活のようにゲームのテストプレイに励むようになった。もちろん、そのバイトについては絶対に他言無用と守秘義務を課されていたが、理事長はともかくメグと秘密を共有するのは、なんだか腹がムズムズするような、くすぐったい気分だった。

 メグは、最初こそ先が思いやられたが、みるみるクロスボウの腕前が上達した。俺は、逃げ回るはずでありながら縛り上げられるという理不尽な境遇から、僅か一日で脱却することができたのである。

 そして、晴れて、上空のスナイパーからひたすら逃げ回る逃亡生活へと突入したのだった。


 その日のフィールドは、下り坂にクネクネと曲がりくねった道だった。幸い、道を挟んで樹木や岩が豊富に配置されているので、俺は、それらを遮蔽物として活用しながら、斜面を駆け降りるというわけだ。

 出だしは順調だった。

 メグが装備したクロスボウは、連射はできない仕様なのだ。岩陰に駆け込み、その岩に矢が当たる音を耳にした俺は、次の射撃までの猶予を無駄にしてなるものかと、また駆け出したのである。

 しかし、途中からメグが全く射って来なくなり、俺の中に嫌な予感が込み上げた。

 程無く、設定されたゴール地点を目にして、俺は、一か八かそのまま駆け抜けようとしたのだが……

 ゴールの直前に、美しい天使にも似たメグが降り立った。

 俺は、下り坂ゆえの加速のせいもあって、咄嗟に立ち止まれなかった。

 そして、メグが両手で握り締めた矢が、俺の左胸に没入したのだった。

「いやあ、心臓がぷにぷにされてるみたいだ。なんか変な感じ」

 俺は笑った。学力テストでライバルに競り負けた時のような悔しさは、不思議と湧いてこなかった。

「本当ですか? じゃあ、もうちょっと心臓マッサージしてあげましょう」

 勝者たるメグもまた笑って、「うりうり」などと言いつつ、矢を小刻みに動かしたのだった。

「キャッキャウフフは、その辺りになさーい!」

 そこへ、ヴィーナス様がご降臨あそばした。

「高見くん、敗因を分析してごらんなさい」

 それもテストプレイヤーの仕事ということか。俺は、駆け降りてきた道を振り返った。

「そうですね。俺は、地上を道なりにしか進めない。けれど、メ……碧木さんは、道の蛇行を無視して、上空を直進できます。キューピッドにゴール地点に先回りされたら、逃げ切るのはかなり難しいんじゃないでしょうか?」

「あのね、ここはゲームの世界なのよ。高見くんにもちゃんと活路があるように設計されているんだから」

 そして俺は、試行錯誤の果てに、斜面の中腹に配置された樹木の幹に、怪しいがあるのを発見した。

 咄嗟にその中へと身を躍らせると、想像した以上の深さがあり、底は開けた空間となっていて、「スケルトン用」と明記された雪舟そりが設置されていたのである。

 そう……あくまでだ。進行方向へと頭を向けて、腹這いになって乗り込まない限り決してスタートしない雪舟だった。

 俺の悲鳴が地下空間にこだました。しかし、そのことと引き換えに、俺は、矢の届かぬ地下道を高速で滑降して、ゴール地点にメグよりも先着できたのだった。


 定期的に健康診断を受けることが、俺たちテストプレイヤーには義務付けられていた。ある日、その義務を果たした後、俺はたまたま、自販機コーナーでメグと二人きりになったのだった。

「あの、なあ……碧木さんは、ゲームの中で会う前から、俺のことを知ってたのか?」

 尋ねる口調が、なんだかぎこちなくなってしまった。ただ、テストプレイ初日のウィリアム・テル状態の最中、なんとなくだが、彼女も予め俺を知ってくれていたのではないかと感じて、いつか確かめてみたいと思っていたのだ。

 メグはなぜか、一度足元に目を落として、長い睫毛の陰で何かを考えてから、しっかりと頷いたのだった。

「そうですね……先輩が以前、校舎の屋上で、ご両親に関して熱弁をふるってらっしゃったのを、偶然居合わせて聞いてたんですよ、私」

 俺は、メグがどのエピソードを語っているのか、すぐに思い当たった。

 数ヶ月前の昼休み、クラスの男子の何人かで、屋上にたむろしていたことがあった。そしたら一人が、「うちの親は口うるさいと」と、悪口のマシンガントークを始めたうえ、「お前の親はどうなんだ?」と、俺に尋ねたのである。

 俺は、隠すことは両親に失礼だと考えて、彼らが殉職したことを打ち明けたのだ。

「それって最高の親ガチャじゃん! 親どもが物言わぬ札束に化けたってことだろ?」

 俺は、別のクラスメートに羽交締めにされなければ、その野郎をぶん殴っていただろう。

「俺は、父さんにも母さんにも生きててほしかった! 二人ともそのつもりだったに決まってる! けど、地元ってのは大きな家族なんだ! 父さんも母さんも、家族みんなで笑っていられるようにと頑張っただけなんだ!」

 親ガチャ野郎とは、それをきっかけに絶交したきりだが、俺は後悔などしていない。

 ただ、居合わせていたというメグには、俺がキレた有様は、どう映ったのだろう?

