店長の恋

あべせい

店長の恋



「なにがいい?」

「あなた、決めてよ」

「ここは、箱根の老舗ホテルのレストランが出している駅ビル店だから、何でもおいしいはずだよ」

「そうなの? じゃ、わたし、この海鮮パスタにする」

「ぼくは、和牛ハンバーグだな」

 若いカップルの注文メニューが決まり、男のほうが振り返る。と、髪を七三にきっちり分け、黒いベストに白いYシャツ、黒いズボンでビシッと決めた男と、目が合った。

 この店の店長であり、唯ひとりのウエイターだ。年は39才、いまだ独身。彼はさきほどからカップルのやりとりをジーッと見つめていた。で、男性客と目が合った瞬間、サッと動き、カップルの席まで見事なすり足で馳せ参じた。

「お決まりでしょうか?」

 と言った彼の胸には、「平塚正生」のネームカードがある。

「さっきのひとは?」

 カップルの男は、平塚の体の後ろに視線を送る。

 この店にはほかに2人のウエイトレスがいて、ホールを切りまわしているが、男が言った「さっきのひと」はいないようだ。いまいるのは、26才の妃子(きこ)。仕事はできるが、のんびり屋で物足りない。

 平塚は、男の気持ちを察したのか、

「彼女はいま休憩に入らせていただいております」

「そォ……」

 男はつまらなそうな表情をしてメニューに目を落とすと、ぼそぼそと小さな声で注文した。

 時刻は、もうすぐ午後2時。

 客は、ほかに2人連れの中年女性がいるだけだ。平塚はあと少しすれば、店長会議のため本店に行かなければならない。午後4時には戻るが、平塚はそれまでのことを、もうひとりのウエイトレス・沙良(さら)に頼んだほうがいいだろうと考え、スマホを取り出し、沙良の番号にメールを送った。

