理想と現実

「はい、手袋……鑑識の人達になんか言われるとマズイんで」

「有難うございます」

 新米警官が警部の説得を始めてからしばらく……口論の末、どうにか警部を口説き落としてくれた新米警官に連れられて、ボクは一〇六号室へと向かった。

「あれ?」

「どうしたんすか?」

 大廊下に入ってすぐ、ボクは異変に気付く。ゴミ袋として置かれていたピザの袋が無くなっていたのだ。同じ場所にはピザの箱が剥き出しで置かれており、その上にウェットティッシュが……袋の中身をそのまま取り出した状態だ。

「誰かがビニール袋だけ取ったみたいですね。何に使うんだろう?」

「あぁ、確かに袋置いてたっすよね。こっちの大廊下はさっきご飯用意する時に警部とモデルさんが移動した時以外、誰も通ってないはずっすよ」

「けど二人とも戻って来た時に、それらしい物は持ってなかったですよね。なんだろう、気になるなぁ」

「実は屋敷にもう一人潜んでいて、そいつが取っていった……とか」

「まさか、そんな!」

「流石にないと思うっすけどね、見た所この屋敷には屋根裏も見当たらないし、隠れ場所は無さそうっすから。取り敢えずビニール袋の事はメモっときます」

「あぁ、ですよね……ありがとうございます」

 洒落にならない冗談にどぎまぎしながら、一〇六号室へと入った。


「台本に書かれてた仕掛けってもしかしてあれじゃないっすか?」

 部屋に入った新米警官が指差した先は廊下の天井で、ちょうど脚本家が倒れていた辺りの真上である。そこにそれがある、と思って見なければ分からない程の小さいフックが取り付けられていた。

「これがあるって事は、実際にこの部屋で俳優側のトリックが使われたんすかね?」

 台本には事件の全ての過程において、最初に加害者として登場する俳優が提示するトリックと、最後に黒幕として登場する脚本家が提示するトリックの二種類が存在していた。それぞれ微妙な差異はあるものの限り無く似た状況を作り出すトリックであり、最初の密室を作り出す方法に関してもそれぞれ二通り存在している。

 新米警官の言う俳優側のトリックを台本に沿って記述すると以下の内容であった。


『※備考。舞台のセット配置について。上手側に廊下を模した直方体の枠組み。両端にそれぞれ向かい合わせて、客席に対して垂直に設置されたドア(閉じた状態ではドアノブしか見えない)が二枚。舞台奥、下手側のドアに対して直角に設置されたドア(閉じた状態で客席から面が見える)が一枚となる様に配置。一〇六号室のセットでは下手側がリビング、上手側が外廊下となるので捌ける時は絶対に上手側の舞台袖に捌けること。下手はにテーブル一台と椅子が二脚。奥の本棚の上にはトロフィーを忘れず配置。上手側には滑車を降ろしておくこと。以上要確認。

場面一――舞台下手で俳優と脚本家がテーブルを挟んで向かい合って談笑している。暫くすると脚本家、船を漕ぎ始め静かにテーブルに突っ伏す。

 脚本家が睡眠薬入りのウィスキーで眠ったのを確認してから、俳優は黒く光る糸を取り出して引っ越し作業でもするかの如く廊下内の様々な長さを測り始める。(ここで舞台下手から上手に掛けて移動)ドアを開け、廊下の枠組みの中へ。暫くして測り終えたら、リビングから椅子を持って来る。椅子の上に乗り滑車へ糸を括り付け、更にリビングのセットからトロフィーを持ってきて上手側のドア上部に括り付ける。

俳優「これで……よし」

 廊下の天井、照明に隠れる位置にフックを取り付ける。そうしてドアに設置したトロフィーに繋いだ糸をフックに引っ掛け、その後、俳優を舞台中央へと引き摺ってくる。トロフィーの動線を何度か確認する。

 満足そうに頷く俳優。両手を開き、観客に対して舞台全体を示す。

俳優「このフックを支点としてドアからトロフィーを振り子の原理で移動させ、廊下に寝かせておいた脚本家の頭にゴルフスイングの要領で直撃させるのだ。台本に書いてあった計算によれば、凶器となるトロフィーの重量が致命傷に至る加速度を得る為には振り子の半径はこの廊下の天井から床ギリギリまでの長さが必要らしいが……なんとか足りた様だ」

