靴と雷―金盞花―
小野寺かける
第1話
ファミレスのボックス席に腰かけて、玲央はメニューを開いたままぽかんと口を開けていた。
向かい側には男が二人座っている。一方は長い前髪で顔の左側が完全に隠れており、もう一方は目元まで伸びた前髪をさらりと耳に引っかけていた。どちらも歳は二十代前半だろう。整った顔立ちはよくも悪くも目を引くらしく、周囲の女性客からちらちらと視線を投げられていた。
男の玲央から見ても、彼らはかっこいいと感じる。
しかし今はけっして見惚れているわけではない。
「えーっと、じゃあシーザーサラダを二つと、スモークサーモンサラダも二つ。パンプキンスープも美味しそうだし、これは三つで」
ウェイトレスに対し、顔が隠れている方の男が次々に注文を告げていく。初めはたいした違和感も無かったのだが、徐々に異変に気づいた。
「ガーリックトーストは一つでいいかな。初雪さんは?」
「俺はいい」隣の男が首を横に振る。「一応聞くが、シーザーサラダは二つともお前が食うんだよな」
「そのつもりだけど」
「……だと思った」
初雪と呼ばれていた彼がなにやら重いため息をつく。なぜ呆れられているのか分からないと言いたげに、男は一瞬だけ首を傾げていた。
「まあいいや。それじゃあ他は、チョリソーも一皿と、マルゲリータピザを一つ。コーンピザも一つお願いします。あとペペロンチーノとカルボナーラも一つずつと、ハンバーグステーキをライス付きで一つ。あ、ライスは大盛りで」
席についているのは玲央を含めて三人だ。しかし頼んでいる量はどう考えても三人分のそれではない。
そもそも。
――今って何時だっけ。
店の壁にかかった時計に目をやると、針は十六時半を示している。
――時間帯的には遅めのおやつ……? 夕飯にしては早いと思うし。
「谷萩くんは?」
「えっ」
急に名字を呼ばれ、玲央は反射的に背筋を伸ばした。反応が愉快だったのか、男はにこにこと微笑んでいる。
「谷萩くんはなにか注文しなくていい?」
「あ、いや、オレは、はい。大丈夫、です」
「そう? じゃああと、チョコレートケーキと、パンナコッタと、ストロベリーパフェを一つずつ食後にお願いします。ドリンクバーは三人分で」
「かしこまりました。注文は以上でよろしいですか?」
はい、と男がうなずくと、ウェイトレスはしずしずと頭を下げて去っていった。
初雪もなにも頼んでいなかったし、まさか料理をすべて一人で食べるのだろうか。あるいはシェアするつもりかもしれない。それにしては「なにが食べたい?」など一言も聞かれなかったけれど。
気になることは尽きないが、最も聞きたいことは別にある。
「あの……なんでオレ、お二人と一緒にファミレスに来てるんでしょう」
おっかなびっくり問いかけて、玲央はきゅっと肩を縮めた。
週に三日はダンス教室に通っており、今日の放課後もいつも通りそこへ向かうつもりだった。だが校門を出たところで、待ち伏せていた彼らに呼び止められ「少し話をしよう」とろくな説明もないままここへ連れて来られたのだ。
「あれ」男が不思議そうに目をまたたく。「もしかして僕たちのこと、誰かよく分かってない?」
「そういうわけじゃないです! お二人のことはよく知ってます!」
だからこそ、なぜ自分が彼らと一緒にいるのか分からないのだ。
――だってこの人たち、芸能人っていうか。
――アイドルユニットの〝カレンデュラ〟だよね?
