三人の活躍

 写真家は、彼らの士気の低下を敏感に感じ取った。

「ちょっと二人共、なに落ち込んでるのさ!これはただ、私の得意分野だったってだけだよ」

「いえ、にしてもさっきまでボクらがこの部屋で費やした時間は無駄でした……もっと早く写真家さんを頼れば良かった」

「いや。違うね!私がこのベッドに注目出来たのは、二人が部屋をいくら探しても糸が出てこないって教えてくれたからだよ。遺体は調べても、遺体を置いた場所は調べてないんじゃ無いかって思えたんだ。だから二人の時間は無駄じゃなかった。いいね!」

「写真家さん優しいっすねぇ……警部だったらきっと、馬鹿の一言で終わりっすよ」

「優しいとかじゃなくて、本当のコト言ってるだけだよ。それに私はそんな言葉遣い悪くないもん。さぁ二人の本領発揮はここからでしょ。早くこの滅茶苦茶に長い糸の使い道を考えてよ!私、記憶力は良くても難しいこと考えるのは苦手なんだからさ」

「うん、ありがとう……切り替えて頑張るよ」

「頼りにしてるからね。私は俳優さんの遺体に証拠が残されてないか、もっと隅々までよく観察してみる。新米警官さん、構わないよね?」

「はい。お願いするっす。好きにしろって言われてるし、こっちに来るのを警部が止めなかったって事は写真家さんも自由に調べて良いと受け取って大丈夫っすよ」

「じゃあ新しく何か見つけたら報告するから、糸の方はよろしくね」

「了解っす」


 ベッドの上の糸を詳しく調べた結果、大量に見えたそれは複数本の糸を一本に繋げたもので、片方の先端が五〇〇円玉大の輪に結ばれていることが分かった。長さを確認する為に糸を引っ張り、手繰り出していくと糸は際限なく伸び、絡まない様に部屋の中を動き回る必要があった。結果、糸の全長はリビングを軽く十回は往復出来る程であった。部屋の間取りは四・五平米であるため大体五〇米に及ぶことになる。新米警官が首を捻った。

「この糸は俳優さんを縛るのに使われた筈っすよね。それにしては余りにも長過ぎないっすか?」

「ですね。これを全部使って俳優さんを縛ったとしたら、それはもうがんじがらめに……解く事すら困難になるでしょう。右腕にしか痣の残らない縛り方も見当がつきませんが、糸の一部が俳優さんに接するよう使用されたとして、次は皮膚が引っ張られていた事が謎です。糸が体に接した状態で動いていた事は間違いないでしょうが、その移動の末に、この長さの糸が全部シーツの下に隠れるだなんて挙動は全く見当もつきません」

「自分にもさっぱり……想像しようとしたらどうしても、この部屋の中を巨大な糸が勝手に、自らの意思を持って動いてる気持ち悪いイメージしか浮かばないっす」

「本当に、あり得ないとは分かっていてもそうとしか思えないくらいに奇妙ですよね。布団に巻き取り装置が内蔵されているわけでもないし……」

「うーん……糸……紐……あっ!蛇を使って毒殺とか、有名なトリックにあるっすよね!」

「な、なるほど!実はこの屋敷には巨大な蛇が棲んでいて、俳優さんを引っ張り上げてから、通気孔を使って脱出したとか?最大級の蛇ともなると重量は一〇〇キロを超えるらしいですから、俳優さんを持ち上げる錘としても十分に役目が果たせますね」

 二人にはまだシーツを捲った瞬間の禍々しい衝撃が残っており、どうしても意識がオカルト染みた奇怪な方向に引っ張られているらしかった。黙々と遺体を調べていた写真家が、耐えかねて声を掛ける。

「ちょっと二人ともしっかりしてよ、そんな非現実的な推理、さっきまで全然してなかったじゃん!もっと真面目に、論理的に分析してよね」

 喝を入れられ、狼狽えながら慌てて弁解する。

「ごめん、ふざけてた訳じゃないんだけど取り敢えず何か突破口を見つける為に案を捻り出さなきゃと思って……」

「自分が蛇とか言い出したからっす、申し訳ない……けど通気孔を使うって発想は悪くないと思うっすよ?例えば部屋同士の通気孔が繋がっていれば、別の部屋からこの部屋へ催眠ガスを流したりも出来るじゃないすか」

