人の尻尾

フィオー

第1話


 夜空には寒い満月が昇っていた。


「ワンワンッ、ワンワンッ、ワンワンワンワンッ、ワンワンッ、ワオーーーンッ」


 ポチが吠えている……。


 母の葬式が終わり、この数日サボっていた散歩だからな……。


「ワンワンワンワンッ、ワンワンッ、ワンワンワンワンッ、ワンワンッワオーーーンッ」


 さっきから泥だらけの河川敷を走り回り、土をほじくり返し遊んでいる。


 僕も一緒に走り回りたいが、今日までずっと降ってた雨で、ぐちゃぐちゃな地面へは入りたくない。


 ……ああ、それにしても寒いなぁ。


「ワオーンッ、ワオーーーンッ、ワンワンワンワンッ、ワンワンッワオーーーンッ」


 ……母さん……。


 寒いけど、ひとりきりになった家の、母さんの空のベッドがある居間に座ってテレビを見ているよりマシだ……。


「ワンワンワンワンッワオーーーンッ、ワンワンッ、ワンワンッ、ワオーーーンッ」


 ……今年で45か、僕も……。


 父も大学の時に死に、嫁もいない……。


「ワオーンッ、ワオーーンッ、ワンワンワンワンッワオーーーンッ、ワンワンッッ、ワオーーーンッワオーーーンッ」


 母さん……嫁のことをずっと言ってたな……。


 ポチだけだな、僕の家族は……。


 ……母さん……ぼけちゃってたけど、もって長く一緒に入れると思ってた……。


「ワオーーーンッワンワンッ、ワンワンワンワンッワオーーーンッ、ワオーンッ、ワオーーンッ、ワオーーーーーンッ」


 えらく騒いでいるな……。


 きっと泥だらけになっているだろうな、帰ったら洗わないと……。


「……はぁぁぁぁ……」


 明日から連休か……丁度良い、ゆっくり休もう。


「ワンワンッ、ワオーーーンッ、ワンワンッ、ワオーーーンッ」


 ……ひとりは嫌だな……これからひとりで、ずっと死ぬまでひとりで、生きていくのか……。


 寂しくて仕方ないや……ああ、嫁、欲しいなぁ……。


「ワオーーーーーンッワンワンワンワンッ、ワオーーンッ、ワンワンワンワンッワオーーーンッ、ワンワンッ、ワオーーーンッ」


 ……。


 ……、……ああ、ダメだダメだ!


 妄想してしまった、グラドルとのなんだかんだを頭から払拭させる。


「ワンワンワンワンッ、ワンワンッ、ワンワンワンワンッ、ワンワンッワオーーーンッ」


 まったく! ああ……情けないったらありゃしない……。


「ワオーンッ、ワオーーーーーンッワンワンワンワンッ、ワオーーーンッ、ワンワンッ、ワオーンッ、ワオーンッワオーーーーーンッ」


 ……ポチの奴、ちょっと騒ぎすぎじゃないか……。


「ポチ、何騒いでるんだ!」


 ポチは川の近くまで行っていた。


 そして、その場所で土を掘り返しながら、吠えている。


「ワオーーーーーンッ、ワオーーーーーンッワオーーーーーンッ」


 なんだ?


「戻ってこーい! なにやってんだー!」


 ポチは呼ぶ僕の方を1回見てのち、再び土を掘り出し始めた。

 

 何やってんだ?


 僕は、泥でぬかるんだ河川敷をポチのところまで歩き出す。


 靴が泥に沈み、歩きづらい。


 水が靴からしみだして足が冷たく感じだしてきた。気持ち悪い……。


「おい、どうしたんだよポチ……?」

「わんわんっ」


 ポチは自慢げに、掘った穴を見せてくる。


 まったく……ポチにはこういうところがある。


「……なんだそりゃ?」


 ふと見た穴の中に、つるつるで太めの紐みたいなのがあった。


 蛇? 違うか……なんだこれ……。


「……これで騒いでたのか?」

「わん!」

「……そうか……偉いなポチ。よくやったぞ。じゃ、もう帰ろうな」

「ちょっと待ってください」


 すごく可愛い女の子の声が、いきなり聞こえてくる。


 僕は驚きのあまり固まってしまった。


「こうして何十年かぶりに話せるなんて、嬉しいです」

「……」


 首を振り、声のしてくる方向を探す。


「人には私が必要なんです。そうなんです。……あれ、もしもし?」

「……」

 

