或る光

Tommy

或る光

其処は幻想的で、しかし鮮明な、紫黒しこくの夢であった。


 美しい肢体を黄檗きはだ色に彩った女性ーー16と言ったところかーーが、漂う様にしてただずんでいる。


 その耀きによって表情を存知することは出来ないが、二つの鋭い眼が足下の少年を捉えていることは分かった。


 彼は、彼女と対照的に、その小さな身体に大いなる悲歎ひたんを抱え乍ら、

 漆黒を纏う洋琴ピアノに顔を項垂れている。


 須臾すゆ、彼女が青年に腕を伸ばした。


 しかし、彼はその希望とも、救いとも取れる手に一切の反応も示さない。


 彼女は更に、一言二言を掛けるが、それでも青年は微動だにしなかった。


 ーー暫く経ち。


 女性は、ようやくその腕を引いた。


 そして、彼の耳元に口を寄せてーー。


 

『ーーー』



 刹那、何処までも広く深い無限の海は、微睡まどろみと化し、その姿を白霧はくむへと昇華させていくのだった。


♢♢♢♢♢♢

入場口に至る長い通路を抜けると、そこはステージだった。


拍手の嵐が鳴り響き、入場者を賛美している。


その中で僕ーー【音尾 奏おとお かなで】は、遥か昔のーー遠い、遠い記憶を思い出していた。



或る、光を受け取った記憶ーー。



  ーー10年前ーー


 現実は、非情なもの。


 高校生になって、『桜の舞う並木道』で運命的な出会いをして、恋に落ちて、幸せに青春を送る。


一瞬に命の煌きを燃やす日常ーー。


 そんなものは愚かな幻想だったと、僕は高校に入学して一ヶ月で理解した。


 だって、僕の直ぐ目の前にあるのは。


便


「ボバッ……!」


 去年の五月から始まって、毎日定例の視界暗転が起きる。


(突っ込まれた)


 今回で、累計455回目。


 だから、急激な出来事にもかかわらず、僕の頭は冷静だった。


 息を止め、この後顔洗わなきゃ、と考える。


「ドブネズミ君、水だぞ?」


 典型的ないじめっ子発言をしたこいつは、松坂。

 

僕を虐める奴の中で、最も暴力的だ。

 

「背中蹴ってやらないと飲めないんじゃね?」


 そう言って汚く笑っているのは、木崎。

 

 こいつは所謂「追撃」係。奴のせいで、虐めのエスカレートは一瞬だった。


「いや、待て、一旦水飲みをやめさせろ。

 ・・・・・・面白い事を思いついた」


 瞬間、視界が再生する。


引かれた後髪が痛い。

 

「何だ? 東方」


 虐めの「悪意」担当ーー東方は松坂に訊かれると、その狂気的な顔を奴に向け、言った。


「ーー


「癒す」というその隠語は、松坂と木崎を沸かせるには十分な魅力を持っていた。


「ぅっひょぉーっ、良いわァ、それ!」


「東方、天才じゃん」


「じゃあ、早速……」


 そう言って、東方が自身のズボンのジッパーに手を掛けた時ーー。


「くぉらあぁあ! もうとっくに授業は始まってんだぞぉぉ!」


 便所外の廊下で、生徒指導の教師が叫んでいるのが聞こえた。


奴は僕らの存在には気づいていない。唯の威嚇にすぎないのだ。


 しかしーー幸いだ、とてもーーあいつは武器竹刀持ちで、見つかったらたまったものではない。


よって、流石の東方達でも、これには引くしかなかった。


 「ちっ、良いところだったのによ」


「放課後の楽しみが出来た、と考えれば良くね?」


「確かに。......じゃ、後始末しとけよ」


 ーーバタン、と扉の閉まる音がしたのを聞き、僕はやっと動くことが出来た。


「......」


 無言で洗面台へ行き、「死ね」とか「消えろ」とか、ベタな蔑言が書かれた顔を丁寧に洗う。


消えないと思われがちだが、水で丁寧に洗えば、こういうのは大抵落ちるのだ。


 そして、撒き散らされた水や尿をモップで吸い。


「戻るか」


 僕は、いつも通り教室へと戻っていった。


 ♢♢♢♢♢♢


 ここ【東林学園】は、創立100年を今年迎える、由緒ある伝統校だ。


大学合格実績は、県でも有数のレベルに至る。


 しかしその反面、「進学校」という圧力や息苦しさから、東方達の様な奴が出てくる。


 そいつらは「支配する側」の人間になり、僕のような「支配される側」の人間をさいなませる。


 名門校という名の檻に、囚人を虐める拷問官ーー。


 正に、【牢獄ろうごく】だ。

 


「-であるからして、sincostanを利用した角度計算は数学の大基本だ。出来ない奴は恥と思え」


数学教師の声が響く。


僕の席は1番後ろの列にあるが、それでも耳が痛くなるほど、やつの声は大きかった。


(五月蝿いなぁ)


何故教師という生き物は、ここまで声を張るのだろうか。


逆に聞こえ辛くなることがわからないのか?


ーーそんなことを考えていると。


(......ん?)


微かな視線。


まるで、すれ違った自転車を見るような、迚も素早い視線を感じた。


(一体誰だ?)


重いまぶたを上げながら視線の主を探す。


(右の奴は教科書に隠れて寝てるし、前の奴とかがわざわざ此方こちらを振り返るはずは無い)


で、あれば。


公野こうの 光】。


この学校の頂点に居るーー転校生だ。



彼女がここに来た日のことは、よく憶えている。


『ーーから来ました、公野です』


銀白の髪に、モデルのように長い足。


艶やかに光を返す肌。


紺碧の瞳を持った、小さく美しい顔ーー。


思わず息を呑んだ。



容姿端麗、成績優秀。


性格はお淑やか且つ懇篤こんとく......