「ぼくがいなくなったあとは、キミに任せるから」

 と。

 8分後。カップルの料理が出来上がり、妃子が左手のトレイに載せ、載りきらない分は右手で持ってカップルのテーブルに運んだ。

 そのとき、2人連れの中年女性のひとりが、平塚に向かって手を上げた。

 しかし、平塚はカップルのほうに目が行っている。妃子がミスをしないか、心配なのだ。

「コーヒーが欲しいンだけど……」

 中年女性は遠慮がちに小さな声で言った。

 しかし、平塚には聞こえない。彼の神経は、妃子に集中している。

 妃子は、まずカップルの前にスープと小鉢に入ったサラダをそれぞれ並べ、女性の前にはパスタ、男性の前には鉄板焼きのハンバーグとライスを置いた。

 そこまではいい。妃子が左手で持つトレイには、まだ、スプーン2本にホーク2本とナイフが載っている。

 妃子は手馴れた動作で、カップルの前にスプーンとフォーク、ナイフを置いた。そのとき、「妃子ちゃん」と後ろから小さく声がかかった。

 ウエイトレスの沙良だ。休憩を終えたようだ。沙良はカップルの男性のそばに立ったまま、自身のトレイを妃子に示す。

 妃子は、それを見て、

「あっ、そうね。ありがとう、沙良ちゃん」

 その声に、カップルの男が反応した。

 妃子は、沙良のトレイから別のナイフを取り上げると、先に置いたナイフと取り換えた。

 ハンバーグ用のナイフは、刃の部分がストレートで、ステーキ用のようなノコギリ状のギザギザは付いていない。妃子はうっかりステーキ用ナイフを置いたのだ。

 逸早く、妃子と沙良の背後にきていた平塚は、2人のやりとりに満足したが、その直後、許せないものを目撃してしまう。

 カップルの男が、沙良の手に押し込むように、名刺ほどの紙切れを握らせた。驚いたことに、沙良はさもそれを承知していたかのように、素知らぬ顔で受け取った。

「コーヒー、まだァ!」

 突然、大声がホールに響き渡る。

 2人連れ中年女性のうち、それまで黙っていたほうの女性が声を張り上げた。無視されていると思い、癇癪を起こしたらしい。

 平塚はハッとして、厨房に取って返すと、1分とたたないうちに2人分のコーヒーを中年女性のテーブルに届けた。

 コーヒーは機械で抽出したものだが、常に適温で用意されている。

 平塚は、中年女性に、

「遅くなり、まことに申し訳ございません」

 と言ったが、心の中は、沙良が客から受け取ったメモの中身が気になって仕方がない。

 店長という立場がなければ、あのメモをふんだくって、何が書いてあるのか、覗いてみるところだ。

 あの男と沙良はどんな関係なンだ。あの男は初めて見る。しかも、恋人らしい、あまり美形ではない女性を連れている。

 平塚はレジに近い定位置で待機の姿勢に戻ると、厨房から聞こえてくる、かすかなおしゃべりに耳を傾ける。

「沙良ちゃん、よくわかったわね」

「カンタン。ヨッちゃんに教えてもらったのよ。ねェ」

 ヨッちゃんは、厨房を預かるコックの与志基(よしき)のことだ。

「ナイフが間違っているのに気が付いたから、妃子ちゃんに言おうとしたら、行っちゃったからな。そこにちょうど、沙良ちゃんが戻って来た。それだけだ」

「とかなんとか言って、ヨッちゃんは、沙良ちゃんに優しいンだから。沙良ちゃん、気をつけないとダメよ……」

 その瞬間、平塚の目が鋭く尖った。

 与志基と沙良があやしい!? いや、与志基が沙良にイロ目を使っている、ってカッ!

 平塚がこの店に店長としてやってきて、まだ2ヵ月足らず。沙良と与志基の2人は、2年も前から、ここで働いていると聞いている。しかし、与志基は妻帯者だ。女房もガキもいる男が、沙良を口説こうというのか。これで、敵は2人になった。

 平塚は、たいへんな困難に直面した気分に陥りながら、本店に向け出て行った。


 午後8時30分。ラストオーダーの時刻だ。駅ビルといっても、地方都市だから午後8時を過ぎると、駅前は閑散とする。開いているのは、飲み屋の類いだけ。

 平塚は、ラストオーダーを聞いて回っている沙良を目で追いながら、閉店後を夢想する。

 きょうは給料日の翌日。ホールの従業員をねぎらう慰労会だ。平塚が入店後、前の店でもやっていたことだとウソをつき、勝手に決めた。

 今夜は2回目になる。狙いは、沙良。コックの与志基は見るからに好男子だから、参加できるのはホールのウエイトレスだけと限定した。例え女房持ちでも、長身で甘いマスクの与志基が加わったなら、チビでずんぐり体型の平塚などは、どうあがいたって、かないっこない。平塚は、その程度の分別は、まだ持ち合わせている。

 中学、高校の頃、平塚のあだ名は「福助」だった。級友のだれかがどこで聞きかじってきたのか知らないが、昔足袋屋の店先にそういう名前の人形があったという。まじめだけが取り柄の、頭でっかちの江戸商人が、羽織り袴姿で正面を向いて正座している人形だ。

 平塚は、頭が大きい。自分ではそうは思わないが、周りはそのように見ている。チビだから、でっかい頭が目立つのだろう。

 前回の慰労会は、大失敗だった。最初ということもある。平塚は、懇意にしている居酒屋を予約して、店を閉めると妃子と沙良を先に行かせた。

 ひとり残ったのは、売上金の締めなど店長ならではの雑用があるからだが、それだけではなかった。

 入店して35日目。新しい店長を迎えた2人の気持ちを考え、これまでの職場の同僚と撮った10数枚の写真を貼ったアルバム2冊を居酒屋に持参した。2人に店長の人となりを理解してもらうためだったが、見事な空振りに終わった。

 2人は、「じゃ、あとで……」と言ったきり、店長のアルバムには全く関心を示さず、開こうともしない。アルバムは椅子の隅っこに置かれたままになり、平塚が床に落ちないかとそればかり心配した。

 妃子は、そのアルバムをわざとではないが、居酒屋を出る際置き忘れて帰った。当時、平塚の気持ちは、妃子とも沙良とも、まだ決まっていなかった。しかし、アルバムを置き忘れられたことがきっかけで、平塚の気持ちは妃子からは離れ、沙良に大きく傾いた。