 ……声は、下の方からしてきているな……。


「どうしました? おーい。返事をしてくださいな」


 間違いない。


 声が、どこからするかは、発生源が判明した。


 しかし、それだからこそ、もっとよくわからなかった。


「驚くのも無理はありません、しかしね、黙っていても事態は進みませんよ。大丈夫、危害を加えるつもりはありませんから。さっお話しましょ?」


 僕は、深く呼吸をして、意を決して、


「……お前がしゃべっているのか?」


 穴の中の紐みたいなやつに尋ねる。


「そうです。どうも、初めまして」

「ああああ……」


 僕は驚いて仰け反ってしまう。


「なんなんだ、これ!?」

「さぁ、何なんでしょうね? 私って存在は」

「なんでしゃべってるんだ!?」

「それは、私が、あなたの思いをなんでも叶えられる存在だからです」

「……何言って……」

「勝手に話を進めますね、どうせあなたが信じる信じないに関わらず私は勝手に発動させますのでね」


 僕はしゃがんで、分厚い紐みたいなそれを手に取った。


「気持ち悪っ」


 それは、ぐにゅっとした感触で、おもわず投げ捨てしまう。


 ポチが反応し飛び出した。


 かと思うと、それを咥えて戻って来る。


 ポチが元気に、咥えているそれを僕に差しだしてきた。


「……ポチ、それを、置け、そこに置け、捨てろ」

「酷いですね、投げるなんて」


 可愛い声が起こっていた。


「……」

「良いですか、先ほども言った通り、私はあなたの思いをなんでも叶えます。期間は3日間、その間、何個でも叶えます! ただし、それなりの強度で思い描いてくださいね!」


 ……なんだろうこれ……これは夢かな……。


「ただし、です! あなたは、私の存在を忘れます! つまりあなたは、これから3日間の間、思ったものが何でも叶うというのを知らずに過ごす!」


 ……何が起こってる……?


「まずは発動前にあなたは私を、あなたが絶対に見つけられない場所に隠すんです! で、それが終えたら、さぁ、始まりです! あなたがいつも叶えたいと思っていることが叶う、夢のような時間が始まりますよ!」


   ◇


 どこだ? どこへ行った?


 母さんが遠くに行けるはずない……家の中に、必ずいるはずだ……それ以外ない……。


「母さーん」


 階段を見上げ、2階に向かって呼ぶ。


 いるわけない、階段なんて登れるわけないじゃないか……。


 僕は振り返って、もう一度、台所を探しに行った。


 6人か座れる大きなテーブルには、端っこの、ふたり分のスペースだけが綺麗に片付いている以外は、いろいろな物が乱雑に置かれている。


 母さんがボケて以来、散らかっていく一方だな……片付けないとな……。


 ……なんとなく、僕はそのテーブルを見つめる。


 ……。


 それから、食器棚、冷蔵庫、そして鍋がいっぱい置いてあるシンクを眺めた。


 ……。


 ……風呂か、トイレに籠ってる……? 仏間か……?


「母さーん」


 台所から出て、ふと縁側の窓から、外に目をやった。


 さわやかな朝日が、窓の外の庭に、柔らかな影を落としている。


「わんわん」


 ポチだけが、座ってこっちを見ていた。


 窓を開け、尻尾振ってやって来たポチを撫でる。


「わんわん」


 ……母さん、どこへ行ってしまったんだ……?


 ……どこにもいない……なら、また徘徊している、という事になる。その事実が嫌でたまらない。


 あっ待てよ。


 そうか物置だ! きっといる! もう、そこしかない!