 俳優、頭上のトロフィーを大袈裟に避けて、上手側のドアから舞台袖に捌ける。

――舞台暗転。』


 台本では最初の事件現場となる一〇六号室において、振り子の原理を用いた仕掛けを施す過程が存在する。天井のフックはその振り子の支点となるものであり、俳優側のトリックになくてはならないキーポイントであった。

「それはまだ断定出来ませんね。確か脚本家側のトリックも、俳優さんの取り付けたフックを流用する形で使っていたはずです。つまり実際に使われたのがいずれか一方だったとしても取り敢えずフックは設置しなければならない……現状の可能性としては台本に沿ったトリックが両方とも実行されたか、或いは脚本家側の筋書きにだけ当て嵌めたかのどちらかですね」

 脚本家側のトリックとは台本の最後、終幕部に書かれている以下の内容である。


『場面十三――脚本家、包帯で巻いた頭を抑えてよろけながら舞台に登場。中央でライトアップされてからゆっくりと語り出す。

脚本家「ご観覧の皆様、初めまして……いや、最初に登場しているからこの挨拶は不適切かな?俳優の真に迫ったショーは如何だったでしょうか、彼は報いを受けて死んでしまいましたが。あぁ、安心して下さい。幽霊では御座いません。彼が見た幻影は自責の念によるもの。当方はしっかりと病院で治療を受けた健康体でございます、ええ。皆様は今回の舞台が、俳優が脚本家を殺す話だとお思いになったでしょう。しかし違うのです。真相は逆で御座います。この話は脚本家が俳優を殺すお話なのです。皆様の中には、お前は奇跡的に助かって俳優も勝手に自殺しただけだろう?なんて考える方がいらっしゃるかも知れませんので、こうして自分の作品を自ら解説に来たと、そういう訳でございます。さて、まず俳優が当方の渡した脚本の通りに、全ての計画を進めてくれたのには感謝すべきでしょう。と言いますのも、はじめに彼に読ませた脚本の中で、凶器に関連する一連の情報は総て数値を改竄してあったのです。実際のトロフィーの重量は書かれていた数値より幾分か軽く、空気抵抗や糸の弛みによって計算通りの加速度が得られない事は解っていました。つまり例の振り子を用いた殺人トリックでは、物理学的に、どう逆立ちしたところで誰も人は殺せなかったのです。万が一、俳優がトロフィーの重さを計って正しく計算した場合は、どうしても加速度が足りないと分かったでしょうから、そもそも彼はこの計画を実行には移さなかったでしょうが……彼は当方の書く脚本が、常に極限のリアリティーを追求している事を信じて疑いませんでした。実際今までそうしてきたのです。唯一、今回の脚本を除いてね」

 脚本家、満足気な表情で舞台中央の扉を開ける。扉の奥では洗濯機が回っている。

脚本家「俳優が精神を病んだのにも理由があります。彼は自分が部屋に篭って過ごしている時間が事件発生から捜査の間だけだと思い込んでいましたが、本当はもっとずっと長かったのです。当方は予め、俳優の自室に睡眠薬を用意していました。彼には日に一回飲まなければならない精神安定剤があったので、それをすり替えておいたのです。つまり彼が殺人を犯してから自身を部屋に閉じ込めた後、その精神安定剤を飲む際に確実に睡眠薬を飲み、長い時間……大体半日くらいは昏睡状態であることが計算されていました。当方は彼の仕込んだ睡眠薬入りのウィスキーを飲まずに寝たふりをして、彼が部屋に戻ってから直ぐにコチラの仕掛けを用意し始めたのです。彼が自室で糸を引いてトロフィーが落とされてから、きっかり十二時間後に合わせてこの洗濯機のタイマーをセットし、一〇五号室と一〇六号室のドアを通る糸を繋いでおきました。それから自然に次の日を過ごして、時間に合わせて廊下に寝転がり、トロフィーの打撃を受けて、半日ズラして事件を発覚させたという訳なのです。つまり彼はこの事件発覚からずっと、安定剤の抜けた状態で人殺しの罪悪感とたった一人で対峙する事になった。部屋の閉塞感も相まって彼の精神は蝕まれていったのです。医者から欠かさずに、忘れず飲む様に言われていた薬を、ついさっき飲んだものと思い込んで……」