アンデルセン童話〝赤い靴〟をモチーフとした、ほんのりダークな雰囲気が印象的な二人組だ。紳士的なふるまいは主に女性たちに好評で、デビューして一年と経たず人気ユニットに上りつめた。
特に顔を隠した方――リーダーの千両柘榴はモデルとしても活動しており、これまで何度もファッション誌の表紙を飾っている。玲央から見ればまさしく雲の上の存在だ。
「あの、千両さん」
「柘榴でいいよ」と柘榴は軽やかに笑う。「そんなに緊張しないで。リラックスして」
「いや、でも」
「まあ無理だろ。初対面に等しいんだ、警戒しない方がおかしい」
初雪はまたしてもため息をつき、柘榴を肘で小突いていた。
「なにか飲み物を取ってくる。谷萩くんはなにがいい?」
「僕はメロンソーダがいいな」
「なんでお前が先に答えるんだ。俺は谷萩くんに聞いたんだが」
「お、オレはみ、」
水で大丈夫です、と言いかけて、そういえばドリンクバーは三人分頼まれていたと思い出す。であれば、水でいいと答えるのは失礼にあたるか。悩んだすえ、玲央はウーロン茶を選択した。
初雪が席を立つのと、注文したサラダとスープが届いたのは同時だった。改めて見ると量がおかしい。小分けの皿も用意されているが、柘榴に取り分ける気は無さそうだ。
三人分のドリンクもそろったところで、「さて」と彼はフォークとナイフを手にしたまま玲央を見る。
「まずは謝らないと。ごめんね、急に連れてきて。時間が惜しかったから」
「腹が空いてただけだろ」
「なに? 初雪さんなにか言った?」
「なんでもない」
「そう? ならいいや」
話の合間に柘榴はサラダを次々と口に運んでいく。一口が大きいのにがっついているように見えず、どこか気品さえ感じる食べ方だった。
「谷萩くんってさ、僕たちのバックダンサーしたことあるよね」
「はい。何度か」
玲央が通うダンス教室の母体は、カレンデュラが属している芸能事務所だ。そのため技術の向上や未来のプロダンサーを育成するプログラムの一環で、現役アイドルのバックダンサーとしてステージに立つ機会が設けられている。
事務所にはいくつかアイドルユニットが存在しているが、玲央はたまたまカレンデュラの後ろで踊ることが多かった。ゆえに顔を覚えられていたのだろう。
――でもオレ、自分の名前って言ったっけ。
校門では「こんにちは、谷萩くん」と呼び止められたが、柘榴たちと言葉を交わしたのはあれが初めてだ。
――わざわざオレの名前を調べてきたってこと? ……なんで?
もしや踊っている際に粗相でもしただろうか。それが目に余る酷さで、二人から直接叱られる事態に発展したと考えてもおかしくない。
そわそわと落ち着かず、机の下で組んでいた手を忙しなく揉む。いったいなにを言われるのか身構える耳に、しゃくしゃく、とレタスを噛む音が良く聞こえた。
「単刀直入に言うんだけど、谷萩くんさ、僕たちと一緒に歌わない?」
「はい! ……はい?」
「良い返事だね。ありがとう、嬉しいよ」
「ちょっ、ちょっと待ってください! 今のは答えたわけじゃなくて!」
どういうことだ。慌てて顔の前で手を振りながら、なにを言われたのか頭の中で反復する。
聞き間違いでなければ、柘榴は今、勧誘の言葉を口にしなかったか。
「歌うって、え? 千りょ……柘榴さんたちと一緒に? あ、コーラスメンバーとかそういうことですか?」
「ううん。並んで歌うんだよ」
「いやいやいやいや」
どう考えてもおかしい。新手のドッキリ企画かなにかか。どこかにカメラが潜んでいないかと周囲を見渡すが、それらしい影は見当たらない。
「待ってください。お二人はオレをカレンデュラに加えようとしてるって認識で合ってますか」
「大正解。あ、パスタ来たよ。美味しそうだねえ。谷萩くん一口食べる?」
「オレちょっと今パスタどころじゃないんですけど」
「混乱するのは分かるが、谷萩くんはちょっと落ち着こう」
初雪に苦笑しながら促され、玲央は大人しく水を一気に飲み干した。ひんやりとした氷のおかげで、少しばかり冷静さを取り戻せた。
「悪いな。柘榴が言葉足らず過ぎて困っただろ」