 僕は焦燥感とともに窓を閉める。


 前にもあった。きっと物置でなんか探してるんだ。それで見当たらないんだ。


 と、強く思った。


 物置に行こうと振り返る。


 その目の前に、廊下の向こうで、母さんがふらふら歩いていた。


「母さん!?」


 僕はびっくりして駆け寄った。


「なにやってんだよ」

「ああ、ちょっと物置に用があって」

「たくっ、いないから探したじゃないか」


 母さんはふらふらと歩いて居間に入っていく。


 母は居間の端にあるベッドに横になり、いつものように悠々とテレビの情報番組を見始めた。


 ……なんなんだよ、まったく……。


 僕もいつものように、テレビから一番遠いソファに座る。


 ほっと安心しながら、いつものように、テレビの近くに置いたベッドに寝ころぶ母を横目で見ながら、ケータイを起動した。


「嫁はどうだい? 私が死んだあ――」

「――うるさい」


 母さんの深いため息が聞こえてくる。


 それからしばらくの沈黙の後、


「……ねぇ、いいねぇ温泉、私行きたいわぁ」

「……あん?」


 つぶやく母に、何だと思って見てみると、テレビに温泉が映し出されている。


「ほらここよ」

「……」


 僕は無視して、ソシャゲに集中した。


「ほら、良い景色だこと……」

「……」

「気持ち良いだろうねぇ……」

「……」

「ああ、海鮮料理も美味しそうだわぁ」

「……」

「……もしかして、行かせろと言ってるのか?」


 母がこっちに振り向き怪訝な顔つきで見てきた。


「お前は、なんかやりたいこととかないの? 毎日毎日ケータイいじくって、食べて風呂に入って寝て。そんな毎日嫌じゃないか?」


 このババァはムカつくことを言ってきやがる。


「……五月蠅いな。仕事で疲れてんだよ。ゆっくり休みたいの。なんか知らないけど、体の節々が痛いんだ」


 なんなんだ、まったく。


「お金貯めて、どこか行かない?」

「……」

 

 僕は怪訝な顔つきで母を見つめてくる。


「私ら、なんで、そんなことを願わなくなってんだろうね……」


 母が寂しそうな顔になった。


 ……あれ? 


 ……なんか様子が変だぞ……。


「どうしたんだよ。急に……」


 僕はケータイを置き、母と向き合う。


「思えば毎日、その日暮らしってわけじゃないけど、節約しながら、ずっと暮らしてきてさ……。行きたいところとか、やりたいこととか、思えばあったはずなのに……」


 ボケが回って、また変なことを言い始めた……。


「そんなこと、良いなぁって思うぐらいで、別に、願いもしなかったわね、私達……。それは不幸ってわけでもないからなんでしょうから、良いんだろうけどさ。願いなんて、ゆっくり休みたいとか、そんなのばっかりでさ……」

「……」

「……母さんお前が嫁――」

「――母さん、やめろ。なんか怖いわ」


 母さんが、ちょっと驚いた顔をして静かになる。


「……そう、お前が願うならやめるよ」


 母がゆっくり首を動かし、テレビに視線を移した。


 なんか死期が迫った人が言いそうなことを言いだしたぞ……。


「……」


 ……心配だな……最近、あまり食べなくなってたし、病院に行ってちゃんと診てみた方が良いかも……。


 僕はケータイを取って、ソファに深く座り直す。


 気を取り直してソシャゲの10連ガチャを回していった。


 ……当たれ当たれ。


 ……ああああああああああ!


 画面の中が、色とりどりのエフェクトであふれる。


 こっこれは!


 当たれ当たれ、当たれ当たれ……当たれ当たれ、当たれ当たれ……当たれ当たれ、当たれ当たれ……。


 おっこれはっ!


 画面の中が、金色に輝きだした!


 ああっ! 来た来た来た来た来た来た来た、当たった当たった!


 今日はツイてるぞ! やったー! やったー!