 今回は沙良の気持ちをグッと引き寄せる演出が必要だった。敵2人を大きく引き離すほどの。

 午後9時20分。平塚は店のドアをロックした。すでに妃子と沙良は、平塚が指定した居酒屋で待っているはず。

 平塚の手には、店の冷蔵庫にしのばせておいた、手提げの紙袋に入った包みがある。今回の居酒屋は、バーの雰囲気があり、女性好みのカクテルが自慢だと聞いている。ただ、平塚はその店をこれまで利用したことがない。店にきたお客の噂話で得た情報だった。

「前に行ったお店がよかったわ」

「どこ?」

「コンビニの2階にあった……」

「あァ」

「もう一度、連れて行って」

「あのビストロか。あの程度でいいのなら、いつでもいいよ」

 つきあいがまだ浅そうなカップルの会話だった。

 平塚は、カップルが言ったその店の名前をインターネットで調べ、場所を確かめた。10日前だ。自信がある。なんの自信だ? と聞かれても困るが、彼には今夜はイケるという確信があった。

 沙良が面接時に提出した履歴書によると、きょうは彼女の誕生日になっている。

 平塚は、階段の上がり口にある電飾看板の名前を確かめてから、2階に昇り、ドアを開けた。

 ウム、中は……、狭い。

 10畳ほどか。2人掛けのテーブルが2卓、あとはオープンキッチンを囲む形でカウンター席があるだけ……で、すぐにカウンター席の沙良が目に入った。

 続いて妃子。そして沙良の隣に、男がいる!

 男は妃子と沙良に挟まれている。あってはならない光景を目の当たりにして、平塚の心は逆上した。

 カウンター席の3人は、新しくやってきた客のほうを見ようともしない。何がおかしいのか、笑い転げている。店では見せたことがない沙良の屈託ない笑顔……。

「いらっしゃいませ!」

 店員が平塚を見て声を掛けた。

「店長!」

 妃子が店員の声で初めて気がついた。

 平塚は、咄嗟に俯き、醜い怒りを、作り笑いでどうにか覆い隠してから、顔をあげた。ニチャッと笑って。

「よッ、キミたち。盛りあがっているね」

「店長、お先にいただいていまーすッ」

 沙良だ。平塚に向かって捧げ持っているのは、焼酎のソーダ割りのようだが、だいぶ進んでいるのか、ことばが軽い。いや軽過ぎる。こんな娘(こ)じゃなかったはずなのだが……。

