或る光
Tommy
或る光
其処は幻想的で、しかし鮮明な、
美しい肢体を
その耀きによって表情を存知することは出来ないが、二つの鋭い眼が足下の少年を捉えていることは分かった。
彼は、彼女と対照的に、その小さな身体に大いなる
漆黒を纏う
しかし、彼はその希望とも、救いとも取れる手に一切の反応も示さない。
彼女は更に、一言二言を掛けるが、それでも青年は微動だにしなかった。
ーー暫く経ち。
女性は、
そして、彼の耳元に口を寄せてーー。
『ーーー』
刹那、何処までも広く深い無限の海は、
♢♢♢♢♢♢
入場口に至る長い通路を抜けると、そこはステージだった。
拍手の嵐が鳴り響き、入場者を賛美している。
その中で僕ーー【
或る、光を受け取った記憶ーー。
ーー10年前ーー
現実は、非情なもの。
高校生になって、『桜の舞う並木道』で運命的な出会いをして、恋に落ちて、幸せに青春を送る。
一瞬に命の煌きを燃やす日常ーー。
そんなものは愚かな幻想だったと、僕は高校に入学して一ヶ月で理解した。
だって、僕の直ぐ目の前にあるのは。
美しい街路樹でも、可愛らしい女の子でもなく、汚い便器の水だからだ。
「ボバッ……!」
去年の五月から始まって、毎日定例の視界暗転が起きる。
(突っ込まれた)
今回で、累計455回目。
だから、急激な出来事にもかかわらず、僕の頭は冷静だった。
息を止め、この後顔洗わなきゃ、と考える。
「ドブネズミ君、水だぞ?」
典型的ないじめっ子発言をしたこいつは、松坂。
僕を虐める奴の中で、最も暴力的だ。
「背中蹴ってやらないと飲めないんじゃね?」
そう言って汚く笑っているのは、木崎。
こいつは所謂「追撃」係。奴のせいで、虐めのエスカレートは一瞬だった。
「いや、待て、一旦水飲みをやめさせろ。
・・・・・・面白い事を思いついた」
瞬間、視界が再生する。
引かれた後髪が痛い。
「何だ? 東方」
虐めの「悪意」担当ーー東方は松坂に訊かれると、その狂気的な顔を奴に向け、言った。
「ーー
「癒す」というその隠語は、松坂と木崎を沸かせるには十分な魅力を持っていた。
「ぅっひょぉーっ、良いわァ、それ!」
「東方、天才じゃん」
「じゃあ、早速……」
そう言って、東方が自身のズボンのジッパーに手を掛けた時ーー。
「くぉらあぁあ! もうとっくに授業は始まってんだぞぉぉ!」
便所外の廊下で、生徒指導の教師が叫んでいるのが聞こえた。
奴は僕らの存在には気づいていない。唯の威嚇にすぎないのだ。
しかしーー幸いだ、とてもーーあいつは
よって、流石の東方達でも、これには引くしかなかった。
「ちっ、良いところだったのによ」
「放課後の楽しみが出来た、と考えれば良くね?」
「確かに。......じゃ、後始末しとけよ」
ーーバタン、と扉の閉まる音がしたのを聞き、僕はやっと動くことが出来た。
「......」
無言で洗面台へ行き、「死ね」とか「消えろ」とか、ベタな蔑言が書かれた顔を丁寧に洗う。
消えないと思われがちだが、水で丁寧に洗えば、こういうのは大抵落ちるのだ。
そして、撒き散らされた水や尿をモップで吸い。
「戻るか」
僕は、いつも通り教室へと戻っていった。
♢♢♢♢♢♢
ここ【東林学園】は、創立100年を今年迎える、由緒ある伝統校だ。
大学合格実績は、県でも有数のレベルに至る。
しかしその反面、「進学校」という圧力や息苦しさから、東方達の様な奴が出てくる。
そいつらは「支配する側」の人間になり、僕のような「支配される側」の人間を
名門校という名の檻に、囚人を虐める拷問官ーー。
正に、【
「-であるからして、sincostanを利用した角度計算は数学の大基本だ。出来ない奴は恥と思え」
数学教師の声が響く。
僕の席は1番後ろの列にあるが、それでも耳が痛くなるほど、やつの声は大きかった。
(五月蝿いなぁ)
何故教師という生き物は、ここまで声を張るのだろうか。
逆に聞こえ辛くなることがわからないのか?
ーーそんなことを考えていると。
(......ん?)
微かな視線。
まるで、すれ違った自転車を見るような、迚も素早い視線を感じた。
(一体誰だ?)