「刺さりましたよ、クロスボウの矢なんかよりよっぽどね。私も両親とは死別したけど、そんなふうに考えたことはなかったから……」

「え? 碧木さんのご両親も?」

 メグは、長い睫毛をわななかせた。

「私……実は、キューピッドになる前は、サッキュバスだったんですよぉ」

 やおら彼女が、アメリカンジョークのつもりなのか、大きく肩なぞ竦めたから、俺は、どうすればいいのかわからなくなった。

「高見くん、おやめなさい。碧木さんも」

 そこへ、ヴィーナス様——もとい理事長が現れた。ここはゲームの外なのだから。

「ここだけの話、碧木さんは、米国滞在中に証人保護プログラムを適用されて、日本へ帰国したのよ。わかるかしら?」

 俺は、頭を殴られたようなショックを受けた。証人保護プログラムというのは、確か、凶悪犯罪の目撃者が対象で……きっと、メグの過去を詮索するような真似は、彼女を困らせるだけだというのだろう。彼女にしたって、無闇に真実を話すわけにもゆくまい。

 それにしたって、サッキュバスだなんて……

 思うところはあったが、俺は「ごめんな」と、メグに頭を下げたのだった。


 翌日、俺は、フィールド最終盤の渓谷で、そこに架けられた蔓橋を攻略できずにいた。

 蔓橋とは、文字通り蔓草で編まれた橋で、決して大男ではない俺でも、一歩進むごとにギチギチと揺れる。そのうえ、足元もなかなかのシースルーなのだ。

 五十メートルほど下を、尖った岩だらけの川が流れていているのが、はっきりと見て取れる。

 地球に優しい素材の橋かもしれない。ゲームの世界だから、落ちても死にはしないし、痛覚だって調節されている。でも、怖いじゃないか!

 そのため、俺は、二十メートルにも満たない蔓橋を、えっちらおっちらと渡るうちに、にっこり笑った余裕のメグに討ち取られるという醜態を、既に何度も晒していた。

 俺は実は、勝利の方程式を察していた。だって、ヒントがあからさまだったから。

 まず、ゴール地点は、蔓橋を渡り切った先ではなく、そこよりずっと下の、崖肌に口を開けた洞穴なのである。

 そして、橋に進入してすぐの場所に、どうぞ使ってくださいとばかりに、一振りの山刀が引っ掛けてあるのだ。

 笑顔で滞空するキューピッドへと投擲して、牽制しろってか?——そんなはずは無い。できるわけも無い。

 飛来する矢なぞ全て叩っ切ればいいじゃないか!——ちょっとやってみたくはあるが、そんなバトル漫画系ヒーローの域には、俺は未だ到達できていないのだ。

 蔓橋とは、一説によると、敵襲の際には容易に切断できるよう、敢えてやわな素材を用いているのだという……つまり、そういうことだ。

 俺は、変な汗をかきながらも、ついに覚悟を決めたのである。


 蔓橋に進入してすぐ、俺は、山刀を手にすると、それで文字通り退路を断ったのである。

 そして、蔓の束と化した橋にしがみ付いて、できればターザンの雄叫びのように聞こえればいいなと思いつつ、「ア〜アア〜」が濁り切ったような悲鳴をあげずにはいられなかった。

 向こう岸の崖肌に激突したことには、痛覚の調節のお陰で耐え切れた……いや、微妙に耐え切れなかったので、俺は、山刀を取り落としてしまったのである。

 落ちた山刀が谷底の岩に当たってカンと音を立てるまでには、焦らすような間があったため、俺は、渓谷の深さを改めて痛感して白眼を剥いた。

 なんにせよ、後は洞穴に入り込むだけのはずだった。だがしかし、蔓の束にぶら下がった俺の足は、洞穴の天井よりも一メートルほど上にあるらしい……

 その時、俺の顔のすぐ横に、グサリと矢が突き立ったのだ。なるほど、崖肌は、岩ほど硬いわけではないようだ。

 そして、万事休すということだ。次の一矢は、間違い無く俺の体を貫くことだろう……

 ところが、である。メグは、俺ではなく崖肌に、さらなる矢を撃ち込んだのだ。俺と洞穴の間に、何本もである。

 俺は結局、崖肌のメグの矢を手掛かり足掛かりとして、ゴール地点たる洞穴へと辿り着くことができたのだった。


 どうしてメグは、俺に勝ちを譲ってくれたのだろう……

 その日、ゲームの世界を出て、学生寮の個室へと戻った俺は、勉強に遅れが生じないよう努めるべきだったのに、気付けばそのことばかり考えてしまっていた。

 彼女は単に、あのフィールドでは勝ち飽きて、テストプレイを切り上げたかったのだろうか?

 その可能性が大きい気がした。

 でも、もしかしたら、俺が披露した最大限の勇姿がカッコ良くて惚れたから……なんてことは考えられないだろうか?