「ガスはちょっと大掛かり過ぎませんか?確かに俳優さんを気絶させる方法の一つとして、考えられなくはないですが」

 下手に突飛な意見を出したらまた怒られるのではないかとビビりながら返すと、写真家からは具体的な情報が飛んできた。

「通気孔は隣室同士で繋がってる筈だよ。私が部屋決める時、本当は屋敷の裏手で窓から緑が沢山見える一〇一号室にしたかったんだけど、料理家さんから通気孔を渡ってくる他人の生活臭が苦手だから隣室は空けておいて欲しいって言われて、仕方なく一〇二号室に決めたんだよね。配管の構造としては二部屋ずつ隣とT字で繋がってる形かな?大廊下から見える通気孔の数は向かい合って一個ずつ、屋敷全体で四個だからね」

「この部屋の隣室ってモデルさんの部屋っすよね。まさか……」

「いや、無いですね。状況証拠で考えるといちいちモデルさんが疑わしくなりますが、そもそも彼女には動機がありませんよ」

「それなんだけどさ、実は警部さんがモデルさんのこと疑ってるんだ。本当は過去の舞台に不満があったんじゃないかって」

「警部が?」

「うん。モデルさんが台本を取りに行ってる間に、円卓に居た私達にその事を教えてくれたんだよ」

「じゃあ、本当に彼女が黒幕ってことっすか!」

「私もどうかなって思ってたんだけど……通気孔を使えるのも彼女だけだし」

「うーん」

「どうしたの?」

「いや……ボクはそれ、ブラフだと思いますよ」

「どういう意味?」

「警部さんは、モデルさん以外の三人に彼女を疑ってると話したんですよね。その行動はきっと、さっきボクが取った行動と同じ原理です。恐らく警部さんが疑っている人物はボクが疑っている人物と同じ……」

「えぇっ?マジっすか!」

「そんな……目星がついてるなら、どうしてさっさと指摘しないの?相手は二人も殺した殺人鬼だよ、泳がす必要なんてないじゃん!」

「恐らく警部さんはボクと違うアプローチで黒幕を暴こうとしてるんじゃないかと思います。顔見知りだし、自白させようとしてるのかも……警察が到着したら手遅れだから多分、黒幕も焦ってるはずです。この部屋で行われたトリックの推理を終わらせて、早くボク達も合流しないと……」

 話を続けようとして、さっき驚いた声を出した新米警官の顔が青褪めているのに気付いた。目がキョロキョロと動いて呼吸が乱れている。なにやら混乱している様である。

「どうしたんですか?具合でも悪くなりましたか」

「いや、あの……ちょっと待って欲しいっす。もう犯人が分かってるんすか?自分、話に全くついて行けてないんすよ。捜査に協力できてないっす。それどころか邪魔ばかりしてる気がして……」

「とんでもない!そもそも事件が複雑化して黒幕が目的の達成に手間取っているのは、新米警官さんが俳優さんの書き置きを見つけてその存在を暴いてくれたからですよ」

 ボクがそう元気付けると、彼の目の動きが徐々に落ち着きを取り戻す。

「あれってそんな重要だったんすか?でも配達員さん、さっき言ってたじゃないっすか。気が動転した俳優さんが妄想で書いただけかも知れないって。大手柄と思ってた自分の行動が状況をイタズラに掻き回しただけだと思ったら居た堪れなくて、どうにか巻き返そうと焦ったら見落としが増えて写真家さんにも手間掛けさせて。自分が情け無いっす」

「重要どころか、アレがなければどうなっていた事か……確かに、ボクはさっき円卓で書き置きの内容に関して煙に巻く様な話をしましたけど、あれは黒幕に向けたブラフなので忘れて下さい。恐らく本来の計画では、今日の出来事は二人のリハーサルによって起きた事故として一旦は話し合いが進んで、議論の焦点は過去の話に絞られる筈だったんですよ。それがあの書き置きが見つかった為に、まず黒幕の存在……脚本家さんの台本に則って事件を起こした第三者がいるかどうかを議論する必要が生じてしまった。その時点で計画は大きく狂ってるんです。だから今モデルさんが生きているのも、犯人がいる前提で事件の捜査を進められているのも新米警官さんのお陰なんですよ」