重い
(右の奴は教科書に隠れて寝てるし、前の奴とかがわざわざ
で、あれば。
【
この学校の頂点に居るーー転校生だ。
彼女がここに来た日のことは、よく憶えている。
『ーーから来ました、公野です』
銀白の髪に、モデルのように長い足。
艶やかに光を返す肌。
紺碧の瞳を持った、小さく美しい顔ーー。
思わず息を呑んだ。
容姿端麗、成績優秀。
性格はお淑やか且つ
そんなだから、彼女は転校して3日ーーつい昨日のことだがーーで、累計20人の男女に告白されたらしい。
尤も、全員振られたらしいが。
僕と左隣の彼女との間。
この
(そうだ、何を考えているんだ。1番、ありえない)
僕は大きくかぶりをふって、再び数学教師の辛辣な大声を聞くことにした。
♢♢♢♢♢♢
放課後を告げる鐘は、僕を憂鬱にさせた。
また、アイツらのところに行かねばならない。
バックれる? そんなの 病院に行きたい時にするさ。
「では、今日の授業はここまで。いつも言っている事だが、自宅で最低5時間は勉強しろよ。数人を除き、お前らは落ちこぼれだからな」
吐き捨てるようにして担任が出ていく。
ーー瞬間、生徒たちの笑い声が教室を満たした。
「放課後予定ある?」
「ねーわ、ゲーセンいこーぜ」
「この前撮った写真バズったんだけど」
「まじで?! 見せてくれよ」
あれだけボロくそ言われたのにすぐに切り替える生徒達ーー慣れたものだ。
僕も、黙々と変える準備をしていく。
あいつらを待たせたら、今度も何されるかわからないしな。
早速、例の場所に行くことにした。
鉛のような、重い足取りで。
♢♢♢♢♢♢
3階男子トイレの扉の前に立つ。
これからの自分の未来は嘆かない。
「嫌だ」とか、「いじめられて悔しい」とか、そういう気持ちは無駄だ。
この状況が変わる訳がないのだ。
僕はガチャリ、と音を立ててノブを回した。
「遅刻だな? ドブネズミ君よぉ?」
ーー嘘だ。
「友達との約束を破るなんて、これぁ罰がひつようだな」
「その通りだ。ーーやるべきことは、分かってんな?」
大声で笑う拷問官ABと獄長。
そして、そのまま各々のズボンを脱ぎ始める。
僕は、逃げない。
その光景をじっと見るだけ。
「お? 結構やる気あるな、お前」
「そんな熱い視線で見られたら、ムラムラするじゃん」
笑い声の中に、ばさり、という音がして、大きく汚い一物が姿を現した。
「よし、じゃあ、ご奉仕してもらおうかな」
東方が初手の様だ、此方に近付いてくる。
僕は、口を開けた。
そして、それが入ろうとした時ーー。
刹那。
扉が勢いよく開き、大声が響いた。
「何してんだっ!!!」
唖然となる、僕と三人。
何故なら、その大声もそうだけどーー其処に立っていた声の主が……
「な……公野、さん」
支配する人間の究極体、公野 光だったからだ。
♢♢♢♢♢♢
最初に沈黙を破ったのは、東野だった。
直ぐに落ち着きを取り戻し、耳障りな粘い声で彼女に言葉をかける。
「な、なぁんだ、公野さんじゃないですか」
「一体、どうされたんですか?」
拷問官二人の後、下品に笑いながら、
「もしかして、一緒に愉しみたいとかぁ?」
ーーブチッ。
何かが切れた音がしたような気がした。
「この……」
絞り出すように、公野さんが呟く。
「え、なんてぇ?」
東野は心底バカにしたような顔と共に耳を向けた。
それが引き金だった。
「腐れ外道がーっ!」
ドグゥオンンン!
まるでツァーリ・ボンバが降ってきたかのような音と共に。
公野さんの拳が、東野の顔を撃ち抜いた!!
「ペギャアア!」
変な声を上げながら吹っ飛ぶ大男。
そしてその先には、手を必死に振りながら叫ぶ拷問官2人。
「な、あ?! 来るなあぁぁ!」
しかし、そんな抵抗も儚く。
パグオンッ!
またもや奇妙な音を鳴らし、三人仲良く便所の壁に衝突した。
「......ふぅーっ。大丈夫だった?」
突き出していた拳を納めた公野は、微笑みと共に声をかけてくる。
「は、ははは……」
けれど、僕はその問いに答えるでもなく。
自然と、笑ってしまっていた。
ーー僕は思った。
人は、どうしようもない事ーー奇跡が起きた時、笑うしかないのだと。
♢♢♢♢♢♢
「よし。
その後、僕等は隣の3-1クラスにやって来た。
あの三人は、暫くの間戦闘不能だろうから、襲われる心配はない。
放心状態をようやく抜け出した僕は、目の前の少女ーー公野さんに礼を言おうとした。
「あっ、その」
が、言葉が出ない。
自分でも何故か分からない。
(あれ……?)
その様子を見た彼女は何かを察してくれたようで、丁寧な流れで話しかけてくれた。
「大丈夫。ゆっくりで良いよーー教えてほしい。何があったのか」
真剣な瞳で、僕を射止めながら。
「……」
彼女は暫く黙っていた。
微動だにせず。
そして、
「そ、そんなにきつい事じゃなかったから。慣れてたしね……じゃれてただけだよっ」
努めて明るい様子で言ったーー
ーー筈だった。
「嘘だね」
彼女は切った。
僕の眉間に皺がよる。
そうだ。
勿論、大嘘だ。
でも、僕は一刻も早くこの場を抜け出したかった。
「そんなことないよーー単なるお遊びだよ」
「貴方の顔を見れば、分かる」
「いや、でもさ」
「少しも、笑えてないよ」
淡い光が僕を撃つ。
そんなこと知ってるよ。
だから、それ以上続けないでくれ。
「アイツらがまた襲ってきたら、叩きのめすから。安心して」
違う。
「君は、ひとりじゃないんだよ」
言ったらダメなのに、言ってしまう。
「公野さんには、分からないよ」
言ってしまった。
1番言ってはいけない言葉。
相手の配心を踏みにじる口跡。
彼女は表情を崩して、はっと驚いた顔をした。
僕はそれを見てーー。
「助けてくれてありがとう……じゃあ」
