第5話 マッケンジー先輩
生ぬるい風が、教室の窓の外からセミの声を運んでくる。
「『橘の 匂ふあたりの うたた寝は 夢も昔の 袖の香ぞする』……えー、この歌は本歌取りといって――誰か説明できる人? いない? じゃあ……
「あ、はい」
渋々と立ち上がる、眼鏡の男子生徒。
(俺……でいいんだよな)
「どうした?」
「えっと……本歌っていう、元の……アレがあって、ただ、そのまま写すんじゃなくて、アレンジっていうか、その……」
「んー……そうだな。もっとわかりやすく言うと――」
教師が教壇へ戻って行くのを見届け、後ろの女子生徒が茶々を入れてくる。
「さすがマッケンジー先輩。やっぱ二回目ともなると余裕だね」
便乗するように、隣の男子生徒も声を上げた。
「はいはーい。オレも二回目っすよ」
「知ってるし。ヘッキーは目立つんだから、黙って座ってなよー」
(たしかに……お前は目立つよな)
ホームルームが終わり、放課後を告げるチャイムが鳴る。
「じゃ、よろしくね。マッケンジー先輩」
「……あ、うん」
足早に去って行くクラスメイトに、献慈は力なくうなずいた。
(イリヤ・マッケンジー、ね……)
べつに構わない。そう仕向けたのは献慈自身だ。留年生がクラスに馴染むにはこの程度の対価は必要だろう。
赤点続きに自棄を起こし、補習からも逃げた。自業自得。後からどれほど反省しようと周囲からの評価は変わらない。
付き合いの浅い友人は離れ、両親からは呆れられ、姉はもちろん妹にさえ使い走りとして扱われる、それが献慈の現状だった。
「おいおい、今日は何かと厄日みたいだなー? 献慈」
「献慈」と本名で呼ぶクラスメイトはただ一人。切れ長の目をした長身の男子生徒は、授業中に目を引いていたお調子者その人である。
「あぁ。授業はともかく、この後の雑用がね」
「出席番号順かー。つくづく運がねーなー、オレら」
「え、何? 『オレら』って?」
「え、じゃねーよ。オレたち
(お前はそう言ってくれるけど……俺とは全然違うだろ)
献慈の親友にして悪友のこの男、名を
サッカー部の有望株だった碧郎はケガで長期離脱、快復後も元のポジションには戻れず引退を決意する。心身の不調で休学が続いたことが留年の理由だった。
悲劇のヒーロー。自分とは何もかもが違う――浅ましい劣等感だ。
だがそれはそれ。気さくに接してくれるこの男を献慈は気に入ってもいる。
「……だよな。でも碧郎、今日は先帰っていいから。家の手伝いあるんだろ?」
「そーそー。運悪くってゆーか、運良くってゆーか?」
碧郎の実家は電器屋だ。夏場はエアコンの取り付け依頼が殺到する書き入れ時である。
「そっか。バイト代出るもんな」
「おう。来月までにぜってーツインペダル買うわ」
「いいな。碧郎もついにメタルドラマーらしくなってきたな」
「そんなの今さらだろ? メタルギタリストさんよぉ」
二人に共通する趣味の中でも最上の話題といえばヘヴィメタルだ。互いに留年組でメタラーでもあるとなれば意気投合までの時間は要さなかった。
「……だな。それよりこないだの新譜聴いた?」
「とっくに買ったわ。最後の曲、めっちゃテンション上がんね?」
「あー、アレね」
「♪~ぱ~ぅわぁ~」
「♪~ばわっ ぱわっ」
「ギャハハ!」
献慈は中学の頃から小遣いやバイト代のほとんどをCDやギターへつぎ込んできた。逆境に立ち向かう力をくれるメタルは心の拠り所であった。
「っつーか献慈、ちゃんと練習してる?」
「もちろん。碧郎こそどうなん?」
「とりあえず完コピ目指す。そっから先はオレの解釈が乗るかもしんねーけど許せ」
「んだよそれ……普通にコピーしてくれよ」
親友とともに目指すは、秋に開かれる文化祭のステージだ。
それは献慈が再び歩み始めた学校生活での、ささやかな目標であった。
「♪~ぶれっきんざろー、ぶれきんざろー(デッデーン)」
放課後の実習棟に人通りは少ない。この程度の鼻歌はどのみち吹奏楽部の練習の音にかき消される。
右手にはクラスの誰かが置き去りにした救急箱。欠席の保健委員に代わって献慈が保健室まで返しに行かねばならなかった。
「おーい」
降り階段の前で声がかかった。さっき別れたばかりの碧郎だ。
「何だ、急がなくていいのかよ」
「急いでるって。さっき返し忘れたんだよ、これ。『ホンマええケツでんな』」
「バ……ッ! タイトル口に出すなって!」
周囲を気にしながら受け取るそれは「エ」で始まって「ロ」で終わる二文字のジャンルに属するビデオテープだ。
「今さら恥ずかしがんなって。へへ……献慈くんよ、アンタもいい趣味してんなー」
「いや、だからこれはバイト先の先輩にダビングしてもら……って、聞いてる?」
「ゴメンな、時間ねーんだよ。んじゃ、ごちそうさまでした!」
満面の笑みを残し、碧郎は風のように去って行った。
冬場ならば学ランに隠しようがあるが、夏服のシャツ一枚ではどうにも心許ない。
(まさか……このブツを手に持ったまま、校内をうろつけと?)
最悪と言っていいタイミングで、軽快な足音が近づいてくる。
身を隠そうにも場所はない。咄嗟に向けた背中に、
「――ひょっ!?」
吹きつけられる、冷たい感触。
「入山くんはリアクション薄いなぁ」
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