「じゃあ自分の行動は、ちゃんと黒幕の犯行を妨害できてたってことっすか……あぁ良かった!完全に自信喪失するとこでした。ありがとうございます、もう立ち直ったっす」

 新米警官は本当に安堵した様子で胸を撫で下ろす。ボクが黒幕を意識して話したブラフの所為で、あの時から彼には余計なプレッシャーが掛かっていたようだ。

「もっと早く、ちゃんとあの話の意図を説明していれば良かったですね。申し訳なかったです」

「いやいや、自分が鈍いのが悪いんすよ。まだ自分は黒幕の目星すらついてないっすからね。確かにあの場に黒幕が居るなら、刺激しないように立ち回るのが当然っすよ」

 唐突なパニックだったが、どうやら普段の調子を取り戻したようだ。遠巻きに見守っていた写真家が、こちらの様子を窺いながらおずおずと声を掛ける。

「大丈夫そう?遺体を観察してて気付いたことがあるんだけど報告して良いかな」

「お騒がせしたっす。お願いします」

「俳優さんの口元に乾いた涎の跡があるんだけど、首吊りの時に垂れたとしたら向きがおかしいの。口の端から横向きでほっぺの方に垂れてるんだよ」

「普通に寝てる時に垂れる方向ですね」

「だよね!だから気絶させられてたとしたら、直前まで横に寝かされてたんじゃないかって思うんだけど」

「そうなると、ベッドから首吊りの状態まで移行させたって事になりますね。でもこの部屋で人力以外で俳優さんを引っ張り上げるのは不可能だし……ロープの位置まで体を持っていけたとして、その位置を長時間維持する方法なんてあるのかな」

「高度を維持して横に……つまり空中で寝てたってことだよね。ハンモックみたいに」

「あぁっ!」

 写真家の発言に、またもや新米警官が驚いた声を出す。そして部屋の天井を見上げながら、なにやら手帳にペンを走らせた。堪らず尋ねる。

「あの……今度はどうしたんですか?」

「そうっすよ、ハンモックですよ!犯人はハンモックを使ったんす!」

「えっ。ごめん私、例えばの思い付きで言っただけだよ?この部屋にハンモックなんて見当たらないし……」

「このベッドの糸がその残骸なんすよ!部屋の天井に鉄柱が渡してありますよね、この糸を担架みたいに組んで鉄柱の間に渡したんですよ。そうする事で疑似的なハンモックを作り出したんす。糸は緩ませておいてこのベッドのシーツの下に通して、まず気絶させた俳優さんをベッドに寝転がらせたんです。その後、シーツの両端を片側の鉄柱から引っ張るんす。そうすると滑車の要領で俳優さんが引き揚がる。その間に、弛んでる糸を巻き直して骨組みを用意してからシーツを展開して簡易的なハンモックを作り上げた……」

「ちょっと待ってよ。確かにこんな大量の糸と大きな布があれば、巨大なハンモックを作れるかもしれない。けどさ、そこからどうやって首吊りにするの?解体にも凄い手間が掛かるんじゃない?」

「解体する必要は無いんすよ、この糸は手品用のナイロン製っす。かなり滑りが良い、こういう感じで結ばずに、重ね合わせて仮留めの状態にしておけば……」

 説明しながら、新米警官は糸を手に取ると、椅子に乗って鉄柱に巻き付ける。コイルの様にぐるぐると巻いてから、今度は上下に交差させるように逆巻きして、短く残った方の端を下へと垂らした。軽く巻いただけなので、糸は全体的に弛んでいる。

「配達員さん、こっちの長い方から、あの垂れ下がった糸が巻き取れるまで思いっ切り引っ張ってみて下さい」

「思いっ切りですか?」

「そうっす、出来るだけ素早く」

「分かりました。やってみます」

 ボクは滑らないように糸を手にくるくると絡ませ、ぐいと引っ張ってみる。

「あれっ?」

 新米警官が簡単に巻いて弛んでいた糸は同じく簡単に巻き取れるかと思いきや、ピンと張り詰めた。軽く巻き付けただけのはずの糸が、まるでしっかり結ばれているかのように動かない。もう一度体重を込めて引き直すが、鉄柱を介して垂れ下がった糸の先端は、掛けた力に反してゆっくりとしか巻き取られていかなかった。

「そのまま。もう少しっす」

 指示通り力を込め続けると暫くして、徐々に抵抗が減っていく感触があった。そうしてスルスルと動き始めたかと思えば、途端に糸はその速度を早めた。

「わわっ!」

 さっきまでの抵抗が嘘のようにすんなりと糸は鉄柱から解け、ボクは勢い余ってバランスを崩す。写真家が驚きながらも手助けしてくれたお陰で、格好悪く転ぶのは免れた。

 ボクの体を支えながら、写真家が不思議そうに尋ねる。

「これって一体、どういう事?」

「単純っすよ。糸を上下に交差する形で巻き付けて、配達員さんには上に重なってる方の糸を引いてもらったんす。下の糸は、巻き取られる時に上の糸に掛かった負荷の分、締め付けが増すんで力を込めれば込めるほど抵抗が強くなっていくんすよ。逆に軽く引っ張れば簡単に巻き取れちゃうんすけどね」