逃げ出した。
悲哀に満ちた瞳の少女を、残して。
♢♢♢♢♢♢
深夜2時。
1日の終わりには音楽を聴く事にしている。
色々聴くーーポップス、ロック、ヒップホップ......。
中でも最近聴いているのは。
「こんな旋律、どうやって作ったんだろう」
クラシック。
特に、ピアノだ。
死んだ両親が好きで、よく僕もコンサートに連れて行ってもらっていたらしい。
尤も、とても小さい頃だったから全く記憶に無いんだけど。
今聴いているのは、「幻想ポロネーズ」。
ショパンの最高傑作との呼び声が高い作品だ。
一音一音が甘美に満ち溢れ。
奏者の、激情とも呼べる快哉と歓喜を遺憾なく表していた。
そして、昇りが極点へと達しーー。
ーー刹那、その波動が揺らぐ。
この世の時が停止したような錯覚に陥る程の流動の変容が起き、音の「色」が変化すした。
ーーこの時だけは、すべてを忘れられるーーはずだったのに、
煩瑣的で、不可解で。
霊妙をたたえたメロディに合わせ、僕の思考も落ち着いてくると。
薄っすらと浮かび上がる、彼女の顔。
絶望と、不安と、悲しみが籠もった表情。
「......何やってんだ、僕」
小さく呟く。
誰かに叩かれたい、罵られたいようなーー言葉にできない気持ちが広がった。
♢♢♢♢♢♢
翌日は曇りだった。
薄暗い鈍色の空に、重い心と足。
目の前の校門は、
……どんな顔で教室に入ればいいのだろう。
そうため息をつきながら、門をくぐった時。
「ーーおい、音尾」
「!!」
奴らの、声がした。
♢♢♢♢♢♢
「がっ」
頬が激しく痛い。
昨日よりも、遥かに。
「てめぇ……よくもやってくれたな」
東野が呻く。
額に包帯が巻かれているが、彼の怒りの表情は容易に見て取れた。
「クソがっ」
松阪が倒れた僕の脇腹を蹴る。
「あ”っ」
情けない声を出してしまう。
聞き慣れた声だ。
でも、この体育館裏でどれだけ喚いても。
「大人しくやられろーーてめぇの救世主が来る前に」
彼女はもう来ないんだーー。
「よし……昨日あいつにもらった拳、音尾にもやるよ」
東野が、その岩のような手を上げる。
もう駄目だ。
でも自分のせいだ。
いじめられたのだって、僕が弱かったから。
公野さんを突き放したのだって、僕が弱かったから。
嫌だ。
弱いままじゃ嫌だーー。
様々な感情が混ざりあって、僕の身体を押さえつける。
「オラァァァ!
そして、拳が繰り出され……
「ァァ…あ? あべしっ!!」
またもや東野が転がったーー!
昨日と全く同じ情景。
「なっ、く、来るなぁぁ!」
そして、全く同じ台詞とーー爆音。
奴らは体育館の壁にぶち当たり、ガックリと項垂れた。
「な……」
信じられない。
「なんで」
同じ台詞と共に。
「ーー大丈夫だった? 音尾くん」
何故、
♢♢♢♢♢♢
「詰めが甘かった、今度は徹底的にするかな」
初めに抱いたのは、激しい後悔だった。
昨日の出来事がフラッシュバックする。
「な……」
あの後ろ姿。
「なんで」
あの微笑み。
「なんで、そこまで」
そんな言葉が口をついた。
それを聞いた彼女は、ゆっくりとした動作でこちらを振り返ると、
「忘れちゃったの?」
不思議なことを言った。
「何、を?」
「ほらーーあの時の」
「……ごめん、心当たりがない」
「そう……」
公野さんは少しだけ瞼を伏せて、悲しそうな表情をした。
そして、此方を真っ直ぐと見て、
「着いてきて」
♢♢♢♢♢♢
東林学園の生徒棟三階、最奥。
そこに位置するのは「音楽室」だ。
僕は今、彼女に連れられてその人気のない教室に足を運んでいる。
(一体どうしたのだろう)
そして、「もしかしたら、彼女が演奏してくれるのではーー」。
僕の心は落ち込みながらも、微かな期待をも孕んでいるのだった。
「着いたよーーテキトーな席、座って」
ここで言う「テキトー」とは、彼女が座っているピアノ「以外」ということなのだろう。
少し迷って、僕は最前列の最も
案の定、公野さんが天板を開ける。
「ごめんね、突然だけどーー」
大きな黒い壁が浮き、中の複雑な装置が姿を表した。
「弾くね」
ーー来た。
彼女が鍵盤に指を置く。
そしてーー。
衝撃。
強烈な懐古。
現れたのは、
まるで神々が五線譜を辿って示現したかのように。
僕の心にも、月白の風を送り込んできた。
とても懐かしい、記憶に繋ぐ道。
(何だったっけ)
その自問に答えるように、脳内にフラッシュバックが起こる。
青く静かな病室。
泣きわめく少女。
女性のか細い手をしかりと握った少年......。
何故だろう。
誰が誰かもわからないし、この絵がどんな状況を表しているかもわからない。
けれどーー不思議なことにーー僕はこの中にいたような気がする。
……彼女の顔が変わる。
それにつれて、指も音も、空気も変わってゆく。
波が高まってゆくのを感じる。
教室のすべてが、その絶頂を待ち望んでいた。
螺旋階段を登るように、音が高まって。
開放された。
嵐が吹き荒れた。
窓が震えた。
今にも体が吹っ飛びそうだった。
僕の頭の情景を有象無象の渦に変え、音は暴走している。
途端、刹那の間が空き。
虹が消えるように、指が左往に流れた。
音がドミノを倒してゆく。
そして。
僕等の心に、再び大きな衝撃をもたらした。
♢♢♢♢♢♢
最後の1音が虚空に消え、しばらく経った後に彼女は口を開いた。
「思い出した?」
「……っ、さっきのは」
「思い出してくれたんだね」
「いや、その」
まだ、自分の体験したことを言語化できない。
「大丈夫、分かるよーーそうやって思い出せるように弾いたからね」
変なことを言う公野さん。
いや、あのような演奏ができるプロ級ピアニストとなれば、それくらいのことは朝飯前なのか?