そんなだから、彼女は転校して3日ーーつい昨日のことだがーーで、累計20人の男に告白されたらしい。


尤も、全員振られたらしいが。



僕と左隣の彼女との間。


この小径しょうけいは、信じられない程の大きなだ。


(そうだ、何を考えているんだ。1番、ありえない)


僕は大きくかぶりをふって、再び数学教師の辛辣な大声を聞くことにした。


♢♢♢♢♢♢

放課後を告げる鐘は、僕を憂鬱にさせた。


また、アイツらのところに行かねばならない。


バックれる? そんなの 病院に行きたい時にするさ。


「では、今日の授業はここまで。いつも言っている事だが、自宅で最低5時間は勉強しろよ。数人を除き、お前らは落ちこぼれだからな」


吐き捨てるようにして担任が出ていく。


ーー瞬間、生徒たちの笑い声が教室を満たした。


「放課後予定ある?」


「ねーわ、ゲーセンいこーぜ」


「この前撮った写真バズったんだけど」


「まじで?! 見せてくれよ」


あれだけボロくそ言われたのにすぐに切り替える生徒達ーー慣れたものだ。


僕も、黙々と変える準備をしていく。


あいつらを待たせたら、今度も何されるかわからないしな。


早速、例の場所に行くことにした。


鉛のような、重い足取りで。


♢♢♢♢♢♢

3階男子トイレの扉の前に立つ。


 これからの自分の未来は嘆かない。

 

「嫌だ」とか、「いじめられて悔しい」とか、そういう気持ちは無駄だ。

 

この状況が変わる訳がないのだ。

 

 僕はガチャリ、と音を立ててノブを回した。


「遅刻だな? ドブネズミ君よぉ?」


ーー嘘だ。


「友達との約束を破るなんて、これぁ罰がひつようだな」


「その通りだ。ーーやるべきことは、分かってんな?」


 大声で笑う拷問官ABと獄長。


 そして、そのまま各々のズボンを脱ぎ始める。


 僕は、逃げない。


 その光景をじっと見るだけ。


「お? 結構やる気あるな、お前」


「そんな熱い視線で見られたら、ムラムラするじゃん」


 笑い声の中に、ばさり、という音がして、大きく汚い一物が姿を現した。

 

「よし、じゃあ、ご奉仕してもらおうかな」


 東方が初手の様だ、此方に近付いてくる。


 僕は、口を開けた。


 そして、が入ろうとした時ーー。



 刹那。

 

 扉が勢いよく開き、大声が響いた。


「何してんだっ!!!」


 唖然となる、僕と三人。

 

 何故なら、その大声もそうだけどーー其処に立っていた声の主が……


「な……公野、さん」


 支配する人間の究極体、公野 光だったからだ。


♢♢♢♢♢♢

最初に沈黙を破ったのは、東野だった。


 直ぐに落ち着きを取り戻し、耳障りな粘い声で彼女に言葉をかける。


「な、なぁんだ、公野さんじゃないですか」


「一体、どうされたんですか?」


 拷問官二人の後、下品に笑いながら、東方獄長が最も汚れた言葉を吐いた。


「もしかして、一緒に愉しみたいとかぁ?」


ーーブチッ。


何かが切れた音がしたような気がした。


「この……」


絞り出すように、公野さんが呟く。


「え、なんてぇ?」


東野は心底バカにしたような顔と共に耳を向けた。



それが引き金だった。


「腐れ外道がーっ!」


ドグゥオンンン!


まるでツァーリ・ボンバが降ってきたかのような音と共に。


!!



「ペギャアア!」


変な声を上げながら吹っ飛ぶ大男。


そしてその先には、手を必死に振りながら叫ぶ拷問官2人。


「な、あ?! 来るなあぁぁ!」


しかし、そんな抵抗も儚く。


パグオンッ!


またもや奇妙な音を鳴らし、三人仲良く便所の壁に衝突した。


「......ふぅーっ。大丈夫だった?」


突き出していた拳を納めた公野は、微笑みと共に声をかけてくる。


 「は、ははは……」


 けれど、僕はその問いに答えるでもなく。


 自然と、笑ってしまっていた。


 ーー僕は思った。


 人は、どうしようもない事ーー奇跡が起きた時、笑うしかないのだと。


♢♢♢♢♢♢


「よし。 此処ここなら、落ち着いて話せるね」

 

 その後、僕等は隣の3-1クラスにやって来た。

 あの三人は、暫くの間戦闘不能だろうから、襲われる心配はない。


放心状態をようやく抜け出した僕は、目の前の少女ーー公野さんに礼を言おうとした。


「あっ、その」


が、言葉が出ない。


自分でも何故か分からない。


(あれ……?)