 平塚は気になる。いや、もっともっと気になるのは、沙良の隣にいる男……。

「与志基クン。キミ、家庭は大丈夫なの?」

 与志基はウイスキーのロックを飲んでいるが、顔色はふだん通り、少しも乱れていない。

「店長、勝手にお邪魔してすいません。実は……」

 と言いかけているのに、妃子が脇から、

「店長、与志基ちゃんの奥さん、実家に戻られているンですよ。このまま離婚になるらしくて……」

「妃子ちゃん、冗談はダメだよ」

 と、与志基。

「そうよね。与志基ちゃんの離婚を望んでいるのは、沙良ちゃんだもンね」

 妃子はそう言い、与志基越しに沙良の顔を覗き見る。

 平塚の怒り度数が、さらにアップした。

「店長、女房がお産で里帰りしたので、夕食おっくうだなァって言ったら、妃子ちゃんが誘ってくれたンです……」

 沙良が、与志基のことばを継いで、

「店長、与志基ちゃんが一緒でもいいですよね。同じ職場なンですから……」

 ダメだ。約束が違う! 慰労会はおれが自腹を切って、散財させているンだ。と、口から出かかったが、平塚は忍の一字を決め込んだ。

 ここで醜態をさらすわけにはいかない。どこまでも我慢なのだ。おれの狙いは沙良ちゃん一途。沙良ちゃんとのゴールインだ。

 平塚は投げやりな口調になり、

「いいよ、いいよ。2人が3人になったって。ちっとも変わらない……」

 と、心にもないことばが出てしまう。ちっとも変わらないなンて、あるかッ! 勘定が変わるンだ。

 そう思うと、それまで力強かった平塚のことばは、急にトーンダウンした。それが沙良たちにも伝わるのか、一瞬シーンとなり、場が白々とした。

「店長、何をお持ちなンですか」

 その静寂を破ったのは、妃子。平塚が手に下げている紙袋に目をやって、

「まさか、慰労会を盛り上げよう、なンて用意した、ビックリ箱じゃないでしょうね」

 そのまさかだ。しかし、ここでこの宝物をバラしたら、ここまで積み上げたものが崩壊する。

 平塚は計画変更を余儀なくされた。

「これは、そんなもンじゃないよ」

 平塚が平静を装ってそう言った。

 すると、沙良が、

「じゃ、何なンですか? 店長、教えてください……エッ、待って、それお店の冷蔵庫に入っていたのじゃないですか……」

「そうだけど……」

「ホントですか! 店長の私物だったンですか」

 こんどは妃子が加わり、まるで虫歯がしくしく痛むような顔をして言った。

 しかし、残念ながら平塚には、沙良と妃子の反応の意味するところが、少しも理解できない。

 平塚は、そんなことより、いまだ3人の前で突っ立ったままでいることのほうが腹立たしい。腰掛けさせろッ。

「座っていいかな?」

 オープンキッチンに向かって右から、沙良、与志基、妃子の順にカウンター席を占めている。幸い沙良の右隣は空いている。

 平塚は、返事を待たず、沙良の右の空席に腰掛けた。その途端、どうだ。沙良と妃子は示し合わせていたかのように、瞬時に席を入れ替わった。

 すなわち、店長の左は妃子、妃子の左は与志基、その左は沙良になった。

 平塚はさすがに憮然となった。これが自腹を切る者に対するもてなしかッ。しかし、ここで愚痴をこぼすのは、野暮だ。江戸っ子は野暮を嫌う。

 平塚は江戸っ子ではない。江戸からはほど遠い上州田舎町の生まれだが、この街に来てから、噺に聞いた江戸っ子に強いあこがれを持っている。

「ありがとう。でも、これだと話が遠くなるね。やっぱり、テーブル席がいい……」

 平塚はそう言いながら、狭い店内を見渡す。2卓のテーブルはふさがっている。

「仕方ない。みんなには悪いけれど、今夜の慰労会はこれでお開きにしよう。次回はもっと会場をしっかり調べておくから。ゴメン」

「そんなーッ!」

 妃子が不満をもらす。

「妃子ちゃんは、このまま飲んでいていいンだよ。ぼくはひとり帰るから」

 平塚は店員を呼び、

「一旦勘定をしていただけませんか。まだ、残る者もいますが……」

 店員は、カウンターの隅にあった伝票を持って、レジに行った。

 平塚は内心、ここが勝負だ、例えこの賭けに負けても、次回がある、と考えた。

 すると、天井を仰いでいた沙良が、

「わたしも帰る」

 と。

 よォしッ! 平塚は腹の中で小躍りした。

「沙良ちゃんが帰るのなら、おれも帰るか」

 与志基は早くも腰をあげる。

「エッ!? 与志基さん、一緒に飲まないの?」

「あと1時間もすれば、女房から電話がかかってくるンだ。その時間、家にいないと、心配するから……」

 与志基の女房はやきもち焼きか。これで敵の一人は退散させることができる。平塚は賭けに勝ったと思った。