「あと……これ、使いなよ」
彼女はハンカチを差し出した。
「え……その、これは?」
「拭くものだよ」
何をーー。
そう言う前に、気付いてしまった。
「あ……」
雫が一つ、頬を濡らす。
僕は泣いていた。
♢♢♢♢♢♢
落ち着くまでに、そう時間はかからなかった。
「ありがとう。どうしたんだろ、僕」
「きっと、何か大切なものを取り戻したんだよ」
彼女は妙な言い回しを使った。
「何を」
今度は、はっきりと言えた。
「記憶ーーだよ。私たちと、音尾くんとの」
「ーー【たち】? 【記憶】?」
どういうことだ。
確かに公野さんのピアノを聴いた時、僕は何かを見た。
彼女の言う通り、「思い出した」のかもしれない。
けれど。
それは余りにも断片的で、はっきりとした事象を思い出すには足りな過ぎる。
「あれはーー何?」
多義を込め、改めて問う。
「完全には、無理だったか、な」
残念そうな公野さん。
「あれは。
ーー私と音尾くんと、私の母だよ」
「......は?」
何を言ってるんだ、この子は。
「母のラストステージと、命の最後。
私達は、昔会っているんだよ」
もう、考えることをやめた。
ハンマーで頭を強打された衝撃も、気にしない。
「【公野
若い頃から賞を総なめにして、年老いて、病に臥せってもその腕は衰えることが無かった」
彼女は僕をじっと見て、語り続ける。
「けれど、あの日ーー事件は起こった。
…コンサートの直後、熱狂的な一人のファンに殺されてしまった」
「なっ......!」
なんだよそれ、と言いそうになったが、僕は堪えた。
まだ、彼女が話している。
「たった一撃。
でも、その一撃で彼女は瀕死になり、救急搬送された」
公野さんは、少し震えていた。
強く拳を握っているーー本人も無意識なのだろう。
「その時音尾くんは、母に付き添って病院に行ったんだよ」
「僕が」
「うん。
母の第一発見者だったみたいーー。
病院では、亡くなるまで手を握り続けてた」
「公野さんは」
「私もそこにいたよ」
少し整理できた。
でも、まだまだ信じられないことばかりだ。
ーーそういえば。
「......僕はーーごめん、その時のことを忘れてしまったけれどーー何か、公野さんのお母さんと「約束」をしてたような気がするがする。
それも、とても大事な」
そう。
あの思い出した絵画の中に、僕と彼女の母が写った物があった。
ーーそしてようやく、少し思い出せた。
僕はあの時、彼女と約束をしたんだ、と。
「ーー嬉しいな」
公野さんは答えた。
「実は、そこがいちばん重要なところなんだよ。
まだ思い出せていなかったら、今から言おうかなとも思ってた」
驚いた。
彼女らとの記憶は全て宝石みたいなものだと思ってたけど、まさか王、「
「それで.....ごめん、その.内容って」
「うん。
この約束は、実は私にもされたんだけど。
ーー「音を繋げ」。
母はそう言ったよ」
「音を......繋ぐ」
ーーはぁ?
正直、全く意味がわからない。
音をバトンみたいに渡すってことなのか?
それとも、音と音を結合させるとか?
でも、いくら考えてみても、結局僕は「凡人」だから。
「ごめんーー分からない」
謝るしかない。
「ーー音尾くんは」
おもむろに彼女が口を開いた。
「さっき、「なんでここまでしてくれるんだ」って言ったよね」
「う、ん」
「あれはね、【私達二人で、その約束を果たすため】なんだよ」
ーーえ。
それだけ、とは言ってはいけない。
けれど、少なくとも僕にとってはそうだった。
…公野さんはーー彼女の口からは聞いていないけれどーープロのピアニストだ。
「音」について、世界で一番知っている。
あの約束の真意はわからないけど、彼女なら、すぐに分かるはずのもの。
それを僕とともにする必要は、微塵もない。
「僕は、いらないと思う。
だって、ただの凡人だもん。
たまたまその場にいただけの。
分かんないよーー。
公野さんは、わかるんでしょう? その約束の、本当の意味を」
話が聞けてよかった、そう言おうとした時。
「わかるわけがない!」
数学教師を軽く凌駕した、大声が教室に響いた。
「わかんないよーー母さんは、其れしか言ってないから。
ピアのが弾ける、なんて関係ないよ。
大切な言葉は、技術と経験じゃ読み取れないもの」
彼女は一息にそう言うと、
「とにかく、私は音尾くんと一緒にその意味を見つけたい。
ーー理由はそれでいいでしょう?」
ーーそうだ。
昨日の時点で気づいてたはずなのに。
公野さんは、僕だけを見ているんだと。
「ちょ、ちょっと強引だね」
「世の中ゴリ押しである程度は行ける、とも母は言っていたからね」
「……ははは」
なんだか、胸につかえてたものが急に取れたような気がした。
今なら言えるーーそう思った。
「公野さん、昨日はーー」
窓の外の大空。
潤色に塗られたキャンパスに、人々を運ぶ大河の様に、雲が泳いでいる。
そんな八月の天は、淡い光に虹を掛けた
♢♢♢♢♢♢
東野たちは、それっきり僕の前に顔を現さなくなった。
聞いた話だと、今までやってきたことが教師や親.......だけでなく、なんと警察にもバレたらしい。
例えば、誰かが密告した、とかーー。
『詰めが甘かった、徹底的にするかな』
あの言葉......まさか、ね。
♢♢♢♢♢♢
遊園地なんて小学生の時に一度行ったきりだった。
覚えているのは、凄まじい速さでレールを駆け降りるジェットコースターと、煌びやかな光を放ち優雅に回るメリーゴーランド。
そして、頂上からの景色が今も鮮明に思い描ける、観覧車だけだ。