「勢いの分だけ抵抗が増す……シートベルトみたいな感じですか」

「シートベルトはギア使ってるんで原理は全然違うっすけど、イメージ的にはそうっすね。さっき見た通り、この仕組みは終盤一気に抵抗がなくなって解けるんですが、負荷を掛ける部分に巻き付けた糸の長さだけ、解けるまでの時間は長くなるっす。つまり糸を引っ張る力が一定ならその時間を調整出来るって事っす。恐らく黒幕は俳優さんを無力化した後、この巻き付け方を流用したハンモックを作って俳優さんをそこに寝かせることで錘として利用し、体重分の負荷で時間通りに糸が解けるようにしたんだと思うっす。ハンモックの高さなら、寝転んだ俳優さんの首にロープを掛けておいても弛んだ状態のまま待機させられるっす」

「じゃあ椅子が倒れたのはどうして?」

「椅子をロープの真下に設置してたんだと思うっす。糸が解けたら、俳優さんの身体は首に掛かったロープだけに支えられて空中へと投げ出される事になるんすけど、仮に身体の投げ出される軌道に椅子が置かれていたとすれば、ちょうど背持たれを蹴飛ばすことになるっす。椅子は自然に倒れて首吊りで蹴飛ばした状況と見分けが付かなくなったんすよ」

「なるほど、自殺の偽装か……」

「恐ろしい事に、きっとこの椅子が使われた理由はそれだけじゃないんす。投げ出される俳優さんの移動を見積もると、かなりスイングされて壁の方まで到達するはずなんすよ。その状態の揺れ幅も結構大きくて、勢い良く漕いだブランコくらいには振れ幅が残るっす。慣性モーメントって言うんすけど……でも突入した時、吊られた俳優さんは比較的静かに揺れてたじゃないっすか、辻褄が合わないっすよね。きっと黒幕は、吊られた身体が大きく揺れた状態で見つかるのは不自然だと気付いたんす。この椅子はかなりの重量っすから、蹴飛ばすことで慣性の勢いが相殺されて揺れ幅を減らす目的があったんだと思うっす。背もたれの革張りもぶつかる身体にアザを作らない為のクッションとして機能したと考えると、余りに計算高いというか……完璧な計画っすね」

「そっか。足の方に打撲痕とか残ってないのはおかしいなって思ったけど、そういうところまでケアされてたんだね……だとしたら、あんな目立つ右腕のアザが残ってるのは何かのミス?」

「これは自分のシミュレーションなんすけど、シーツが最後まで俳優さんと糸の間に挟まれるのは腰の辺りまでで、そこから上の部分は直接糸が肌に当たる箇所が生まれるんすよね。シーツを固定出来ない都合上、途中で下にずり落ちるんすよ。そこに関しては切り捨てるしかなかったんじゃないっすかね」

「ハンモックを使えば首吊りの状況まで再現出来ることは分かりました。しかし糸の張り方だけで、糸とシーツを的確にベッドの上へ落とすのは可能なんでしょうか?」

「問題はそれなんすよ……それに関してだけは、どう考えても運頼みにしか思えないんすよね。シーツが覆い被さるのは自由落下になるはずなんで、計算通りってのは難しいというか、不可能なんすよ。一応、糸の巡らせ方によってある程度は挙動を操作できそうっすけど……」

 新米警官は首を捻る。その説明を聞くと同時に、ボクの中を謎の不安が駆け巡った。


 一〇五号室での凶行。ただの偽装に思えた椅子を倒させる行為一つを取っても、常人ではありえない程に深く、狡猾な思考が張り巡らされている。

 一方でシーツの動きや糸の隠し方は比較的杜撰で、その過程も偶発的なものに頼っているようだ。糸は見つかる前提だから適当で良い、という判断だろうか?これだけ手の掛かる事をやっておいて、最後の始末だけを運に任せるというのは脚本家の件にも共通している様に思えた。脚本家は病院で息を引き取った。つまり確実に息の根を止めようとする意思は無かったと言える。単なる効率的な取捨選択の結果かも知れないが、その相反する二つの事象が犯人像を揺るがせた。

 完璧主義に見えて適当主義、恣意的に見えて論理的、猟奇性を感じずにはいられないが理性に満ちている……人に二面性があるのは当然だ。しかしこうも極端にその特性が浮かび上がるのはどういう訳なのだろうか?事前に立てられていた計画が俳優の遺した書き置きによって歪んでから、黒幕は台本に無い役割を現在進行形でアドリブでこなしている。その事実もまた相反しているように思えた。それぞれのパートを別の人間が担当していると考えた方がまだ納得出来るだろう。或いは黒幕は、その全ての要素を思考し尽くし得るとんでもない頭脳の持ち主だとでもいうのか……