その様子を見た彼女は何かを察してくれたようで、丁寧な流れで話しかけてくれた。


「大丈夫。ゆっくりで良いよーー教えてほしい。何があったのか」


真剣な瞳で、僕を射止めながら。


「……」


彼女は暫く黙っていた。


微動だにせず。


そして、


「そ、そんなにきつい事じゃなかったから。慣れてたしね……じゃれてただけだよっ」


努めて明るい様子で言ったーー


ーー筈だった。



「嘘だね」


彼女は切った。


僕の眉間に皺がよる。



そうだ。


勿論、大嘘だ。


でも、僕は一刻も早くこの場を抜け出したかった。


「そんなことないよーー単なるお遊びだよ」


「貴方の顔を見れば、分かる」


「いや、でもさ」


「少しも、笑えてないよ」


淡い光が僕を撃つ。


そんなこと知ってるよ。


だから、それ以上続けないでくれ。


「アイツらがまた襲ってきたら、叩きのめすから。安心して」


違う。


「君は、ひとりじゃないんだよ」


言ったらダメなのに、言ってしまう。



「公野さんには、分からないよ」


言ってしまった。


1番言ってはいけない言葉。


相手の配心を踏みにじる口跡。


彼女は表情を崩して、はっと驚いた顔をした。


僕はそれを見てーー。


「助けてくれてありがとう……じゃあ」


逃げ出した。



悲哀に満ちた瞳の少女を、残して。


♢♢♢♢♢♢

深夜2時。


1日の終わりには音楽を聴く事にしている。


色々聴くーーポップス、ロック、ヒップホップ......。


中でも最近聴いているのは。


「こんな旋律、どうやって作ったんだろう」


クラシック。


特に、ピアノだ。


死んだ両親が好きで、よく僕もコンサートに連れて行ってもらっていたらしい。


尤も、とても小さい頃だったから全く記憶に無いんだけど。


今聴いているのは、「幻想ポロネーズ」。


ショパンの最高傑作との呼び声が高い作品だ。


一音一音が甘美に満ち溢れ。


奏者の、激情とも呼べる快哉と歓喜を遺憾なく表していた。


そして、昇りが極点へと達しーー。


ーー刹那、その波動が揺らぐ。


この世の時が停止したような錯覚に陥る程の流動の変容が起き、音の「色」が変化すした。


ーーこの時だけは、すべてを忘れられるーーはずだったのに、


煩瑣的で、不可解で。


霊妙をたたえたメロディに合わせ、僕の思考も落ち着いてくると。


薄っすらと浮かび上がる、彼女の顔。


絶望と、不安と、悲しみが籠もった表情。


「......何やってんだ、僕」


小さく呟く。


誰かに叩かれたい、罵られたいようなーー言葉にできない気持ちが広がった。


♢♢♢♢♢♢

翌日は曇りだった。


薄暗い鈍色の空に、重い心と足。


目の前の校門は、地獄ゲヘナの入り口に見える。


……どんな顔で教室に入ればいいのだろう。


そうため息をつきながら、門をくぐった時。


「ーーおい、音尾」


「!!」


奴らの、声がした。


♢♢♢♢♢♢


「がっ」


頬が激しく痛い。


昨日よりも、遥かに。


「てめぇ……よくもやってくれたな」


東野が呻く。


額に包帯が巻かれているが、彼の怒りの表情は容易に見て取れた。


「クソがっ」


松阪が倒れた僕の脇腹を蹴る。


「あ”っ」


情けない声を出してしまう。


聞き慣れた声だ。


でも、この体育館裏でどれだけ喚いても。


「大人しくやられろーーてめぇのが来る前に」


彼女はもう来ないんだーー。


「よし……昨日あいつにもらった拳、音尾にもやるよ」


東野が、その岩のような手を上げる。


もう駄目だ。


でも自分のせいだ。


いじめられたのだって、僕が弱かったから。


公野さんを突き放したのだって、僕が弱かったから。


嫌だ。


弱いままじゃ嫌だーー。


様々な感情が混ざりあって、僕の身体を押さえつける。


「オラァァァ!


そして、拳が繰り出され……


「ァァ…あ? あべしっ!!」


またもや東野が転がったーー!


昨日と全く同じ情景。


「なっ、く、来るなぁぁ!」


そして、全く同じ台詞とーー爆音。


奴らは体育館の壁にぶち当たり、ガックリと項垂れた。


「な……」


信じられない。


「なんで」


同じ台詞と共に。


「ーー大丈夫だった? 音尾くん」


何故、あなた公野さんがいるんだ。


♢♢♢♢♢♢


「詰めが甘かった、今度は徹底的にするかな」


初めに抱いたのは、激しい後悔だった。


昨日の出来事がフラッシュバックする。


「な……」


あの後ろ姿。


「なんで」


あの微笑み。


「なんで、そこまで」


そんな言葉が口をついた。


それを聞いた彼女は、ゆっくりとした動作でこちらを振り返ると、


「忘れちゃったの?」


不思議なことを言った。


「何、を?」


「ほらーーあの時の」


「……ごめん、心当たりがない」


「そう……」


公野さんは少しだけ瞼を伏せて、悲しそうな表情をした。


そして、此方を真っ直ぐと見て、


「着いてきて」


♢♢♢♢♢♢


東林学園の生徒棟三階、最奥。


そこに位置するのは「音楽室」だ。


僕は今、彼女に連れられてその人気のない教室に足を運んでいる。


(一体どうしたのだろう)


そして、「もしかしたら、彼女が演奏してくれるのではーー」。


僕の心は落ち込みながらも、微かな期待をも孕んでいるのだった。


「着いたよーーテキトーな席、座って」


ここで言う「テキトー」とは、彼女が座っているピアノ「以外」ということなのだろう。


少し迷って、僕は最前列の最も奏者彼女に近い席を選ぶことにした。


案の定、公野さんが天板を開ける。


「ごめんね、突然だけどーー」


大きな黒い壁が浮き、中の複雑な装置が姿を表した。


「弾くね」


ーー来た。


彼女が鍵盤に指を置く。


そしてーー。


衝撃。


強烈な懐古。

現れたのは、凄絶せいぜつで記憶的な旋律だった。


まるで神々が五線譜を辿って示現したかのように。


僕の心にも、月白の風を送り込んできた。


とても懐かしい、記憶に繋ぐ道。


(何だったっけ)


その自問に答えるように、脳内にフラッシュバックが起こる。


青く静かな病室。


泣きわめく少女。


女性のか細い手をしかりと握った少年......。



何故だろう。


誰が誰かもわからないし、この絵がどんな状況を表しているかもわからない。


けれどーー不思議なことにーー




……彼女の顔が変わる。


それにつれて、指も音も、空気も変わってゆく。


波が高まってゆくのを感じる。


教室のすべてが、その絶頂を待ち望んでいた。


螺旋階段を登るように、音が高まって。


開放された。


嵐が吹き荒れた。


窓が震えた。


今にも体が吹っ飛びそうだった。


僕の頭の情景を有象無象の渦に変え、音は暴走している。


途端、刹那の間が空き。

虹が消えるように、指が左往に流れた。


音がドミノを倒してゆく。


そして。


の心に、再び大きな衝撃をもたらした。


♢♢♢♢♢♢

最後の1音が虚空に消え、しばらく経った後に彼女は口を開いた。


「思い出した?」


「……っ、さっきのは」


「思い出してくれたんだね」


「いや、その」


まだ、自分の体験したことを言語化できない。


「大丈夫、分かるよーーそうやって思い出せるように弾いたからね」


変なことを言う公野さん。


いや、あのような演奏ができるプロ級ピアニストとなれば、それくらいのことは朝飯前なのか?