しかし、今ーー僕は二度目の遊園地に来ている。
それも、今度は両親とではなく。
「ーー音尾くん、次はあれに乗ってみようよ」
「う、うん」
隣の美少女、スクールカーストトップの「公野 光」とである。
(どうして、こうなったんだ)
そう、過去の自分に問いたい。
(僕は彼女に酷いことを言っただけなのに)
スクールカースト底辺と頂点。
並んで歩いて、ここまで滑稽な組み合わせはないだろう。
......よって、今僕等は現在進行中で、遊園地の大街道を歩いているのだが。
※
「見てみてあの
「うわぁ、本当だねぇ。しかも目は蒼いし、髪は茶色っぽい金色だし……ハーフなのかな」
「お、俺、声かけようかなっ!」
「やめとけ。隣の人を見るに、レンタル彼女中っぽいぞ」
「......あー、確かに。あいつ、如何にも『モテない男の』典型って感じだもんね」
※
あの物言いには慣れてるから、別に怒ったりしないけど。
改めて彼女を見る。
ーー絹で織ったような髪に、藍よりも蒼い瞳。
すると、彼女の方もその視線に気付いたのか、
「どうしたの?」
「……っ」
僕に、太陽のような笑顔を向けてきた。
「あと、
「ーーうん、ありがとう」
(本当に、世界が違うんだな)
昨日の彼女に申し訳がないけれど、心の底からそう感じてしまった。
♢♢♢♢♢♢
大街道を通り、僕たちは公野さんの言うあれージェットコースターに乗ることにした。
二人乗りの座席に共に乗って、シートベルトを着用。
そしてちょうどいま、安全バーが下げられたところだ。
「そういえば音尾くんって、これまで遊園地に来たことはある?」
バーに手をかけた公野さんが話しかけてくる。
彼女はとても華奢で、僕と一緒に乗っても、二人の間に人一人分の空間ができるほどだった。
「うん。小さい頃に、両親と一度だけ」
「そっか……」
公野が急に頭を下げた。
どうしたのだろう。
スタッフさんの「五秒前ーー」の声が響く。
「ーーもしかして、行ったこと、ないの?」
「う、うん」
「じゃあ、ジェットコースターも……」
「初めて……」
そう彼女が答えた瞬間ーー。
「うわあああぁぁぁ!!」
機体が急発進、僕らの体が残像を残したように前に動いた。
隼のような風が身体を突き付ける。
激しい動きで脳が揺れ、自分の位置を見失いそうになった。
「ひぃやぁぁぁぁぁ!」
潤む瞳で左を見やると、大粒の涙を川の様に流しながら、同じく絶叫する公野さんの姿があった。
「
整った顔の口をだらしなく開け、白菫色の美しい髪をぼさぼさにして。
そんな、モデルもあったもんじゃないって感じで。
(あっ……)
急に、前の席の人が両手を挙げた。
(これは、もしや……?)
機体が音を立てて下に傾く。
視界が急に開けて。
ーー
「あ、やばい」
「え、音尾君んん?! これってぇぇ!!」
(公野さん。ヴァルハラで、会おう)
地の底に響くような叫喚とともに、僕等の意識はフェードアウト……。
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
「ん……?」
椅子で横になっていた公野さんが、声を出す。
「よかった、目を覚ました」
その後、僕等は早速次のアトラクションに……行けなかった。
※
「ふー。楽しかったね、公野さん』
『~、ー。~』
『……公野、さん?』
彼女の口元に耳を近づけると……。
『ばあちゃん......川の向こうで手招きしてる』
『逝っちゃだめ!!』
※
隣のモデルさんの魂が昇天していたからだ。
そのまま急いで休憩室まで連れて行ってーーーーで、三十分して今に至ると。
「ここは?」
「ここは休憩室だよ。ほら、園内マップの中央にあった」
「……ごめんね、迷惑かけちゃって」
彼女は悲しそうに言った。
でも、僕は。
「ふふっ」
笑ってしまった。
「? どうしたの音尾君」
やはり、不思議な顔をして、そう尋ねる公野だろうか。
「いや、なんか……公野さんが、ちょっと可愛くて。
あんな完璧超人がジェットコースターで昇天て……ふふっ」
「だ、だって初めてだしっ! みんな倒れてるって!」
頬を鉛丹色に染めながら恥じらう彼女。
「みんな倒れたら事件になるでしょ……ふふっーーやば、止まらない」
「ふーっ! 音尾君ーー!」
・・・・・・なんだか、僕と公野の
そんな気がした。
♢♢♢♢♢♢
彼女は「もう大丈夫だよ」と言ったけれど、やっぱり心配があって、僕らはもう少しだけ休憩室で落ち着くことにした。
「それにしても」
休憩室は広く、テニスコート二つ分くらいで。
更にその中には遊具スペースとか、ファストフード店とか、お土産屋までもあり。
「ここって凄く快適だね、公野さん」
「うん。一日中居られる位だよ」
「いやアトラクション乗ろうよ」
「確かに」
そんな他愛もない会話を、僕等はしていた。
・・・・・・本当に、昨日の校長の「同道(しろ)宣言」の通りである。
それに公野さんが何故いきなり、僕とここに来たかったのかが、少しだけ分かったような気がする。
「あっ!」
不意に彼女が声を上げたーーまるで、お気に入りの玩具を見つけた時のような。
そのまま席を立ち、休憩室の中央に向かってゆく。
「どうしたの?」
「これこれ」
そう言って、彼女が指差したのはーー。
「ピアノだ……」
そう、ピアノだった。
室の真ん中にひっそりと彳む其れは、誰に弾かれるでもなく、自らの木の体を薫らせていた。
「うん」
そう応えながら、蓋を開ける彼女。
「一曲、一緒に弾いてみようよ」
「え?! で、出来るわけないよ」
「大丈夫だよーーそれに、【音を繋ぐ】意味も分かるかもしれない」
