在るべきところへ
る
第1話
引き裂けてしまいそうな無音に包まれた夜、私と男は終わりの見えないほど広い駐車場にて、終わりの見えない沈黙の時をただ二人、静かに共有していた。
しかしそんな永遠と思しき時にも限りがあるわけで、先にこれを破ったのは男の方だった。
「お嬢ちゃん、400年前にこの空で起きたこと、覚えているかい。」
えっと、この男は何を言っているのだろうか。覚えているも何も、そんなもの知らないんだけど…。私は何故、男が私にそのような質問をするのか、見当もつかなかった。
返答に困った私は、手の中でじんわりと熱を発しているカップのコーヒーに口をつけた。しかし舌に触れた瞬間、予想以上の熱さと苦さに、反射的にカップから唇を離してしまう。
というかそもそも、自分のことすらよく分からない私に、400年前の空での出来事など到底分かるはずもなかった。
そう、私は自分の名前も知らない、いわゆる浮浪児だ。親の顔も兄弟の顔も、どこで生まれてどこで育ったのかも、まるで知らない。友達もいなければ頼れる大人もいないから、物心ついた頃からいつも一人きりで生きてきた。今日だって、先刻日が落ちる頃までは、いつも通り私は一人だったのだ。
人々が忙しなく行き交う道の脇に、私は一人座って、ただ流れるばかりの時をぼんやりと眺めていた。今日も何もせずに一日が終わる。ならばせめて夕日でも見ておこう。そう思いながら顔をあげると、珍しいことに、こちらに近づいてくる男の人の姿があった。私はこの男のことを知らなかったが、男の方は馴れ馴れしく片手を振りながら、私に声をかけてきた。
「やっと見つけた…やあ、お嬢ちゃん。」
私は人と話したことがなかったから、対応に困った。しかしそんな私を置き去りに、男はつかさず言葉を続ける。
「ここにいたのかい。僕は君のことをずっと探していたんだ。もう大丈夫だから、僕と一緒においで。」
よく分からないが、もう大丈夫というのは、男は私を救ってくれるという意味だろうか。男は燃える夕陽とちょうど重なって表情がよく見えなかったが、かすかに笑っているようだった。私は男に頷いてみることにした。多分、初めて出会う自分を求めてくれる人に、賭けてみたい気持ちがあったのだろう。それに断ってしまえば、後に待つのはどうせ何も起こらない退屈な日々だけだ。それなら男について行って、それで危険な目に遭わされても別に構わないと思った。
しかし男の手をとって見えてきたのは、この駐車場と、先程の夕陽よりも熱く焼けつくような、なんとも滑稽で美しい星空だった。雲と雲の隙間からは橙色の光が幾つも差し込み、それははまるで幼い子供の悲鳴のように、あるいは割れたステンドグラスの欠片のように、鋭く儚く星々を照らしている。
「この400年前の空を見ても、何も思い出せないかい。」
男の言葉に、私は現実に引き戻される。そうだ、男の質問にまだ答えていなかった。
「こんな空は初めて見たし、400年前?の話は知らない。どうしてそんな事聞くの。そもそもどうして私を探していたの。」
私には男の話す言葉が知らない言語のように聞こえた。それほどに、意味が分からなかったのだ。だから質問されても上手く返せない。しかし、男はこちらの下手な質問に即答した。
「君がどこにいようと、必ず君のことを迎えに行く。それが、僕の使命だからだよ。」
ハッとした。私はコーヒーのカップを取り落とす。途端に体がぐらついて、目の前が霞んできた。コーヒーは非常にゆっくり落ちていく。気持ち悪くて吐きそうだ…どうしたらいいのか、
分からない。ただ一つ分かることは、体の奥底に眠っていた何かが、突然目覚めて、その衝撃が大きすぎて体の対処が追いついていないということ。でもその何かが何なのか……真っ黒なコーヒーが音を立てて床に散った。直後、私は暗闇のなかに引きずり込まれるように落ちていった。
気がつくと、私は白い霧に包まれていた。その霧は次第に晴れていき、その先の暗闇へと私を進める。その暗闇の更に先にあったのは___
星空…そう、私の知る星空。どんなに手を伸ばし続けても、触れる日が来ることのない、どこまでも青くて、高くて、それでいて広い、宇宙の断片がそこにあった。