「あと……これ、使いなよ」


彼女はハンカチを差し出した。


「え……その、これは?」


「拭くものだよ」


何をーー。


そう言う前に、気付いてしまった。


「あ……」


雫が一つ、頬を濡らす。


僕は泣いていた。


♢♢♢♢♢♢

落ち着くまでに、そう時間はかからなかった。


「ありがとう。どうしたんだろ、僕」


「きっと、何か大切なものを取り戻したんだよ」


彼女は妙な言い回しを使った。


「何を」


今度は、はっきりと言えた。


「記憶ーーだよ。私たちと、音尾くんとの」


「ーー【たち】? 【記憶】?」


どういうことだ。


確かに公野さんのピアノを聴いた時、僕は何かを見た。


彼女の言う通り、「思い出した」のかもしれない。


けれど。


それは余りにも断片的で、はっきりとした事象を思い出すには足りな過ぎる。


「あれはーー何?」


多義を込め、改めて問う。


「完全には、無理だったか、な」


残念そうな公野さん。


「あれは。


ーー私と音尾くんと、私の母だよ」


「......は?」


何を言ってるんだ、この子は。


「母のラストステージと、命の最後。


私達は、昔会っているんだよ」


もう、考えることをやめた。


ハンマーで頭を強打された衝撃も、気にしない。


「【公野 かおる】は天才だった。

若い頃から賞を総なめにして、年老いて、病に臥せってもその腕は衰えることが無かった」


彼女は僕をじっと見て、語り続ける。


「けれど、あの日ーー事件は起こった。


…コンサートの直後、熱狂的な一人のファンに殺されてしまった」


「なっ......!」


なんだよそれ、と言いそうになったが、僕は堪えた。


まだ、彼女が話している。


「たった一撃。


でも、その一撃で彼女は瀕死になり、救急搬送された」


公野さんは、少し震えていた。


強く拳を握っているーー本人も無意識なのだろう。


「その時音尾くんは、母に付き添って病院に行ったんだよ」


「僕が」


「うん。


母の第一発見者だったみたいーー。


病院では、亡くなるまで手を握り続けてた」


「公野さんは」


「私もそこにいたよ」


少し整理できた。


でも、まだまだ信じられないことばかりだ。


ーーそういえば。


「......僕はーーごめん、その時のことを忘れてしまったけれどーー何か、公野さんのお母さんと「約束」をしてたような気がするがする。

それも、とても大事な」


そう。


あの思い出した絵画の中に、僕と彼女の母が写った物があった。


ーーそしてようやく、少し思い出せた。


僕はあの時、彼女と約束をしたんだ、と。


「ーー嬉しいな」


公野さんは答えた。


「実は、そこがいちばん重要なところなんだよ。

まだ思い出せていなかったら、今から言おうかなとも思ってた」


驚いた。


彼女らとの記憶は全て宝石みたいなものだと思ってたけど、まさか王、「金剛石ダイヤモンド」だったなんて。


「それで.....ごめん、その.内容って」


「うん。

この約束は、実は私にもされたんだけど。


ーー「音を繋げ」。


母はそう言ったよ」


「音を......繋ぐ」


ーーはぁ?


正直、全く意味がわからない。


音をバトンみたいに渡すってことなのか?


それとも、音と音を結合させるとか?


でも、いくら考えてみても、結局僕は「凡人」だから。


「ごめんーー分からない」


謝るしかない。


「ーー音尾くんは」


おもむろに彼女が口を開いた。


「さっき、「なんでここまでしてくれるんだ」って言ったよね」


「う、ん」


「あれはね、【私達二人で、その約束を果たすため】なんだよ」


ーーえ。


それだけ、とは言ってはいけない。


けれど、少なくとも僕にとってはそうだった。


…公野さんはーー彼女の口からは聞いていないけれどーープロのピアニストだ。


「音」について、世界で一番知っている。


あの約束の真意はわからないけど、彼女なら、すぐに分かるはずのもの。


それを僕とともにする必要は、微塵もない。


「僕は、いらないと思う。

だって、ただの凡人だもん。

たまたまその場にいただけの。


分かんないよーー。


公野さんは、わかるんでしょう? その約束の、本当の意味を」


話が聞けてよかった、そう言おうとした時。


!」


数学教師を軽く凌駕した、大声が教室に響いた。


「わかんないよーー母さんは、其れしか言ってないから。

ピアのが弾ける、なんて関係ないよ。



彼女は一息にそう言うと、


「とにかく、私は音尾くんと一緒にその意味を見つけたい。

ーー理由はそれでいいでしょう?」


ーーそうだ。


昨日の時点で気づいてたはずなのに。


公野さんは、僕だけを見ているんだと。


「ちょ、ちょっと強引だね」


「世の中ゴリ押しである程度は行ける、とも母は言っていたからね」


「……ははは」


なんだか、胸につかえてたものが急に取れたような気がした。


今なら言えるーーそう思った。


「公野さん、昨日はーー」


窓の外の大空。


潤色に塗られたキャンパスに、人々を運ぶ大河の様に、雲が泳いでいる。


そんな八月の天は、淡い光に虹を掛けた蛋白石オパールだった。



♢♢♢♢♢♢

東野たちは、それっきり僕の前に顔を現さなくなった。


聞いた話だと、今までやってきたことが教師や親.......だけでなく、なんと警察にもバレたらしい。


例えば、誰かが密告した、とかーー。


『詰めが甘かった、徹底的にするかな』


あの言葉......まさか、ね。


♢♢♢♢♢♢

遊園地なんて小学生の時に一度行ったきりだった。


 覚えているのは、凄まじい速さでレールを駆け降りるジェットコースターと、煌びやかな光を放ち優雅に回るメリーゴーランド。


 そして、頂上からの景色が今も鮮明に思い描ける、観覧車だけだ。


 しかし、今ーー僕は二度目の遊園地に来ている。


 それも、今度は両親とではなく。


「ーー音尾くん、次はあれに乗ってみようよ」


「う、うん」


 隣の美少女、スクールカーストトップの「公野 光」とである。


(どうして、こうなったんだ)


