私の流れ星はまだ終わっちゃいない、よね?


“足首が治るまで練習禁止です”


 夕暮れ時の鎌倉はちょっと不気味。

 怪我をした上に歩いて帰宅の身なので「今日くらい送ってやる」と免許を取ったばかりのバイクキーをクルクル回す凛音ちゃんに誘われたけど、正直、彼女の運転は恐怖をおぼえるので遠慮しておいた。

 まさか潮彩通りのなんでもないとこで足を挫くとは。幸いにも普通に歩けるし、投げようと思えば投げられる。りこせんせに怒られるということはなかったけれど本気で心配してくれて、鎖骨が折れるかもと思ったくらい強く抱きしめられた。だから痛かった。私がやったことは間違いだったんだって。おとなしく謹慎する。ため息しか出ない。これでこの夏目標だった球速3km/hアップは絶望的、情けないし悔しい。なにやってんだろ。一生懸命やれば漫画みたいに強くなった自分と出会えるとでも思ったのかな。でも殻を破りたいと強く思うようになったのは先週の大船商業との練習試合での敗戦からで間違いない。


 大船商業は夏の大会の初戦で対戦した相手。


 夏の大会では真っ直ぐを決め球にするという配球だった。最高球速たった108km/hのいつまで経ってもキャッチャーミットに届かないような下手投げの球速だけど、大船商業打線から面白いくらいに空振りが取れた。だから今回の練習試合でもそういう主旨の投球にしようと。公式戦よりもすごくなった私を見せたかった。

 それは焦りでもあった。試合前のチェックでは球速も球威も回転数も相変わらずの大会前と同じ最低数値に目を疑う。そんなはずはない、18.44mの範囲の中でSKでも解析できない何かしらの変化が起こっている。期待というよりは懇願、変わっていてほしい、ただそれだけの私のわがままが招いた結果だった。


 待っていたのは結果以上の現実だった。


 練習試合後のチャート解析結果欄の『現状維持』という文字に、私はボールさえ握れなくなるほどの無力感に襲われた。13失点した事よりも、重たくて孤独でそれでいて非情な通告だった。たくさん練習しなきゃ。練習量を増やさなきゃ。じゃないと、どんどん男子に先を越される。そんな強迫観念と似たようなものが湧き出てきた。なんで、なんで、なんでっ……!

 その試合後に言われたエリカさんのひと言が忘れられない。


『あなたの投球って色気がないのよ』


 日常的にフェロモンを振りまくエリカさんの言葉だから真意がよくわからなかった。思い当たるとすれば、大河と投球練習が一緒になった時、強く逞しいノビのある直球にすっかり心を奪われ食い入るように見ていることが多い。だとすれば色気とは人を惹きつける投球のことだろうか。大河は嫌なヤツでいつもムカついてばかりだけど、それでも野球を辞めないのは皮肉だけど、あいつの言葉で動かされている私がいるからだ。けど女の子にはかけるべき言葉ってのがあるのよ、あいつにはそれがない。デリカシーがないのあいつは。今日だって――灰かぶりのエース様ですって、あーあまた悪口をいただきましたきっと三年生になって引退する時は語録集ができるくらいの嫌味を言われているのでしょうね!ほんとやなヤツ!あいつは事あるたびにエースだと煽ってくるけど、私は自分のことをエースだと思ったことはない。高校生になって初めてつけた背番号1。よくて五イニングが精一杯で球速の遅い私は、外から見ればあいつのピッチングを活かすための前座。実質の桜翔のエースは大河だ。だけど私が成長して長いイニングを投げられるようになればあいつの負担を減らせるし、チームだって勝てるチームになる……なんだかな、『頑張る』ってタイトルの決して醒めない夢物語の中にいる気分だ。


「ほんと頑張るってなんだろう。私の流れ星はもう、燃え尽きたのかな」とぼやいた直後。

「Excuse me.すみません」と70くらいの外国人の、いかにもジェントルマンなおじいさんに突然話しかけられてめっちゃ驚いた。私を驚かせたことにおじいさんは戸惑っていたけど、後ろにいた奥様らしい素敵なおばあさんが何度も頭を下げていたので私は笑顔を見せた。

「すみません、すこし、みちを、おしえて、ください」

 おじいさんのたどたどしい日本語を聞いてみると、どうやらご夫婦はアメリカから日本旅行の最中で宿泊するホテルがこのあたりにあるそうなのだけど鎌倉の道が複雑で迷ってしまったらしい。そのホテルの人に迎えに来てもらえればいいのになと思いつつも私は尋ねた。

「ワット ホテルズ ネイム?」

 私の壊滅的な英語には一切耳をふさがずに聞いてくれたおじいさんは、「Uh……か、が、や?」と首をかしげて言った。


 私もか、が、や?とオウム返しをして同じように首をかしげた。でもそれはほんのひとときで、「ああ、加賀屋ね!」とすぐに合点した。ちっこい先輩と私がよく行く甘味処のことだ。そっか旅館業が本業だったっけ。私はすぐにスマホを取り出して店に電話をかけた。電話に出た主の第一声は「あんた最近ウチに来ないでなにやってんの、いい加減新作のあんみつ食べに来なさいよ。ちっこいのはもう食べに来たわよ!」だった。


「あと五分で来るそうですよ。プリーズ ウェイト ファイブ ミニッツ」と五本指を広げて伝えるとご夫婦は私の手をぎゅっと握りしめながら感謝を伝えてきた。それから私の両手のひらを物珍しそうにつぶさに観察をして二人して何か英語でほめていたようだけど、残念ながら私ときたら曖昧な笑みを浮かべるばかりで意味がよくわからなかった。ムサシくんがいたら通訳してくれるのにな、もっと英語勉強しなきゃな。


 ――五分後――


「ありがとねマリン。助かったわ」と和装華やぐ着物姿のおばちゃんがトランクに荷物を詰めてからそう言った。

「ううん偶然だってば。それよりあの人たちが無事におばちゃんの所にたどり着けてよかった」

「そうね……ねえマリン、あのお客様たち甲子園を観にアメリカから来たそうよ」

「甲子園…?」

「なぜ日本では高校野球が盛んなのか確かめに来たんですって。鎌倉は奥様の要望らしいけど」

「高校野球をか…そっか」


 おばちゃんに言われて思い出した。甲子園といえば明日開幕だ。深紅の大優勝旗にくるまれたいと大会前は息巻いていたけど、いざ負けてそれが無縁のものになると急に他人事みたいに関心がなくなる。どこの高校が優勝だとかコマちゃんが予想していたけど私は興味なし、だいたい高校野球なんて日本のものだけかと思っていた。それを遠路はるばるそれもアメリカから。


「ん?」


 車内の後部座席から私のことを優しげな眼差しを向けているご夫婦に気づいた。私は会釈をすると、二人は深々と頭を下げた。なんてことのない普通のこと。なんてことのない当然のことをしただけなのに、どこか、なぜか、野球をやっていて良かったなって思ってしまった。


 老夫婦を見送った後のふと見上げた茜色の空の向こうへ私は語りかける。


「私の流れ星はまだ終わっちゃいない、よね?」


 そんなことを聞いたって足首が少々痛むだけで誰も答えてなんかくれない。でも江ノ電に乗らなくてよかった。そこにぐうと鳴る腹の虫、悲しくても怒っていても優しい気持ちになっても生きているからお腹がすく。あの曲がりくねった坂を上れば我が家だ。さっきお母さんからLINEで今日の晩ごはんはバターチキンカレーと来た。


 早く帰ろう、今夜はカレー三杯はおかわりしてやるんだから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る