 そう。わかっている。そんなに気になるなら、本人に尋ねてみるべきなのだ。

 しかし、メグがいつかのように大きく肩を竦めて、「悪趣味なジャパニーズジョークですねぇ」なんてリアクションを呈したら、俺はもはや一生立ち直れないかもしれない。

 そもそも、俺が彼女と秘密裏に連絡を取る手段なぞ存在しないし、この時間帯、女子寮で過ごしているだろうメグに直接会いに行ってしまっては、金欠とは別の理由で俺の学園生活にピリオドが打たれてしまうだろう。

 そう。確かめたくとも確かめようが無い。だから、仕方無いじゃないか!

 俺が自分に言い聞かせて思考のループにケリを付けようした時だった。

「先輩、開けて」

 部屋の窓を外から叩く音と、聞き覚えしか無い声がした。

 俺が、あれこれ考える前に言われた通りに開けてみると、なんと、でもやはり、メグが窓枠を乗り越えて部屋に入って来たのである。

 もちろん、ここはゲームの外だから、彼女に翼など生えちゃいない。なのに、屋外に面した三階の窓から上がり込むだなんて、どういう身体能力だ!

 メグは、ゲームの中とは対照的に、闇を織り成したような黒衣を纏い、クロスボウを携えてはいたが、それもゲームの中とは異なり、スコープを搭載するなどより攻撃的な代物だった。

「最後に、先輩の顔を見ておきたくなったの。男子寮への侵入、校則違反ね」

 メグは、急に大人びたような笑みを浮かべた。

「先輩の悲鳴、可愛かった。

 テストプレイ初日の素人とーしろごっこ、楽しかったです。

 ほんの短い間だったけど、私の命を光で照らしてくれてありがとう、レオ」

「いきなり何言ってんだよ!」

 俺は、彼女に詰め寄らずにはいられなかった。しかし、彼女の左肩に触れた俺の右手がぬめり……見れば、掌が鮮血に濡れていた。

「いっそのこと先輩の叔父さんにでも襲われたんなら、確実に返り討ちにできただろうけど……私がサッキュバスというコードネームで働いてた当時の組織からの追手よ。私がやつらのあれこれを裁判で証言したこと、やっぱり許してくれないみたい。

 軽く交戦したんだけど、このザマ。でも、こんなのも持ってるし、逃げ切ってみせるわ。それでも、レオにだけはお別れを言っておきたくて……」

 彼女は、黒衣の中、豊かな胸の谷間から、小型の拳銃なんて取り出して見せたのだった。

「私の分まで人間らしく生きて。そして、いつかどこか、明るい光射す場所で、素敵な花嫁さんと誓いの口づけをしてね!」

 一方的にそんなことを言って身を翻そうとしたメグの手を、「待てよ!」と強く掴んだ俺だった。

「メグ、逃げるってんなら、俺も行く。

 いなくなったことにも意味があるはずだとか、俺は捨てられたんじゃないはずだとか、二度と会えないままそんなふうに考えることしかできない毎日は、もうゴメンなんだ!」

 俺とメグ、涙を零したのは、一体どっちが先だったろう。

「男子寮には空き部屋もあるんだ。そこを逃走経路に使うのはどう?」

素人とーしろのわりに、悪くないわね」


 二人で一緒に光の当たる場所を目指そう。そしていつか、俺と誓いの口づけを……


 近年、哺乳類の知能を増大させる研究が盛んである。

 しかし、ヒトの頭脳に無闇にメスを入れるのはタブーであるため、本日は、世界各国の研究者が日本の会場に集結して、各々の手法で知能を強化したマウスを競わせるイベントが開催されていた。

 そんな中、一匹のマウスが、注目を集めどよめきを呼んだ。

 彼——オスのマウスなのだ——は、綱渡りの所要時間を競う競技において、やおらその細い綱を噛み切ったかと思うと、綱の断片に尻尾を巻き付けゴールまで滑空することによって、抜群のタイムを叩き出し優勝したのである。

 まるでターザンを見るようだと、研究者たちは驚嘆した。

 また、複雑な迷路を、僅か三十分間で学習した後、脱出に要する時間を競った際にも、彼は、決して抜け道を見落とさず、その先が滑り台となっていても一切怖気付くことも無く、明るい光によって示されたゴール地点へと、一心不乱に到達したのだった。

「さすがですな、アオキ博士」

 彼という成果物を生み出した研究者に、ライバルたちは脱帽せざるを得なかった。

「当然です。レオは私の最高傑作ですから」

「マウスの分際で獅子レオですか。確かに、名前からして強そうではありますな」

「あら、レオは、自分のことを獅子どころか人間だと思っていましてよ?」

 ヴィーナス・メグ・アオキ博士は、老眼鏡越しに微笑んだ。彼女は日系アメリカ人で、活動拠点は日本である。かつて、災害遺児に対して違法な人体実験を行なったとする黒い噂が立ち昇ったが、立証されるには至らず、むしろ名声を欲しいままにして現在に至っているのだ。

「レオ、愛しているわ。私たち二人で、どこまでも一緒に行きましょうね」

 アオキ博士は、掌の上のレオに、このうえなく優しく口づけたのだった。


 

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マーズとヴィーナスの仔らよ、誓いの口づけを。 如月姫蝶 @k-kiss

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