 そう、過去の自分に問いたい。


(僕は彼女に酷いことを言っただけなのに)


 スクールカースト底辺と頂点。


 並んで歩いて、ここまで滑稽な組み合わせはないだろう。


 ......よって、今僕等は現在進行中で、遊園地の大街道を歩いているのだが。


 ※


「見てみてあの! モデルさんみたい!」


「うわぁ、本当だねぇ。しかも目は蒼いし、髪は茶色っぽい金色だし……ハーフなのかな」


「お、俺、声かけようかなっ!」


「やめとけ。隣の人を見るに、レンタル彼女中っぽいぞ」


「......あー、確かに。あいつ、如何にも『モテない男の』典型って感じだもんね」


 ※


 あの物言いには慣れてるから、別に怒ったりしないけど。


 改めて彼女を見る。


 ーー絹で織ったような髪に、藍よりも蒼い瞳。

 

 すると、彼女の方もその視線に気付いたのか、


「どうしたの?」


「……っ」


 僕に、太陽のような笑顔を向けてきた。


「あと、ああいう人達有象無象の声は無視していいからね。街頭のティッシュ配りみたいなものだから」


「ーーうん、ありがとう」


(本当に、世界が違うんだな)


 昨日の彼女に申し訳がないけれど、心の底からそう感じてしまった。


 ♢♢♢♢♢♢


 大街道を通り、僕たちは公野さんの言うあれージェットコースターに乗ることにした。


 二人乗りの座席に共に乗って、シートベルトを着用。


 そしてちょうどいま、安全バーが下げられたところだ。


「そういえば音尾くんって、これまで遊園地に来たことはある?」


 バーに手をかけた公野さんが話しかけてくる。


 彼女はとても華奢で、僕と一緒に乗っても、二人の間に人一人分の空間ができるほどだった。


「うん。小さい頃に、両親と一度だけ」


「そっか……」


 公野が急に頭を下げた。


どうしたのだろう。


 スタッフさんの「五秒前ーー」の声が響く。


「ーーもしかして、行ったこと、ないの?」


「う、うん」


「じゃあ、ジェットコースターも……」


「初めて……」


 そう彼女が答えた瞬間ーー。


「うわあああぁぁぁ!!」


 機体が急発進、僕らの体が残像を残したように前に動いた。


 隼のような風が身体を突き付ける。

 激しい動きで脳が揺れ、自分の位置を見失いそうになった。


「ひぃやぁぁぁぁぁ!」


 潤む瞳で左を見やると、大粒の涙を川の様に流しながら、同じく絶叫する公野さんの姿があった。


ひゃにほしぇぇぇぇなにこれぇぇぇぇ!」


 整った顔の口をだらしなく開け、白菫色の美しい髪をぼさぼさにして。


 そんな、モデルもあったもんじゃないって感じで。


(あっ……)


 急に、前の席の人が両手を挙げた。


(これは、もしや……?)


 機体が音を立てて下に傾く。


 視界が急に開けて。


 ーー


「あ、やばい」


「え、音尾君んん?! これってぇぇ!!」


(公野さん。ヴァルハラで、会おう)



 地の底に響くような叫喚とともに、僕等の意識はフェードアウト……。



 ♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢


「ん……?」


 椅子で横になっていた公野さんが、声を出す。


「よかった、目を覚ました」


 その後、僕等は早速次のアトラクションに……行けなかった。


 ※


「ふー。楽しかったね、公野さん』


『~、ー。~』


『……公野、さん?』


 彼女の口元に耳を近づけると……。


『ばあちゃん......川の向こうで手招きしてる』


『逝っちゃだめ!!』


 ※


 隣のモデルさんの魂が昇天していたからだ。


 そのまま急いで休憩室まで連れて行ってーーーーで、三十分して今に至ると。


「ここは?」


「ここは休憩室だよ。ほら、園内マップの中央にあった」


「……ごめんね、迷惑かけちゃって」


 彼女は悲しそうに言った。


 でも、僕は。


「ふふっ」


 笑ってしまった。


「? どうしたの音尾君」


 やはり、不思議な顔をして、そう尋ねる公野だろうか。


「いや、なんか……公野さんが、ちょっと可愛くて。

 あんな完璧超人がジェットコースターで昇天て……ふふっ」


「だ、だって初めてだしっ! みんな倒れてるって!」


 頬を鉛丹色に染めながら恥じらう彼女。


「みんな倒れたら事件になるでしょ……ふふっーーやば、止まらない」


「ふーっ! 音尾君ーー!」


 ・・・・・・なんだか、僕と公野の境界線が薄れたような。


 そんな気がした。


 ♢♢♢♢♢♢



 彼女は「もう大丈夫だよ」と言ったけれど、やっぱり心配があって、僕らはもう少しだけ休憩室で落ち着くことにした。


「それにしても」


 休憩室は広く、テニスコート二つ分くらいで。


 更にその中には遊具スペースとか、ファストフード店とか、お土産屋までもあり。


「ここって凄く快適だね、公野さん」


「うん。一日中居られる位だよ」


「いやアトラクション乗ろうよ」


「確かに」


 そんな他愛もない会話を、僕等はしていた。


 ・・・・・・本当に、昨日の校長の「同道(しろ)宣言」の通りである。


 それに公野さんが何故いきなり、僕とここに来たかったのかが、少しだけ分かったような気がする。


「あっ!」


 不意に彼女が声を上げたーーまるで、お気に入りの玩具を見つけた時のような。


 そのまま席を立ち、休憩室の中央に向かってゆく。


「どうしたの?」


「これこれ」


 そう言って、彼女が指差したのはーー。



「ピアノだ……」


 そう、ピアノだった。

 

 室の真ん中にひっそりと彳む其れは、誰に弾かれるでもなく、自らの木の体を薫らせていた。


「うん」


 そう応えながら、蓋を開ける彼女。

 

