《Letter−Blue》

——— 夢





「んぅ、旦那、様……」


 固く閉じられた瞳は、あかつきをまだ見ない。

 厚地のカーテンの隙間から覗く窓の外は、深い海の底に沈んだようにくらいままだ。


 ベッドサイドに衣擦れの音がして、青灰色の瞳に憂いを滲ませた美貌の青年がエリアーナの寝台の真横に膝を付く。


「寝言、……か」


 繊細な指先がそっエリアーナの額をすべり、閉じたまぶたに落ち掛かるひとすじの髪をすくい上げた。


「……すまない、エリアーナ」


 すると、ためらいがちなかんばせがゆっくりと近づいて。

 静かな寝息を立てる白い額に、形の良い彼の唇がそっと押し当てられたのだった。




 *




 …——アレクシスさまが、私を『可愛い』だなんて。

 そんなはずありません……っ!




「——そんなはず、ありません……」


 ゆっくりと目を開けたエリアーナは、まどろみの中で何度も同じ言葉を呟いていたことを知る。

 朝日の眩しさに、やっと現実に引き戻された——…



「………夢……?」

 ——それも、とてもリアルな。



 現実に起こった出来事にもとづくものに間違いなさそうだけれど……あの日あの時、木から落ちたエリアーナを受け止めてくれたのは、夫のアレクシス。


 だけど……夢の中で見たような優しい眼差しだったかどうか。

 今ではもう、ほとんど覚えていないのだった。


 眠い目をこすりながら絹織りの天蓋をめくって起き上がる。エリアーナひとりが眠るには、この寝台はあまりに大きすぎる。

 実家のこじんまりしたベッドに慣れているので落ち着かず、広々とした寝具の端っこのほうを遠慮がちに使っていた。


 二本の細い足をそろっと床に下ろす。

 部屋ばきを探してうつむけば、腰まである緩やかにウエーブがかった灰紫色の長い髪がさらさらと膝に落ちた。


 ——きっと自分に都合のいい夢を見たのね。


 名ばかりの夫……アレクシスの、まるで鉄仮面のように動かぬ顔面から優しい言葉が発せられるところなど想像すらできやしない。

 それどころか顔を合わせるたびに向けられる、あの冷やかな視線を思い出して身震いしてしまう。


 無表情で冷徹な夫、アレクシスが。

 エリアーナに笑顔を投げかけ、労わりの言葉をくれたかどうかなんて、今となってはもうどちらでもいいのだった。


「ちゃんと起きなきゃ……遅れちゃう」


 幼かったエリアーナの瞳に、鮮烈な紅い記憶を残した婚約の日から七年が経った。

 七年ぶりに会ったと言うのに、結婚式の日ですらアレクシスはエリアーナと目を合わせようともしなかった。


 エリアーナは、世に言う『お飾りの妻』である。


 夫のアレクシス・ジークベルトにはお屋敷の離れに住まわせている愛人がいて、結婚から二ヶ月目を迎える今日までただの一度も——結婚初夜でさえ——エリアーナの寝室を訪れたことはない。


『僕の大切な婚約者エリアーナが、怪我をしなくて良かった』


 夢の中で紡がれた言葉が頭の中でぐるぐる回る。

 


 —— 遠いあの日、旦那様が「大切だ」とおっしゃったのは。

 私じゃなく『アビス一族が継承するの異能』のことだったのですね。


 旦那様が冷たいのは、私に期待していた異能、『王の』が発現しなかったからですよね?


 私が、侯爵家にとって何の利益をもたらさない『無能嫁』だから——。



 重く沈みそうになる気持ちをすくい上げ、夜着のままバルコニーに面した窓の前でう〜んと大きく伸びをした。

 眩しいほどの陽光を浴びれば、身体中の細胞という細胞が目を覚ます。


 ——夫に愛人がいても、お飾りでも。

 私は『みじめで孤独な妻』ではないはずよ……?


 胸の奥底から込み上げてくる寂しさと不安を押しやりながら、そう思おうと努力した。


 呼びかければいつでもが妖精の里からやってくる。

 それに何よりエリアーナには、他の誰よりもエリアーナを理解し信頼できる心強い存在ひと——『クロード・ロジエ』がいるのだから。


「親愛なるクロード様。夫は今朝も不在ですが、私は平気です」

 胸の前で両手を組んでアメジストの目を閉じ、手紙を綴るようにつぶやいてみる。


 夫がそばにいなくても寂しくないなんて、平気だなんて強がりだ。

 だけど……アレクシスに優しくされるなんて『叶わぬ夢』を見てしまった自分への、精一杯の抵抗なのだった。


(酷い扱いされてんだから、アレクシスとなんかさっさと離縁しなよ! 白い結婚ってやつでしょ? 今ならまだ間に合うって!)


 どこからともなく耳に届いた《声》が、エリアーナの肩で軽やかに跳ねた。


「ルルっ、聞いていたの?!」


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