 脚本家、ここで頭を押さえて呻く。

脚本家「……失礼。流石にまだ痛みましてな。この計画がありながら、どうして怪我を負って死の瀬戸際を彷徨ったのかとお思いですか?これは個人的なこだわりですがね、建前としては彼を自殺に追い込むのに必要だと考えたからです。また被害者として発見される際に、不自然にならぬよう一度、頭部に打撃を受けておく必要があったのですよ。ですから俳優がしたのと同じ様にトロフィーをセッティングしました。洗濯機に巻き込まれていく糸は、一〇六号室のドアの下から大廊下を挟んで一〇五号室のドアを上から下へ通り、大廊下の空中を通って一〇六号室のドア上部のトロフィーに繋いでおいて、そうして時間が来れば、トロフィーは俳優の計画と同じく振り子の要領で振り下ろされ、糸は一度、俳優がやった様に一〇五号室へと回収されていきます。実際には大廊下の絨毯に紛れてまた迅速に一〇六号室へと引き返し最終的には洗濯機に収納されますが……ま、とにかく俳優の計画と出来るだけ同じ状況になるよう再現をした訳です。怪我のリスクは伴いましたが、お陰で部屋の外の発見者たちが真剣に騒いでくれ、俳優を焦らせ自責の念をより加速させたという意味で相応の成果を上げたと言えるでしょう。さて……」』


 脚本家の台詞はまだ続くが、事件に関しての記述はここまでなので割愛する。

とにかく脚本家側のトリックでは、事件の発覚する時間を調整する為に洗濯機のタイマーが用いられた。洗濯機の稼働と共に底の回転部分に巻き付けた糸が巻き取られていき、指定された時間にトロフィーが落下するらしい。

「台本の通りだと最初の密室……一〇六号室の洗濯機の中に、トロフィーに巻き付いてるものと同じ糸があるんすよね」

「事件当時、確かに洗濯機は稼働してました。調べてみましょう」

 廊下からサニタリールームへ入り洗濯機を覗いてみると、発見当時のままであった。一度、脱水機能を使って水を抜いてから中の衣類をカゴに移動させ、衣類に糸が紛れていないかチェックする。新米警官はスマホのライトで洗濯機の中を照らしながら内部を探った。

「あ!本当にあったっす!」

 そう叫びながら彼が取り出したのは綺麗に丸まった糸の束であった。幸運にも、糸は洗濯機の中で絡まる事なく丁寧に巻き取られており、回収は容易だったようだ。トロフィーに巻き付けられているものと同じ、光沢のある黒い糸である。

「どうやら脚本家側のトリックはちゃんと使われていたみたいですね……」

 小さく丸まった糸を解いていくと、するすると伸びていった。どうやら廊下を往復させるのには十分な長さである。

「この長さなら一応、台本通りの使い方は出来そうですね」

「洗濯機を使った時間差トリックなんて、本格的に推理小説みたいっすねぇ」

 新米警官は楽しそうに言った。

「脚本家さんがミステリーの舞台として練った案ですもんね。けどそれを黒幕に流用されて殺されてしまうなんて……」

「台本にも死の瀬戸際を彷徨うって書いてありましたから、かなり危険な試みだったみたいっすね」

「黒幕がどこまで計画に含んでいたのか気になるところです。俳優さんの書き置きによれば三人殺すのが目的って話でしたが、今のところ先のお二人に関しての殺害は確実性に欠けていて、未だモデルさんには一切の干渉が無い……」

「確かにそうっすね。自分の手柄を主張してるみたいで恐縮っすけど、さっきの話し合いでも言われてた通りあの書き置きは唯一、俳優さんが黒幕から隠して遺してくれた物っすから、黒幕の計画外の物だって可能性が高い筈っす。黒幕がその予想外のアクシデントによって本来予定していたモデルさんへの計画を実行出来ずにいるって説をやっぱり自分は支持したいっすね」

「俳優さんの書き置きが抑止力になってることは十分有り得ますよ。ボクとしては、あのメンバーの中に犯人が居るとは信じたくなくて、あの場では敢えて幾つか可能性を挙げましたが……それはそうと、あと一時間半で警察の応援が到着します。一先ず、この時間差トリックが実際に機能するか試してみましょう」