「まあ、はい。でも改めて考えても、いまいち分からないんですけど……」
カレンデュラは歌って踊れるアイドルだ。玲央はその後ろで彼らを引き立たせるべく踊ったことがあるだけで、ステージ上で声を発したことはない。二人が歌声を聴いたことも無いはずだ。
それなのに勧誘されるなんて、現実味があまりに欠けすぎている。
またたく間にカルボナーラを平らげる柘榴を横目に見ながら、初雪は優雅にカップを手に取っていた。コーヒーの苦みを含んだ香りがわずかに鼻をくすぐる。
「君が何度か俺たちのバックダンサーを務めたのは知ってる。その時のダンスがとても美しくて、思わず見惚れたんだ」
裏表のないシンプルな賞賛に、耳がかあっと熱くなる。まるで愛の告白をされたような気分だ。きっと頬も染まっているだろう。
「初雪さんがそう言うからね、僕も過去のライブ映像とか音楽番組を見返してみて、ああ確かに良いなって感じたんだ。で、『よし、じゃあメンバーに加えよう』ってことに」
「話がいきなり飛んだ気がするんですけど」
「飛んでないよ。ねえ、初雪さん」
「頼むからお前はちょっと黙っていてくれ。ピザを胃に流しこめ」
はあい、と柘榴は丁寧にマルゲリータを切り分け始める。やはり小皿に分ける気配はなかった。
「話を戻そう。――とりあえず俺は柘榴に、君のダンスが素晴らしいと話したんだ。マネージャーに聞いたらうちの事務所のダンス教室にいるって言うし、少し様子も見させてもらったよ」
「だからオレの名前知ってたんですか……」
「悪いな、こそこそ調べるような真似をして。君の声もレッスン中に聞いたんだ。柔らかくて良い声だな、と俺が呟いたら、柘榴が『じゃあメンバーにしようよ』と」
「ずっと僕らの歌声って、なにかが足りないなあって思ってたんだよね」
いつの間にか柘榴の手元からマルゲリータが消えている。口の周りをナプキンで拭い、彼は新たなピザを切り分けにかかっていた。
「僕も初雪さんも声が低いでしょ。だから重厚感はあるけど、それに偏りすぎてる気がしてて」
柘榴は少年の面影を残す顔つきのわりにバリトンボイスだし、初雪は少し掠れたテノールだ。高い音域の際は初雪が担当していたはずだが、それも限界があると感じていたらしい。
「要するに、もっとまろやかでちょっと高めの音域が欲しかったんだよ。谷萩くんの声を聞いてそれに気づいたんだ。だからメンバーに加えたいなあって」
「で、でも、オレのほかにもたくさんいませんか」
バックダンサーをしていたのは玲央だけではない。同じ教室に通う面々以外に、プロのダンサーなどもいたのだ。歌声に関しても、事務所にはアイドルを目指しているタレントだっているはずだし、そこから選ぶことも出来たはずである。
なのになぜ、玲央を迎えようとしてくれたのか。
「言っただろ」と初雪が穏やかにうなずいた。「俺は君のダンスに見惚れた」
「僕は谷萩くんの声が気に入った」
「それ以外に理由は必要ないだろ?」
玲央はまだまだ未熟だ。ダンスに見惚れたと言っても、彼らの動きに比べれば荒い箇所がある。歌声だって正直なところ自信が無い。
それでも、柘榴たちは玲央が良いと言ってくれているのだ。玲央の中に光るなにかを見つけて、仲間に加えたいと望んでくれている。
目元に涙が滲み、ぐっと唇を噛んだ。驚きと混乱ばかりだった感情に喜びが重なり、今にも叫びだしそうだった。
「返事は急かさない。親御さんと相談だってしたいだろうし」
「え? さっき聞いた時に『はい』って言ってくれてたよ」
「答えたわけじゃないって言われたの忘れたのか」
「えー」
「なにが『えー』だ」
ぶうぶうと不満げな柘榴に、初雪はやれやれと肩をすくめている。
ファミレスに来てからというもの、ステージ上の彼らとは違う一面を見てばかりだ。想像以上によく食べる柘榴と、言動に振り回されて苦労する初雪の顔は、きっと他の誰も知らない。
――もっと見てみたい、かも。
家族や友人に相談するまでもない。二人の新たな姿を知りたいと感じた時点で、玲央の答えは決まっていた。
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