そう言われるとな。
「何より、単純に私が弾きたい」
そうですか、さいですか。
「うん、弾こっか……」
そして、鍵盤の
「こんな感じかな? あと、さっきも言ったけど、本当に僕、ピアノできないからね?」
「だから大丈夫だよっ。
ーー秘策がある」
そう言って公野さんは、
僕の右手の上に自分の手を置いた。
「ひゃっ」
人の温もりが伝わって、思わず変な声が出てしまう。
それを無視して、彼女はそのまま左手も乗せーー僕の膝に乗るような体勢になった。
「どう? ーーこれなら、絶対安心でしょう」
「う、うん……」
そんなことされると逆に緊張する、とは言えない。
「行くよ。大丈夫、力を抜いて」
言われた通りに、腕を楽にする。
そしてーー。
音が鳴った。
左手で奏でる、音の粒が落ちてくるような流れる伴奏。
右手からは、雄大な自然を現した美しいメロディが響く。
たゆかう水が、夏色の満月を洗うような。
ーー【エオリアンハープ】。
ショパンの曲の中でも、その難しさ、美しさが一際目立つ作品だ。
(凄い……)
弾けていた。
お気に入りのプラモデルを組み立てるように、僕は音楽を作ることが出来ていた。
「上手く弾こう、ってのは要らないよ。
ただ、今の自分の気持ちで指を動かして」
彼女が耳元で囁く。
とてもくすぐったいが、それ以上に、僕はこの曲に入っていた。
(僕の好きな曲が)
この曲を、何度部屋で聴いたか分からない。
(今、1番近くで流れてる)
音が落ち着いてくる。
風に靡く草原に在る秩序。
その高まりは段々と薄れていってーー。
(この音だ)
消えた。
♢♢♢♢♢♢
「凄すぎるよ、音尾くん! 最後まで弾けたじゃん!」
ピアノを綺麗に片付けた僕らは、再び椅子に戻り先程の演奏を振り返っていた。
「いや、公野さんのお陰だよ。……っていうか、大体弾いてたの公野さんじゃない?」
「それは違う!!」
彼女は叫んだ。
近くの数人がこちらを見る。
「も、もう少し声を落として!」
「ごめん……でも、ちょっとそれだけは否定したいんだ」
「なんで?」
「だってーー
ーー私、曲の半分くらいから音尾くんの手を離したんだよ?」
……え?
ということは。
「僕、途中から自分一人で演奏してたってこと?!」
思わず立ち上がってしまう。
また、数人がこちらを見た。
「もう少し声を落として!」
「ごめん……」
「でも、音尾くんにはきっと才能があるよ。
ーーそれも、凄まじいほどの。もしかしたら、私なんてすぐに追い越しちゃうかも」
「そ、それはいくらなんでもないでしょ」
僕がそう言うと、彼女は顎に手を当てて、
「そうかな……」
と呟いた。
ーーだから、選ばれたんじゃないかーー。
そんな音は、聞こえないことにした。
♢♢♢♢♢♢
僕等は多くの時間を一緒に過ごした。
そして、僕のモノクロの日常は、段々と彼女の色に染まっていった。
「音尾くんって、何か趣味ある?」
「うーん、家で音楽を聴くことはあるけど、それ以外には特にないよ」
「そっか......あ、じゃあ、ピアノ弾くとかどう?!」
「え? ピアノ?」
「うん。私の家に結構余ってるから、一つあげるよ」
「高級品を日用品みたいにいいません。
ーーでも、ありがとう。やってみるね」
鴇色に、桜色に、韓紅に。
「今、【ノクターン
って言っても、まだまだ始めたばかりで下手だけどね」
「そうなんだ! あの曲、すごく綺麗だよね。
ーーあと、上手い下手は考えなくていいんじゃないかな。ピアノを楽しむことが大事って、私は思うよ」
「楽しむこと......」
特別なことは、あまりしていないと思う。
けれどーー少なくとも僕にとってはーーその一つ一つが宝物だった。
金色に輝く、夢のように。
「父に、奏くんのことを話したんだ」
「え? 公野さんのお父様に?」
「うん。毎日のことは勿論、遊園地も」
「ーーそれで、どうだった……?」
「えーと、『家に来なさい。たっぷりもてなすからね』……と」
「も、もてなす、ね。
ーーなんだか言葉通りの意味じゃないような気もするけど、【ありがとうございます】って伝えてくれるかな」
僕等は「音を繋ぐ」話はあえてしなかった。
音楽は感覚的なもの。いくら考えたって意味がないーーそう考えたからだ。
でも、だからといって進展がないわけではなかった。
寧ろ、半分は完成されていたのかもしれない。
僕等はーー不思議な話だがーー本質を知らないまま、本質に沿った考え方をしていたのだと思う。
「無意識理解」ってものかも知れない。
そして、そのまま時間が矢のように流れてーー。
♢♢♢♢♢♢
「わぁ、雪だよ、奏君!」
「そうだね。ーー気を付けてね、滑りやすいから」
妖精の粉のような、銀色に輝く雪の降る季節となった。
「分かってるよ! でも私、初めて見たんだよ!」
公野さんーーいや、光はその美しい瞳を彼方此方に向けながら、興奮気味にそう言った。
「引っ越しする前の場所では見られなかったの?」
「うん。だって、ーーに雪はふらないでしょ」
彼女の口からは、とても暑そうな名詞が出てきた。
うん。確かに降らないね。
「ここに来て良かった。雪が降るし、街の皆は優しいし」
「そう言ってもらえると嬉しいよ」
「ーーご飯が凄く美味しいし!」
じゅるり、という効果音が鳴る。
あれ? さっき昼ご飯食べたばかりなのにな……。
「ふふっ」
「……それに」
彼女は少し間を置いて。
「奏君が、いるからーー」
ーー不意打ちだった。
「そそ、それは卑怯だよ」
「ふふ、だって事実だもん」
大胆不敵に笑う光。
「でも」