「一曲、一緒に弾いてみようよ」

 

「え?! で、出来るわけないよ」


「大丈夫だよーーそれに、【音を繋ぐ】意味も分かるかもしれない」


そう言われるとな。


「何より、単純に私が弾きたい」


そうですか、さいですか。


「うん、弾こっか……」


 そして、鍵盤のに両手を置く。


「こんな感じかな? あと、さっきも言ったけど、本当に僕、ピアノできないからね?」


「だから大丈夫だよっ。

ーー秘策がある」


そう言って公野さんは、



「ひゃっ」


人の温もりが伝わって、思わず変な声が出てしまう。


それを無視して、彼女はそのまま左手も乗せーー僕の膝に乗るような体勢になった。


「どう? ーーこれなら、絶対安心でしょう」


「う、うん……」


そんなことされると逆に緊張する、とは言えない。


「行くよ。大丈夫、力を抜いて」


言われた通りに、腕を楽にする。


そしてーー。



音が鳴った。


左手で奏でる、音の粒が落ちてくるような流れる伴奏。


右手からは、雄大な自然を現した美しいメロディが響く。


たゆかう水が、夏色の満月を洗うような。


ーー【エオリアンハープ】。


ショパンの曲の中でも、その難しさ、美しさが一際目立つ作品だ。


(凄い……)


弾けていた。


お気に入りのプラモデルを組み立てるように、僕は音楽を作ることが出来ていた。


「上手く弾こう、ってのは要らないよ。

ただ、今の自分の気持ちで指を動かして」


彼女が耳元で囁く。


とてもくすぐったいが、それ以上に、僕はこの曲に入っていた。


(僕の好きな曲が)


この曲を、何度部屋で聴いたか分からない。


(今、1番近くで流れてる)


音が落ち着いてくる。


風に靡く草原に在る秩序。


その高まりは段々と薄れていってーー。


(この音だ)


消えた。


♢♢♢♢♢♢


「凄すぎるよ、音尾くん! 最後まで弾けたじゃん!」


ピアノを綺麗に片付けた僕らは、再び椅子に戻り先程の演奏を振り返っていた。


「いや、公野さんのお陰だよ。……っていうか、大体弾いてたの公野さんじゃない?」


「それは違う!!」


彼女は叫んだ。


近くの数人がこちらを見る。


「も、もう少し声を落として!」


「ごめん……でも、ちょっとそれだけは否定したいんだ」


「なんで?」


「だってーー


ーー私、曲の半分くらいから音尾くんの手を離したんだよ?」


……え?


