ノロワレテイル

柴又又

第1話


 道の匂いがする――少しだけ湿り、少しだけ冷たくて、少しだけ重い。

 乾いた音――耳の中で轟轟と、まるで優しく両耳を塞がれている。

 夕方を過ぎた夜の前。

 沈みゆく太陽の残り香と落ちてくる雲の陰影がゆらゆらゆらゆら混ざり合い彩り合い惹かれ合う(合っていた)。

 駅前の広場、雑多な人々、噴水の縁(ふち)、コーヒーの缶。

 燈彼(ひかれ)はビルの画面に投影された映像を見つめていた。

 眺めていると表現するには大げさすぎて、適度に反らした視線と伏せた長いまつ毛、漂う湯気が光を濁す。

 中性的な顔立ちと黒く長い濡れ羽のような髪。

 通り過ぎる人達はそんな燈彼に興味を示さず、声をかけようとする男性達は燈彼の顔左半分の包帯を見て思い留まった。

 黒いジャケットにジーンズ。

 日本人形に北欧の血を指先から一滴だけ垂らしてみた。

 そんな雰囲気を燈彼はもっていた。

 いい香り――細めた目つきは優しげに。

 こくりと一口。

 淡い吐息が一口。

 ほんの少しを一口。

 舌の上に広がり(細まる目)こくりと落ちこんでゆく。

 本当は砂糖入りが好き。でもブラックはもっと好き――何かを思い出しそうになり、でもそれは後味のように淡く回り消えてゆく。

 余韻に添えられた女の子。ふわふわで長い白髪、右頬には炎が燃えるような痣、そんな特徴を持つ女の子が、画面の中で笑顔を振りまき楽しそうに歌い踊り添えられていた。それは暗くてひどくて叫びで救い。

『燈彼』

 燈彼は横を見、制服姿の女の子がおまたせと笑みを浮かべる。

『何、見ているの?』

 持っていたスマホ(スマートホン)を操作し、スマホから発せられた音声は燈彼にそう告げた。手の爪はスマホの画面にあたり小気味良い音をさせ、ダークブラウンの髪、テールはわずかに揺れる。

 月島夏乃子(つきしまかのこ)――夏乃子は燈彼の見ていた方を見上げ画面に映る少女をおさめた。ステージ、周りの人々、色とりどりの光、振るわれて彩る。

 音楽と踊りと熱と。すべては彼女一人のために。

『アイドル、ね』

 画面に映るアイドルと脳裏にある自分の姿を比べて、夏乃子は少しだけ目を細めた。

 お洒落な誰かと地味な自分。

『燈彼は、こういうの、好き、なのね』

 画面を遮るように燈彼の眼前に来た夏乃子の表情は、拗ねるようでもねめつけるようでもあった。半眼、少しばかり噛む奥歯、視線は燈彼の瞳を貫かぬばかり。

 燈彼の右の瞳に夏乃子の瞳が反射する。

 不思議そうに見つめ返してくる燈彼の表情に、夏乃子は少しばかり表情を緩めて頬を膨らませた。すねているんだぞ。

「あれ、なぁに?」

 黒い薄手の皮手袋、左手の人差し指を持ち上げ燈彼は画面へと向ける。

 夏乃子は燈彼の右瞳(みぎめ)を見て、肩から腕、指先から振り返り画面へと。

『あぁ、あれ、あれはね、サイリウム』

 予め登録された言葉はいくつだろうか。

 慣れた手つきでスマホを操作し、音声を発しながら夏乃子は燈彼に視線を戻した。

「さいいうむ」

 納得したように燈彼はそう言い夏乃子は次いでスマホの画面を――まだ時間があるのを確認すると燈彼の隣に腰を下ろす。

 短めのスカート、伸びる黒いスパッツ、健康的な足はすらりと、大根と言うよりは太く筋肉質な印象を与えて来る。黒い短めの靴下、靴の履き口より少しだけ顔を覗かせ、何よりも目を引くのは履いている赤い靴。

 この足は夏乃子の自慢の武器でもある。

 それは物理的な意味合いと、ニュアンス的な意味合いの両方を兼ねていた。

『ちょっと、悲しい、な。燈彼は、あぁいう、女の子、好みなの?』

 指先が燈彼の頬を柔らかく押し、離れたり近づいたり。

 頬に触れても嫌がられないのに夏乃子は目を細め、その表情に夏乃子はより目を細める。素直に困らせたいだけ。

 不意に燈彼のジャケットの内ポケットにしまわれていたスマホが震えた。

 震えた、着信があると燈彼はコーヒーの缶を横へ置き、右手をポケットにいれスマホを取り出す。そのまま夏乃子へと差し出すと、夏乃子ははいはいとスマホを受け取り通話ボタンを押した。

 左手に持った燈彼のスマホを耳に当てしばらく――自分のスマホを右手で持ちつつ親指でタップし通話口へと当てる。

『わかりました。これから、向かいます』

 通話を切った夏乃子は立ち上がり期待を込めて燈彼に手を。

 まるでただの反応のように燈彼は手を上げ、夏乃子に引かれて立ち上がる。

 二人が消える人込みの中、縁に置かれた缶の口からは、まだ湯気がゆらゆらと。

 いつか消える炎のようにゆらゆらゆらゆら、ゆらゆらゆらゆら。

 トタトタと燈彼が戻って来て缶を手に取り、ゴクゴクと飲み干して缶を買った自販機に備え付けらえているゴミ箱へと捨てた。

 その様子を見て、夏乃子は嬉しくなる。

 とても良い。また差し出した手。今度は確信がある。

 柔らかく、引かれ、決して離さぬようにと。

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