空を見上げてみる。
どこまでも広がる雲海から、街中に天の子たちが落ちてきて。
僕と光の額にもーー夜の草原に舞い降りた天使のようにーーその神秘さをくれる。
「こんな日々が、ずっと続けばいいね」
♢♢♢♢♢♢
12月24日。
世界中の人が神に感謝し、喜びにあふれる日。
小さなこの街でも、それは例外ではなく、活気がそこら中に満ちていた。
「十時四十分......」
僕は凍える両手に息を吐きながら、広場の時計で時間を確認した。
今日は今年一と言っても過言ではないほどのイベントーー「公野家招待」ーーの日である。
光とはこの広場で待ち合わせをして、そのまま家へと連れて行って貰う予定だ。
しかし。
「もう二十分だぞーー?」
光は迚も遅刻していた。
勿論心配ではある。
けれど、彼女は待ち合わせに毎度毎度遅れてくるので、若干慣れた、というのが本音だ。
酷いときには一時間遅れてきたし。
「理由も『ドタバタしてたら』だもんなぁ」
頭をかく。
ーーその時の僕は、緩んでいた。
彼女との毎日が幸せで。
いつの間にか消えていた、最悪な日々も。
僕等を結びつけてくれた、彼女のお母さんのことも、「音を繋ぐ」ことも薄れていって。
ーー在って当たり前だ。
そう思っていた。
だからだろうな。
「毎日」が一瞬で消えることを、忘れていたんだーー。
♢♢♢♢♢♢
プルルルッ プルルルッ
唐突に、携帯が鳴った。
「やっとか……結局30分だよ」
溜息を吐きつつ、応答する。
それで、荒い息をしながらも、彼女の弾んだ声が。
聞こえるはずだったのにーー。
「音尾くん、だね」
飛び込んできたのは、高い、若さ溢れる声ではなくーー低い男声だった。
「はい。音尾……です」
「突然だが、私は光の父だ」
「はぁ……はい?! は、初めまして!」
「すまない。急ぎで【国立病院】に来てくれ」
男性ーー光のお父さんは、淡々とした言葉でそう言って、直ぐに電話を切ってしまった。
けれどーー僕には分かった。
分かってしまった。
彼の震える声。
強張った息遣い。
気付けば、僕は駆け出していた。
♢♢♢♢♢♢
脚を踏み出す。
力の限りに。
壊れるくらいに。
何故、こんなにも遅いのだと、自分を呪いながら。
(前にーー前に、進まなければ)
汗をかいた額を、風が打つ。
頭の中を真っ白にした。
何も考えなかったーー否、考えたくなかった。
「日常」なんてのは、平和と同じだ。
戦争と戦争の間の休息期間に胡座をかいた人々が、勝手にその幸せで、刹那的な日々に名をつけただけで。
誰も、それが続くとは言っていないのだ。
幻想なのだ。
神さまはいない。
馬鹿だ、救えと罵れるのは、平和ボケした自分だけ。
(苦しい)
走れ。
(もう着くじゃないか)
速度を上げ続けろ。
ーー『なんで、そこまでしてくれるんだーー』。
今なら、分かるからーー。
♢♢♢♢♢♢
病院の階段を駆け上り、『205号室』を目指す。
(あそこだ)
直ぐに分かった。
目に付く大きな人集り。
押し退けて進んだ。
そして、病室の扉を開き、
目に入ってきたのはーー。
♢♢♢♢♢♢
開かれた窓に、揺れるカーテン。
狭く、白い病室に満ちた輝き。
光は、その中にいた。
「光」
声が響く。
「光、り」
また、響く。
「ーー音尾くん」
ゆっくりと振り向いた。
そこには、光のお父さんらしき人。
「あの時以来だね」
彼はその大きな体を震わせてーー吐き出すように、消えるようにーー続けて言った。
「あの子はーー光はね。この街に来てから毎日、君のことを話していた。どんなに小さなことでも」
彼は、泣いていた。
涙は出ていなかったし、しゃくりあげてるわけでもない。
ーーけれど、確かに泣いていたのだ。
「ある日光はーー目を泣きはらして帰ってきた。私は彼女の話を大して聞きもせずに、君が悪いのだと決めつけ、罵倒し、家に行ってやろうかとまで思ってしまった。
ーーしかし、彼女は言ったんだよ」
彼は言葉を切った。
間が在った。
僕は聞いていた。
「『お父さん、これは嬉しいから……なんだよ。人が自分の弱さを見せた時、もう私たちは互いを知っているのだからーー』。
彼女の話を聞いた時、私は、今と同じように、泣いた。
君が、どうしようもなく、弱い人間だったから。
光が、どうしようもなく、甘い人間だったから。
……音尾くん。
大人は、綺麗事が大好きさーー空気を吐くように言うんだ。
だから今も、言わせてもらうよ」
風が止んだ。
「君と過ごした日々は、彼女のーー人生で1番の宝物だよ。
ーー今まで、本当にありがとう」
僕は彼が頭を下げるのを見なかった。
言葉も、聞きたくなかった。
放心状態のまま、彼女の元に行った。
初めて会ったあの時から変わらない、美しい顔。
窓の外に降る粉雪よりも白い肌ーー。
『貴方の顔を見れば、分かるよ』
僕もだよ。
『大丈夫だった?』
君は、本当に強かったよね。
『一緒に弾いてみようよ』
ピアノがとても好きで。
『音尾くんには才能があるよ』
いつでも褒めてくれて。
『わぁ、雪だよ!』
いつでも、明るかったよね。
「……」
彼女の隣に座る。
思い出を蘇らせるのはもう、やめよう。
弱い僕では駄目なんだ。
前を見なくてはいけない。
だから、これで最後ーー。
「うわぁああぁぁあああ!!!」
雪はもうすぐ、止みそうだった。
ーー2つ目の記憶ーー
あのピアノコンサートがあったのは、19年ほど前のことだ。
両親が未だ生きていた時、連れて行ってもらった。
『嵐然の魔法使いー公野 薫ークリスマス・イブの夜に』
その文字にひどく興奮した自分を覚えている。