ということは。


「僕、途中から自分一人で演奏してたってこと?!」


思わず立ち上がってしまう。


また、数人がこちらを見た。


「もう少し声を落として!」


「ごめん……」


「でも、音尾くんにはきっと才能があるよ。

ーーそれも、凄まじいほどの。もしかしたら、私なんてすぐに追い越しちゃうかも」


「そ、それはいくらなんでもないでしょ」


僕がそう言うと、彼女は顎に手を当てて、


「そうかな……」


と呟いた。


ーーだから、選ばれたんじゃないかーー。


そんな音は、聞こえないことにした。


♢♢♢♢♢♢

僕等は多くの時間を一緒に過ごした。


そして、僕のモノクロの日常は、段々と彼女の色に染まっていった。


「音尾くんって、何か趣味ある?」


「うーん、家で音楽を聴くことはあるけど、それ以外には特にないよ」


「そっか......あ、じゃあ、ピアノ弾くとかどう?!」


「え? ピアノ?」


「うん。私の家に結構余ってるから、一つあげるよ」


「高級品を日用品みたいにいいません。

ーーでも、ありがとう。やってみるね」


鴇色に、桜色に、韓紅に。


「今、【ノクターンopオーパス2】を弾いてるんだ。

って言っても、まだまだ始めたばかりで下手だけどね」


「そうなんだ! あの曲、すごく綺麗だよね。

ーーあと、上手い下手は考えなくていいんじゃないかな。ピアノを楽しむことが大事って、私は思うよ」


「楽しむこと......」


特別なことは、あまりしていないと思う。


けれどーー少なくとも僕にとってはーーその一つ一つが宝物だった。


金色に輝く、夢のように。



「父に、奏くんのことを話したんだ」


「え? 公野さんのお父様に?」


「うん。毎日のことは勿論、遊園地も」


「ーーそれで、どうだった……?」


「えーと、『家に来なさい。たっぷりもてなすからね』……と」


「も、もてなす、ね。


ーーなんだか言葉通りの意味じゃないような気もするけど、【ありがとうございます】って伝えてくれるかな」



僕等は「音を繋ぐ」話はあえてしなかった。


音楽は感覚的なもの。いくら考えたって意味がないーーそう考えたからだ。


でも、だからといって進展がないわけではなかった。


寧ろ、半分は完成されていたのかもしれない。


僕等はーー不思議な話だがーー本質を知らないまま、本質に沿った考え方をしていたのだと思う。


「無意識理解」ってものかも知れない。



そして、そのまま時間が矢のように流れてーー。


♢♢♢♢♢♢

「わぁ、雪だよ、奏君!」


「そうだね。ーー気を付けてね、滑りやすいから」


妖精の粉のような、銀色に輝く雪の降る季節となった。


「分かってるよ! でも私、初めて見たんだよ!」


公野さんーーいや、光はその美しい瞳を彼方此方に向けながら、興奮気味にそう言った。


「引っ越しする前の場所では見られなかったの?」


「うん。だって、ーーに雪はふらないでしょ」


彼女の口からは、とても暑そうな名詞が出てきた。


うん。確かに降らないね。


「ここに来て良かった。雪が降るし、街の皆は優しいし」


「そう言ってもらえると嬉しいよ」


「ーーご飯が凄く美味しいし!」


じゅるり、という効果音が鳴る。


あれ? さっき昼ご飯食べたばかりなのにな……。


「ふふっ」


「……それに」


彼女は少し間を置いて。


「奏君が、いるからーー」


ーー不意打ちだった。


「そそ、それは卑怯だよ」


「ふふ、だって事実だもん」


大胆不敵に笑う光。


「でも」


空を見上げてみる。


どこまでも広がる雲海から、街中に天の子たちが落ちてきて。


僕と光の額にもーー夜の草原に舞い降りた天使のようにーーその神秘さをくれる。


「こんな日々が、ずっと続けばいいね」


♢♢♢♢♢♢


12月24日。


世界中の人が神に感謝し、喜びにあふれる日。


小さなこの街でも、それは例外ではなく、活気がそこら中に満ちていた。


「十時四十分......」


僕は凍える両手に息を吐きながら、広場の時計で時間を確認した。


今日は今年一と言っても過言ではないほどのイベントーー「公野家招待」ーーの日である。


光とはこの広場で待ち合わせをして、そのまま家へと連れて行って貰う予定だ。


しかし。


「もう二十分だぞーー?」


光は迚も遅刻していた。


勿論心配ではある。


けれど、彼女は待ち合わせに毎度毎度遅れてくるので、若干慣れた、というのが本音だ。


酷いときには一時間遅れてきたし。


「理由も『ドタバタしてたら』だもんなぁ」


頭をかく。


ーーその時の僕は、緩んでいた。

彼女との毎日が幸せで。


いつの間にか消えていた、最悪な日々も。


僕等を結びつけてくれた、彼女のお母さんのことも、「音を繋ぐ」ことも薄れていって。


ーー在って当たり前だ。


そう思っていた。


だからだろうな。


「毎日」が一瞬で消えることを、忘れていたんだーー。


♢♢♢♢♢♢


プルルルッ プルルルッ


唐突に、携帯が鳴った。


「やっとか……結局30分だよ」


溜息を吐きつつ、応答する。


それで、荒い息をしながらも、彼女の弾んだ声が。


聞こえるはずだったのにーー。


「音尾くん、だね」


飛び込んできたのは、高い、若さ溢れる声ではなくーー低い男声だった。


「はい。音尾……です」


「突然だが、私は光の父だ」


「はぁ……はい?! は、初めまして!」


「すまない。急ぎで【国立病院】に来てくれ」


男性ーー光のお父さんは、淡々とした言葉でそう言って、直ぐに電話を切ってしまった。


けれどーー僕には分かった。


分かってしまった。


彼の震える声。


強張った息遣い。


気付けば、僕は駆け出していた。


♢♢♢♢♢♢


脚を踏み出す。


力の限りに。


壊れるくらいに。


何故、こんなにも遅いのだと、自分を呪いながら。


(前にーー前に、進まなければ)


汗をかいた額を、風が打つ。


頭の中を真っ白にした。


何も考えなかったーー否、考えたくなかった。


「日常」なんてのは、平和と同じだ。


戦争と戦争の間の休息期間に胡座をかいた人々が、勝手にその幸せで、刹那的な日々に名をつけただけで。


誰も、それが続くとは言っていないのだ。


幻想なのだ。


神さまはいない。


馬鹿だ、救えと罵れるのは、平和ボケした自分だけ。


(苦しい)


走れ。


(もう着くじゃないか)


速度を上げ続けろ。


ーー『なんで、そこまでしてくれるんだーー』。


今なら、分かるからーー。


♢♢♢♢♢♢


病院の階段を駆け上り、『205号室』を目指す。


(あそこだ)