 母さんがいて、テレビの音だけがする、いつもの平和な世界。この生活以上に何を望むんだよ、まったく。辛いだけだろうが……。


   ◇


 午後9時。


「ホントに大丈夫なんだな」

「うん、もう眠たくなった」


 そう言って母さんが、ゆっくり目を瞑る。


「ちゃんと寝てろよ、起きても、朝みたいにウロチョロすんなよ」

「ああ、はいはい、わかってるよ」


 ……なんか、またするような気がする……。


 怪しみながら、僕は居間の電気を消した。


 廊下に出て、階段を上り、自室に向かう。


 母さんは、嬉しい事に、今日は早めに寝てくれたし、僕もぐっすり寝ようか……。


 早めに寝ないかなって思ってたところだったから助かった。


 僕はベッドに飛び込むように横になる。


 ……うーん……ああ、なんか疲れた……。


 いつも母さんと一緒は疲れる……。


 なんか僕も、ぐっすり寝れそうだ。


 明日も休み。休もう休もう……。


 ……。


「わんわん」


 ……。


「ワオーーーーーンッ、ワオーーーーーンッワオーーーーーンッ」

 

 ……うるさいな……。


「ワンワンワンワンッ、ワンワンッワオーーーンッ」


 ……おい、近所迷惑だポチ……。


「ワンワンッ、ワンワンッ」


 ……見に行かないと……ご近所さんに……。


 ……なんだよ、もう……寝れそうだったのに。


 僕は起き上がり、庭のポチの元へ向かった。


 庭でポチは満月の明るい元、礼儀正しく座っている。


「わんわんわん」

「なんで吠えたんだ……?」

「わんわん」


 ポチが尻尾を振り、嬉しそうに脚にまとわりついてきた。


「どうしたんだよ」

「わおーん、わおーん」


 ポチが居間に向かって吠えだす。


「わおーん、わおーーん」

「……、……母さん?」


 虫の知らせというか、急に母がいなくなった確信がした。


 母の寝ているベッドが、真っ暗の中、すでにもぬけの殻になっている光景が、

僕の頭に、鮮明に思い浮かんでしまう。


 居間に急いだ。


 飛び込むように居間に入り、電気をつけ、ベッドを確認する。


「……やっぱり、いなくなった……。……くそっ」


 慌てて、家中を探す。


 けれど思った通り、どこにもいなかった。


 どこにも……ああ! なんなんだ、たくっ! ボケがひどくなっちまったのか!?


 力任せに物置のドアを開け、明かりを点ける。


 中を覗き込んだ。


 いない。


 床は長年の埃が膜のように張っている。一面に、何の乱れもなく、積もり、それが誰も入っていないことを現していた。


 徘徊してるんだ!


 すべての部屋を回り、スマホのライト片手に外に出る。


 ……母さん、どこへ行ったんだよ!


「わんわんっ」


 ポチが、かまってとばかり尻尾を振って僕の足にまとわりついてくる。


 庭で、犬小屋が月明かりにきらめいていた。


「ポチ、小屋に戻れ、それどころじゃない」


 僕は、大慌てで家の回りを探しだす。


 僕は走り回った。


 いない……。いない……。いない……。


 僕は走り回って、家の回りを探したが、やはり、どこにもいない……。


 ……もう早い目に、連絡しよう……。


 僕は家に引き返し、玄関の上がり框にどっしり座り込んだ。


 おずおずと、スマホで警察に連絡する。


「……はい……そうです、いなくなって……はい……、はい……はい……では、お願いします……」


 それから僕は、のろのろと立ち上がった。


 くらくらと階段を上り、自分のベッドに寝ころぶ。


 僕は、母が徘徊していると思うと、ぶるっと身震いしてしまった。


 寝ようとしても、全く寝れない……。


 僕は、しばらく耳を澄ましてみた。


 家の中には、どこにもいない。


 今、この家にいるのは僕ひとりか……。


 ……ああ、ポチがいたっけ……。


 ……なんでだろう、急に寂しくなってきた……。


 ……たしか昨日も、こんなこと思いつつ寝たっけ……。


 ……ぐっすり眠ろう。明日、警察から連絡が来るさ。


 もう、何の心配もなく、ぐっすり……。


 寝る寝る寝る……何も考えない、寝る事だけを考える……。


 ……。

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