魔法使いーーなんて、甘美な響きだろうか。
雪のような白い髪に、歳を重ねながらも衰えを微塵も感じさせない美貌ーー。
そして、その圧倒的な音楽性から、殆ど人外である二つ名を授けられた彼女は、始めの一音のみで、会場を魔法にかけた。
【神秘】という名の、彼女のとっておき。
僕もかかってしまってーー彼女をもっと感じたいと思ってーー音の中に入ろうと、目と耳を目一杯広げた。
そしたら、僕も魔法が使えた。
ーー 一瞬だけ、彼女と目が合った。
とても長く感じられた。
「言葉自体に意味はない」と、聞いたことがある。
その通りだった。
永遠に感じたーーこの一秒の間でーー僕は彼女からの意思を受け取ることができたんだ。
彼女は全てを伝え終えると、少し笑って、またピアノに向かった。
そして、大喝采を巻き起こした。
ーーでも。
彼女が病院に救急搬送されたのは、その後直ぐだった。
トイレを探し、一時的に単独行動をしていた僕は、あの場面に遭遇したのだ。
聞いてしまった。
ーー今までで1番大きい音を。
見てしまった。
ーー今までで1番赫い色を。
けれど、驚いている暇なんてなかった。
彼女は、一人だったのだーー何故かは、今でもわからないが。
『魔法使いさん』と、自分が知っている名前を呼び、駆け寄った。
彼女は、胸の辺りからあり得ない程の量の血を出しながら、僕を見て。
『あぁ……貴方で、良かったーー』
そう、呟いた。
僕はその言葉に返さず、側に落ちていた携帯を拾い上げて、母親から教わった唯一の番号【119】に掛けた。
もう、混乱だとか、恐怖だとかーー全部吹っ飛んで、【彼女を助けなければ】という思いだけが残っていた。
だから、泣くしかなかった。
悲しいわけじゃないのだ。
僕はまだ子供で、沢山の思いが溢れてきてしまうのだ。
大丈夫ですか、とか、もう少しですよ、とか。
何か声をかけられたら良かったのに。
ーーそして、銃声に気付いた人々が叫ぶのと、サイレンの音が聞こえてくるのは、殆ど同時だった。
♢♢♢♢♢♢
僕はそのまま病院へと向かった。
無理を言ったのだ。
流星のように流れる外の景色と、雷鳴のように轟くサイレンの中で、僕は彼女を見つめ続けた。
病院は幸いにも近かった。
最高速で十分も移動して到着、そのまま緊急手術室へと運ばれた。
僕は最後の最後まで一緒に居たくて、運ばれる彼女の横でひたすらに走っていた。
真横から聞こえる、震えた吐息。
燭台に灯った蠟燭のように、今にも消えそうな生命の息吹。
その中で、僕はーー本当に小さな音を見つけた。
魔法使いの、他でもない僕に向けた言葉。
『貴方...なら、繋ぐことができそう......
どこの誰かもわからないけれどーー頼む、よ』
彼女が部屋に入り、扉が勢いよく閉まる。
そして、赤いランプに浮かんだ『手術中』の文字。
僕は部屋の前で、その言葉を反芻し続けていた。
『頼むよ」、という言葉。
魔法使いは、遺言になるかもしれないその言葉を、見ず知らずの僕に託した。
「お母さん!」
不意に、背後からの大きな言葉。
振り返ると、そこにはーー錫色の長い髪を靡かせ、整った顔を哀しみに彩ったーー一人の少女がいた。
「お母さん......なんで」
大粒の雫で頬を濡らしながら、少女はひたすらにその名を叫んでいた。
ーー恐らく、娘なのだろう。
僕は、そんな彼女に言った。
「......大丈夫?」
「え......?」
「泣いてる、ようだったから」
「だって、お母さんが」
「心配しないでーー魔法使い、だもん」
「魔法使い......」
「うん。
だから、何があっても、きっと大丈夫だよ」
♢♢♢♢♢♢
病室は『205』だった。
『大丈夫だよ』と、無責任な言葉を言った僕の前には。
「え......」
ーー殆ど冷たくなった、彼女の姿があった。
彼女の命の灯はもう、消えかかっていて。
僕の横の少女はーー慟哭、その言葉を現した姿をしていた。
嵐のように泣き叫び、言葉にならない思いで、空気を震わせていた。
僕は呆然としていた。
現実を信じたくなかった。
彼女の白い肌。
羅紗を編んだような髪。
それを、じっと見つめていた。
そして、空気が青白く染まろうとした時ーー。
「...」
彼女がーー僕の手を、握った。
「......!」
僕は驚いたけれど、その手には、彼女の最後の意思が宿ってるーーそう思って、心を鎮めた。
「お願い......私の、音...繋いで、ね」
「うん......!」
手に込められた力が消える。
微かに開いた口が閉じられる。
12月24日。
ーー僕は、魔法使いを看取った。
♢♢♢♢♢♢
あれから十九年が経ってーー。
僕等は、大人になった。
心に描く未来図が姿を変えるように、多くのことが変わった。
いじめっ子格好の低かった背も、大きくなって。
青々しい考えができなくなって。
愛すべき人に出逢って。
ーーそして、ピアノを、皆の前で弾くようになった。
二度も欠けてしまった、僕の心も。
記憶から消えてしまった季節も。
それは、夜空の月が、再生するように。
或いは、大地の老樹から、命が芽吹くように。
時間という土で、埋められていった。
けれど、あの思い出たちはーー。
僕を変わらず、支え続けてくれる。
ーー嗚咽が漏れる。
涙が止まらない。
でも、逃げない。
『僕は一人じゃ、ないのだから』。
ーーさぁ、行こう、「魔法使いの弟子」よ。
『音を、繋いでいこう』。
或る光 Tommy @20061018
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