直ぐに分かった。


目に付く大きな人集り。


押し退けて進んだ。


そして、病室の扉を開き、


目に入ってきたのはーー。


♢♢♢♢♢♢


開かれた窓に、揺れるカーテン。


狭く、白い病室に満ちた輝き。


光は、その中にいた。


「光」


声が響く。


「光、り」


また、響く。


「ーー音尾くん」


ゆっくりと振り向いた。


そこには、光のお父さんらしき人。


以来だね」


彼はその大きな体を震わせてーー吐き出すように、消えるようにーー続けて言った。


「あの子はーー光はね。この街に来てから毎日、君のことを話していた。どんなに小さなことでも」


彼は、泣いていた。


涙は出ていなかったし、しゃくりあげてるわけでもない。


ーーけれど、確かに泣いていたのだ。


「ある日光はーー目を泣きはらして帰ってきた。私は彼女の話を大して聞きもせずに、君が悪いのだと決めつけ、罵倒し、家に行ってやろうかとまで思ってしまった。

ーーしかし、彼女は言ったんだよ」


彼は言葉を切った。


間が在った。


僕は聞いていた。


「『お父さん、これは嬉しいから……なんだよ。人が自分の弱さを見せた時、もう私たちは互いを知っているのだからーー』。


彼女の話を聞いた時、私は、今と同じように、泣いた。


君が、どうしようもなく、弱い人間だったから。


光が、どうしようもなく、甘い人間だったから。



……音尾くん。

大人は、綺麗事が大好きさーー空気を吐くように言うんだ。


だから今も、言わせてもらうよ」


風が止んだ。


「君と過ごした日々は、彼女のーー人生で1番の宝物だよ。


ーー今まで、本当にありがとう」



僕は彼が頭を下げるのを見なかった。


言葉も、聞きたくなかった。


放心状態のまま、彼女の元に行った。


初めて会ったあの時から変わらない、美しい顔。


窓の外に降る粉雪よりも白い肌ーー。


『貴方の顔を見れば、分かるよ』


僕もだよ。


『大丈夫だった?』


君は、本当に強かったよね。


『一緒に弾いてみようよ』


ピアノがとても好きで。


『音尾くんには才能があるよ』


いつでも褒めてくれて。


『わぁ、雪だよ!』


いつでも、明るかったよね。


「……」


彼女の隣に座る。


思い出を蘇らせるのはもう、やめよう。


弱い僕では駄目なんだ。


前を見なくてはいけない。


だから、これで最後ーー。


「うわぁああぁぁあああ!!!」


雪はもうすぐ、止みそうだった。





ーー2つ目の記憶ーー


あのピアノコンサートがあったのは、19年ほど前のことだ。


両親が未だ生きていた時、連れて行ってもらった。


『嵐然の魔法使いー公野 薫ークリスマス・イブの夜に』


その文字にひどく興奮した自分を覚えている。


魔法使いーーなんて、甘美な響きだろうか。


雪のような白い髪に、歳を重ねながらも衰えを微塵も感じさせない美貌ーー。


そして、その圧倒的な音楽性から、殆ど人外である二つ名を授けられた彼女は、始めの一音のみで、会場を魔法にかけた。


【神秘】という名の、彼女のとっておき。


僕もかかってしまってーー彼女をもっと感じたいと思ってーー音の中に入ろうと、目と耳を目一杯広げた。


そしたら、僕も魔法が使えた。


ーー 一瞬だけ、彼女と目が合った。


とても長く感じられた。


「言葉自体に意味はない」と、聞いたことがある。


その通りだった。


永遠に感じたーーこの一秒の間でーー僕は彼女からの意思を受け取ることができたんだ。


彼女は全てを伝え終えると、少し笑って、またピアノに向かった。


そして、大喝采を巻き起こした。


ーーでも。


彼女が病院に救急搬送されたのは、その後直ぐだった。


トイレを探し、一時的に単独行動をしていた僕は、あの場面に遭遇したのだ。


聞いてしまった。

ーー今までで1番大きい音を。


見てしまった。

ーー今までで1番赫い色を。


けれど、驚いている暇なんてなかった。


彼女は、一人だったのだーー何故かは、今でもわからないが。


『魔法使いさん』と、自分が知っている名前を呼び、駆け寄った。


彼女は、胸の辺りからあり得ない程の量の血を出しながら、僕を見て。


『あぁ……貴方で、良かったーー』


そう、呟いた。


僕はその言葉に返さず、側に落ちていた携帯を拾い上げて、母親から教わった唯一の番号【119】に掛けた。


もう、混乱だとか、恐怖だとかーー全部吹っ飛んで、【彼女を助けなければ】という思いだけが残っていた。


だから、泣くしかなかった。


悲しいわけじゃないのだ。


僕はまだ子供で、沢山の思いが溢れてきてしまうのだ。


大丈夫ですか、とか、もう少しですよ、とか。


何か声をかけられたら良かったのに。


ーーそして、銃声に気付いた人々が叫ぶのと、サイレンの音が聞こえてくるのは、殆ど同時だった。


♢♢♢♢♢♢

僕はそのまま病院へと向かった。


無理を言ったのだ。


流星のように流れる外の景色と、雷鳴のように轟くサイレンの中で、僕は彼女を見つめ続けた。


病院は幸いにも近かった。


最高速で十分も移動して到着、そのまま緊急手術室へと運ばれた。


僕は最後の最後まで一緒に居たくて、運ばれる彼女の横でひたすらに走っていた。


真横から聞こえる、震えた吐息。


燭台に灯った蠟燭のように、今にも消えそうな生命の息吹。


その中で、僕はーー本当に小さな音を見つけた。


魔法使いの、他でもない僕に向けた言葉。


『貴方...なら、繋ぐことができそう......

どこの誰かもわからないけれどーー頼む、よ』


彼女が部屋に入り、扉が勢いよく閉まる。

そして、赤いランプに浮かんだ『手術中』の文字。


僕は部屋の前で、その言葉を反芻し続けていた。


『頼むよ」、という言葉。


魔法使いは、遺言になるかもしれないその言葉を、見ず知らずの僕に託した。


「お母さん!」


不意に、背後からの大きな言葉。


振り返ると、そこにはーー錫色の長い髪を靡かせ、整った顔を哀しみに彩ったーー一人の少女がいた。


「お母さん......なんで」


大粒の雫で頬を濡らしながら、少女はひたすらにその名を叫んでいた。


ーー恐らく、娘なのだろう。


僕は、そんな彼女に言った。


「......大丈夫?」


「え......?」


「泣いてる、ようだったから」


「だって、お母さんが」


「心配しないでーー魔法使い、だもん」


「魔法使い......」


「うん。


だから、何があっても、きっと大丈夫だよ」


♢♢♢♢♢♢


病室は『205』だった。


『大丈夫だよ』と、無責任な言葉を言った僕の前には。


「え......」


ーー殆ど冷たくなった、彼女の姿があった。


彼女の命の灯はもう、消えかかっていて。


僕の横の少女はーー慟哭、その言葉を現した姿をしていた。


嵐のように泣き叫び、言葉にならない思いで、空気を震わせていた。


僕は呆然としていた。


現実を信じたくなかった。


彼女の白い肌。


羅紗を編んだような髪。


それを、じっと見つめていた。


そして、空気が青白く染まろうとした時ーー。


「...」


彼女がーー僕の手を、握った。


「......!」


僕は驚いたけれど、その手には、彼女の最後の意思が宿ってるーーそう思って、心を鎮めた。


「お願い......私の、音...繋いで、ね」


「うん......!」


手に込められた力が消える。


微かに開いた口が閉じられる。


12月24日。


ーー僕は、魔法使いを看取った。


♢♢♢♢♢♢

あれから十九年が経ってーー。


僕等は、大人になった。


心に描く未来図が姿を変えるように、多くのことが変わった。


いじめっ子格好の低かった背も、大きくなって。


青々しい考えができなくなって。


愛すべき人に出逢って。


ーーそして、ピアノを、皆の前で弾くようになった。


二度も欠けてしまった、僕の心も。


記憶から消えてしまった季節も。


それは、夜空の月が、再生するように。


或いは、大地の老樹から、命が芽吹くように。


時間という土で、埋められていった。


けれど、あの思い出たちはーー。


僕を変わらず、支え続けてくれる。



ーー嗚咽が漏れる。


涙が止まらない。


でも、逃げない。


『僕は一人じゃ、ないのだから』。


ーーさぁ、行こう、「魔法使いの弟子」よ。


『音を、繋いでいこう』。













































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或る光 Tommy @20061018

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