 そうなのだ。警察が到着すれば、ボクらがこんな事をしなくても事件は解決する。この屋敷の出来事は、当事者にとっては切迫したものには違いなかった。然しそれもあと二時間足らずで終わりだ。警察の捜査班による最新技術を駆使した現場検証や、徹底的な情報捜査によって、謎多き事件や黒幕の正体などはあっという間に解き明かされるだろう……

逆に言えば警察が到着するまでは、ボクらは事件の解決に携わる事ができる。その期限を過ぎれば、この謎はボクらの手からすり抜けてしまうのだ。もう二度と、自らの手で解決する事は出来ない。それは最早、迷宮入りに等しい。


 二人がかりで急いで糸を配置する。洗濯機から一〇五号室のドアを経由させ、また一〇六号室まで往復するように掛けていく。更に台本に記された指示に従い、本体に巻き付いた糸を使ってトロフィーを天井のフックに引っ掛け、振り子の動作をするように慎重にドア上部へと設置して、更に洗濯機から伸びた糸に接続した。

一度仕掛けを施すと、一〇六号室のドアを開く事は出来なくなる。二人はそれぞれ扉を隔てて分かれて作業し、新米警官は部屋の中でトロフィーの挙動を、ボクは大廊下で待機して糸の動きをそれぞれ確認する事にした。

「じゃあ洗濯機回してみるっす」

「お願いします」

 ドアの向こうから聞こえる声に返事をして、数十秒後。頭上に張った糸がゆっくり張り詰めたかと思うと、一〇六号室のドア上部からスルリと抜け、垂れたまま勢い無く大廊下を横切った。まるでターザンの蔓の様に弧を描いて移動したので、待機していたボクの顔に危うく当たるところである。そのまま糸を観察していると、一〇五号室のドアの中ほどをゆっくりと、洗濯機の回転に連動した一定のリズムで上っていった。

「どうっすか?こっちのトロフィーの動きは問題無かったっす」

「うーん、こっちは失敗かも知れません。もっと糸を張ればいいのかな?」

 ドアを開いて新米警官が出てくる。

「どんな感じっすか?」

「なんか勢いが足りなくて……」

「伸縮性の問題っすかね」

 新米警官は改めて糸を張り直す。今度はドア上部のみで動きを観察することにした。

「トロフィーの位置から手を離すんで、ギリギリまで引っ張ってもらっていいっすか?」

 彼に言われた通り、一〇五号室のドアを経由した下の部分から糸を思いっきり引っ張る様にする。糸が張り詰めた。

「じゃあ、離すっすよ!」

 ピン、と今度は糸が弾けた様に空中を飛んだ。勢いはあったがそれでもボクの頭を掠める。あの時はヘルメットを被っていたから気付かなかったのかもしれない。糸は同じく一〇五号室のドア上部に引き込まれていく。少し尻尾を出す様に垂れて残ったが、さっきよりは短い。この程度なら先程の洗濯機の回収速度で直ぐに部屋の中に隠れるだろう。

「どうだったっすか?」

「成功しました。やはり糸の伸縮性の問題だったみたいですね」

「洗濯機に巻き付けたとき、糸は目分量で括り付けて回したっすからね。本来はもっとピンピンにしておくべきだったんすかね」

「まぁ、さっきのでも少しドアの外に残ってましたから、完璧では無かったですが……トロフィーの挙動は問題無いみたいですし、取り敢えずの再現性はあったってことで。協力して下さってありがとうございます」

「いやいや、とんでもないっす!ところで一〇五号室の現場検証もしたくないっすか?」

「え、それって……勿論やりたいですが、大丈夫なんですか?」

「警部は勝手にしろって言ってくれたっす。実は自分、俳優さんは自殺じゃないと思ってるんすよ。警察が到着すれば何もかも分かるっすけど、自分が他殺を疑う根拠と、一〇五号室の密室に関しての検証もしたいんす。下っ端の自分が、自由に捜査出来るのもあと少しっす。探偵役として、一緒にどうっすか」

 探偵役……その言葉の響きに、酔い痴れなかったと言えば嘘になる。実際に人が死んだ部屋、事件の核となる真相が眠っているかも知れない部屋に足を踏み入れるのは緊張するが、同時に興奮もしていた。警察の到着まで残り一時間弱。焦って下手な推理をすれば全てが終わる。然し決定的な証拠が掴めれば、黒幕をこの手で突き止められる……彼の言う通り、台本に当てられた探偵役はこのボクだ。返事は決まっていた。

「是非、お願いします」

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