 ボクが黒幕だと目星をつけた人物には、疑うべき根拠となる様々な事象が浮かんでいた。しかし、一連の計算高い犯行を計画した人物がそれらを考慮しなかったとは到底思えない。そう考えると、反撃の為に集めていた証拠達が全部、その人を疑って下さいとわざとらしく用意された罠のように思えてくる。黒幕の目の届かぬ場所で積み上げた推理も、未だ誰かの計画の一部として包括されたまま……そんな恐ろしい想像が浮かび、靄の中から抜け出せない。


 ボクが悩んでいる間にも、二人の議論は進んでいた。新米警官はメモ帳を見せながら説明を続けている。

「……つまり、この糸の巡らせ方なら俳優さんの脚を重点的に支える事ができて、尚且つ糸の大半がベッドの上に留まるんす。解ける際には俳優さんの上半身に若干糸が残るっすけど、その糸は俳優さんの体重を支え切れずに解けていく。その解けていく過程の痕跡が右上腕部の痣と考えるのが妥当っすね……ただこの方法にも一つ問題があって、どこか一点はギリギリまで糸が固定されてた筈なんすよ。でなきゃ途中で張力が釣り合わなくなって、シーツが糸を持っていっちゃうんすよね」

「うーん、張力とか言われても難しいなぁ」

「要は俳優さんがハンモックから投げ出された後に、糸の固定が外れないと順番がおかしくなるんすよ。俳優さんに時間通りに首を吊らせる為には頭の高さを維持して、足の方の糸から解けていかないとダメなんすけど、糸が固定されてないとハンモックは全体の負荷を両側から逃がそうとするんで、半分の時間でハンモックが必要高度を下回るっす。そうなると俳優さんはハンモックに寝転がった状態で首が締まって死んじゃうんすよ」

「なるほどねぇ、分かったような分からないような……配達員くん、どう?さっきから黙ってるけど」

「へっ?あぁ……えっと時間差で解放される固定箇所ですよね。糸の片方が輪っかになってましたから、それが引っ掛けられそうな場所を探せばいいのでは?」

「まぁ、突き詰めればそういう事っすね」

「あぁ、それなら分かるよ。簡単じゃん!」

 写真家は意気揚々と糸を手に取る。

「ちょっと、その椅子倒してもらっても良い?」

「あ、了解っす」

 新米警官は丁寧に椅子を横に倒す。慎重な動きから、その椅子がしっかりとした重さである事がわかる。写真家は横向きになった椅子の脚に糸の輪を持っていく。するとその輪は脚部の接地面、丸い形状にぴったりと嵌った。

「椅子が移動するのは、俳優さんが吊られた後だよね?」

「写真家さん凄いっす……この椅子の重さならシーツに釣り合うし、条件を全部満たしてるっすよ!」

「やった!じゃこの問題も解決だね」

「不定形の円周まで記憶してたんですね、流石……」

「いや、それは流石に私にも難しいよ。ただ俳優さんが吊られた後にこの部屋で動いたものを考えたら椅子とドアと小型のコピー機しか思い当たらなかったから、総当たりで試そうとして一発目で当たっちゃった」

「な、なるほど……それにしてもナイスです」

「あとは俳優さんを無力化した方法っすけど、部屋には特に目ぼしい物が無かったっすね」

「そのことなんですが、この部屋に予め睡眠薬が用意されていた可能性は低いんじゃないかと思います。犯人は俳優さんを眠らせる前に大量の原稿を書かせる必要があったわけで、俳優さんが必要な原稿を書き終わる前に何かの拍子で睡眠薬を摂取しちゃって、眠られたら計画が進められなくなりますから」

「じゃあ、原稿を書かせた後に眠らせたんだね。けどそんな都合良いタイミングで睡眠薬だけ使えるかなぁ……俳優さん相手だとドラマみたいにハンカチで無理矢理吸わせるとかは絶対無理だよね」

「あの書き置きを書いている時点で、そのとき訪ねてくる人物の事を黒幕として危険視していた筈っすよ。部屋の中で警戒状態の俳優さんを確実に眠らせる方法……これは本格的に睡眠ガスが使われた可能性あるんじゃないっすかね」

「或いは、ボクらは俳優さんの事件が総てこの部屋の中で完結していると思い込んでいましたが、もしかしたら彼は原稿を書き終わった後に一度、部屋から出ているのかもしれません」

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