私は大人たちに付き合わされることに飽きてしまって、教会から少し離れた草むらで、星たちと話をしていた。無論、話しているのは私だけだが、瞬く星は私の話に頷いて、共感してくれているようで、私は嬉しくて夢中で話した。
ふと、後ろから誰かがこちらへ向かっている気配がした。お父様やお母様だったらどうしよう、という不安が頭をよぎり、急に罪悪感が芽生えてくる。二人は私のことをよく叱るからだ。それに対して弟は何をしても褒められるのだから、私は弟が羨ましくて仕方がなかった。弟は大人になったら、この星を治める王になると決まっているらしい。私もこのドレスを脱ぎ捨てて男の子のふりをすれば、皆から褒めてもらえるのだろうか。
そんなことを考えているうちに、気配はどんどん近くなる。そして振り向こうとした私の両肩を、その誰かがつかんだ。心臓の音が大きく鳴って私を揺らす。
「やっと見つけました…ダメじゃないですか、姫。勝手に式を抜け出してこんな所に来てしまうなんて。」
私の両肩に置かれた手の主は、世話係の男だった。なーんだ、びっくりした。
「どうしていつも私を探してくるの。来ないでよ。」
「どうしてって…あなたがどこにいても、必ずあなたのことを迎えに行くのが、世話係である僕の使命ってものでしょう?」
男の答えはいかにも王家の従者らしいものであったが、私のことを大切に思う者は宮殿に一人もいなかったから、嘘でも嬉しかった。次は絶対にもっと遠くへ行ってみよう、それでも男は私を迎えに来るだろうか。そう思いながらもう一度星に目をやると、私はある異変に気が付いた。
他の星とは比べ物にならないほど明るく光っている、大きな星があるのだ。しかもその星は、よく見ると徐々に大きくなっている。もしかして…
「ねぇ、あの星、こっちに近づいてきてない?」
「…ん?あ、あれは……!」
男はもともと色白な顔を真っ青にして絶句した。
「ねぇ、あれ何なの?ねぇ、ねぇってば!」
男は口を半開きにしたまま動かない。しかし少しして、吐き出すように男が言う。
「あれは星じゃない。爆発する…姫逃げて…!!」
男の声は震えていた。爆発?逃げる?どういうことなの。その時だった。星は急激にスピードを加速させ、私が一瞬視線を落とした隙に空はもう見えなくなっていた。巨大な球体は更に眩い光を放ち、そして体中を一斉に撃たれたような衝撃と音が響いて、同時に辺りの草木が光に飲まれて消えていって___
あぁ、待って……!!
再び気がつくと、そこは元の駐車場だった。
「やっと、思い出せたかい。」
先程まで他言語に聞こえていた男の言葉に、私はこの上ない安心を覚えた。私は男に頷く。
「迎えに来てくれて……ありがとう。」
男は振り返って私を見た。朝日が昇りかけている夜空に、今度ははっきり、男の顔が微笑んでいると分かった。
「さぁ、かえろうか。」
私は再び頷くと、星がともったように胸の中が輝いていくのが分かった。
あたたかくて、心地良いその光は身体の隅々まで広がっていき、私を時という名の有限から解放した。そして私をどこまでも高く高く、上昇させていく。
「君のことを見送ったら、僕もすぐに行くから待ってて。じゃあ、後でね、姫。」
翌朝。
「今日未明、町外れの駐車場で男が血を流して倒れているのが発見されました。男はその場で死亡が確認されましたが、遺体の近くには血のついた刃物のようなものが落ちており、自殺の可能性が高いと見て捜査されています。遺体が発見された現場にはコーヒーが入っていたと見られる容器が落ちていましたが、容器からはDNAは検出されず、事件との関連性は低いと見られています。また、現場近くの町の住民からは、明け方、星のような眩しい光が二度空に打ち上がったという目撃情報が相次いでおり、事件との関連性を調べているということです。続いてはこちらのニュースです…」
在るべきところへ る @parco_12
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