第103話 俺の居場所はここだよ
エイラズーを発って半日、船は中継点に寄港した。翌朝の出港に備え、乗客たちは一夜の宿をとる。
質素ながら南国情緒溢れる旅館だった。ふたりは食事の後それぞれの寝室へと向かう。
(結局〝何もなかった〟な……
悶々とした気持ちを抱えたまま、
(……いや、違うな。〝何もしなかった〟んだ、俺が)
防砂林に挟まれた小路を抜けると、海はすぐそこだった。
(三兄弟は見違えるように強くなってた。ラリッサもお祖母さんと過ごした日々を糧にしっかり将来を見据えてる。澪姉だってユェンさんとの手合わせから何かを掴みかけてる)
満月に近い夜空の下、サンゴ礁に面した砂浜が白っぽく照らし出されていた。
(俺だけが、何も成長してない。俺だけ……出遅れてるなぁ)
潮騒をかき分けて、ひゅうひゅうと風を切る音が聞こえてきたが、それは程なく止んだ。
「あ、献慈も来たんだ」
「散歩ってとこ。澪姉は?」
澪の手の中で
「私も。広い場所探して歩いてたら、ここまで来ちゃった」
刀を収める鞘のほうは元の持ち主のものを譲り受けてある。螺鈿蒔絵で橘の模様が描かれた立派な鞘だ。
「何だか、ナコイの海思い出すね」
「……そうだね」
たくさんの出会いや波乱があった場所。思えばあそこから随分と遠くへやって来た気がする。
「路地裏で、行き過ぎた暴力振るったりして……」
「…………」
「私……嫌われたくなくて黙ってたけど、昔も似たようなことやらかしてるの」
まだ小学生だった頃、いじめられていた子どもを助けに入った。母親から剣術を習っていた澪は、幼い正義感からいじめっ子の集団に過剰な制裁を加えてしまう。
「助けた子には感謝されたんだけど、いじめてたほうの子たち、何人もケガさせちゃって……お母さんにすっごく怒られた」
いわく、「私の太刀筋を真似ろとは言った。だが暴れっぷりまで真似しろとは言っていない」と。
このままでは周りに示しがつかないと、澪は母親から稽古の取りやめを言い渡されたのだ。
「十年近く経ってまた同じ失敗だもの。全然学習してないなぁって。あ、言い忘れてたけど、その時助けた女の子が
「それであんな仲がいいんだね」
「うん。何だかんだあの娘とは一番付き合い長いから」
「そうなの? てっきり
「千里と会ったのはその後かな。私、お母さんに何度もお願いしたんだけど、なかなか稽古再開させてもらえなくて――」
剣術という拠りどころを失い意気消沈していた澪を救ったのは、父親の一言だった。
手なぐさみに別の習い事をしてみるのはどうだろうか、と。
「それでね、三味線の手習い始めてみたんだ。千里と初めて会ったのもそこだし、あと……」
一瞬口ごもった後、澪は打ち明けた。
「初恋の人なの、三味線のお師匠さん。鼻つまみの問題児だった私にも分け隔てなく接してくれた、とっても優しい人」
「尊敬してるんだね」
「うん……あの時は自分の居場所がなくなっちゃったように思えたから、受け入れてもらえてすごく嬉しかった。私はここにいていいんだ、って。だから私も、献慈が家に来た時、何が何でも受け入れてあげようって」
あの日と変わらぬ微笑みに、献慈は澪の優しさの原点を垣間見た思いがした。
「……そうだったんだ。ありがとう。俺、澪姉には助けられてばっかりだ」
「ううん、いつも元気づけられてたのは私のほう。つらいとき一緒にいてくれた、迷ってるときに道を示してくれた、踏み出せずにいるときはそっと背中押してくれた――そんな献慈が……好き」
月明かりに映える二粒の宝石が、じっと献慈を見下ろしていた。
真っ直ぐな想いに応えられるのは、やはり真っ直ぐな想いだけだと――。
そっと澪の両手を取り、自らの手を重ねる。
「俺の居場所はここだよ、澪姉――」
言い止むを待たずして、澪が不意に身をかがめる。
自分には無縁の夢物語だった。
ずっと他人事だと思い込んでいた。
この瞬間が訪れるまでは。
瞼を固く閉じた澪の顔が、視界をいっぱいに覆っている。
(――〝今〟だったんだ)
つられて献慈も目を瞑る。
かつてないほど近くで耳にする息づかいが心地良い。
「んっ…………」
半開きになった献慈の唇の間を、あたたかく、しっとりとした、やわらかな感触が塞いでいた。
愛おしむように髪を
妙に熱っぽいのは、触れ合った部分だけにとどまらない。
「……ンふっ…………ふんぅ……っ」
こんなにも求められている自分がどうにも照れくさかった。
だがそれ以上に、このたどたどしく拙い行為に込められた澪の想いが、
抱き寄せたい、触れ合いたい、そんな気が起こらなかったわけでは決してない。
今はただ、その想いだけを、純粋に受け止めていたかった。
「ん…………むはっ……はぁ、はぁっ……」
名残惜しげに尾を引く蕾同士が、小さくはじけるようにして、離れた。
「……ふぅ、はぁっ…………ん……」
「……おやすみっ」
澪はぷいと背を向け、駆け出して行った。
熱に浮かされたまま、その場から一歩も動けず、献慈は立ち尽くしていた。
波の音がゆっくりと火照りを鎮めてゆくも、
(……熱かったな……鼻息)
献慈の上唇にはいまだ冷めやらぬ熱気が生々しく残っていた。
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