「だったら、わたしも帰る。ひとりで飲んでいても、つまンないもの」

 妃子も立ちあがる。

「座をしらけさせたようで、申し訳ない。店長として、次回、この埋め合わせはきっとするから」

「絶対ですよ。店長!」

 妃子が酒臭い息で平塚を責めるように言う。

 ゆっくり立ちあがった沙良は、何か考えにとりつかれているように、ぼんやりしている。

「妃子ちゃん、絶対、絶対だ。今夜はお詫びにみんなをタクシーで、自宅まで送らせてもらうよ」

「やったッ!」

 妃子は途端に上機嫌になった。

 妃子は自宅で両親と暮らしていて、ここから車で10数分ほど。店にはバスで通っているが、そろそろ最終便が来るころだ。

 与志基は徒歩で数分だから、タクシーは必要ない。

 沙良のマンションは、妃子と同じく車で10数分の距離でバス通勤だが、妃子とは全くの逆方向。

 タクシーにどう指示すればいいのか。平塚は、思案しながらレジで勘定をすませた。


 駅前のタクシー乗り場に行かないうちに、幸い流しのタクシーが捕まった。与志基は店の外で別れ、すでにいない。

 平塚は紙袋をもってタクシーの助手席に、沙良と妃子が後部座席に乗った。沙良が運転席の後ろだ。

 平塚は、レジで思案した通り、沙良を先に車内に押し込んだ結果だ。

 運転手に、「どちらまで?」と聞かれると、平塚は、後ろの2人に、いわずもがなだが、

「妃子ちゃん、先でいいかな?」

 と、念を押している。

 妃子は、沙良を見て、

「いいですよ。沙良ちゃんがよければ」

 沙良は、タクシーの窓ガラスに頭を預けていて、

「いいわよ……」

 つぶやくように答える。

 平塚の当初の計画は、居酒屋で紙袋の中身を開くつもりだった。しかし、与志基がいたことで、その計画は頓挫した。

 妃子と沙良だけなら効果のある宝物も、恋敵が目の前にいては逆効果になりかねない。それも超強力な恋敵が相手では、平塚は道化にさせられてしまう。

 10分後。タクシーは妃子を降ろした。

 平塚は下車して、手を振って妃子を見送ると、

「運転手さんに迷惑だから、ぼくは後ろに移るよ。沙良ちゃん、いいね」

 沙良の返事はなかったが、平塚は妃子が降りて開いたままになっているドアから、後部座席に移った。

 タクシーはUターンして沙良のマンションに向かう。

 平塚はリアシートで沙良と並んだ。

 2人の間には、人の体半分ほどの隙間がある。沙良は相変わらず、体を右のドアにぴったりと寄せ、頭を窓ガラスにくっ付けている。

 平塚は、妃子と沙良の自宅の位置関係から、タクシーはあと15分ほどで沙良の自宅に到着すると読んだ。沙良は一人住まいと聞いている。

 急遽立て直した計画は、一緒に沙良のマンションに行き、そして紙袋の品物を開く。それにはどうすれば、最も自然なのか?……。

 と、いきなり、

「店長、お願いがあるンですが……」

「エッ……」

 平塚は、ハッとして右を振り向いた。

 そこに、彼を見つめる沙良のうっとりした目があった。

「沙良ちゃん、どうした?」

 平塚は、ただならぬ気配を感じ、息を詰める。

「ご一緒していただきたいところが、あるンです」

「どこに?」

「きょうの午後、お店に来られたお客さん、覚えておられますか。カップルの……」

「?……」

 平塚にはすぐにピンときたが、沙良にメモを手渡すところを見ていたなどと勘ぐられたくない。

「そのカップルの男のひとと、わたし、おつきあいがあって……」

「……」

 平塚は、沙良を見つめた。2人の間は30センチと離れていない。沙良は、むしゃぶりつきたいほど、かわいい。

 はそう思ったが、同時に、彼女に娼婦のような危険なかおりを感じて、緊張する。

「あのひと、蒲鉾会社の5代目社長になる予定のジュニアなンです」

「ジュニア!?」

「跡取り息子。社員は若社長と呼んでいるそうです。先月だったか、その蒲鉾会社が出している販売店に買い物に行ったとき、あのひとに声をかけられて、これまで3度デートしたンです」

「そう。3度も……」

 おれはまだ一度もその恩恵にあずかっていない。平塚は徐々に気勢を削がれる思いがする。

「遊園地に植物園に映画館。でも、わたし、ちっとも楽しくなくて……」

 ずいぶんおとなしいデートコースだ。しかし、夜はアルコールの厄介になっているのだろう。

 平塚は、酒場で憂鬱そうに過ごしている沙良を思い描く。

「そうしたら、きょう、女の人と一緒に来たでしょう。わたしにやきもちを焼かせるつもりだったンでしょうが、わたし、ちっとも感じなくて……」

 そういうことか。あの男が沙良を気にしていたのは、そういうわけか。平塚は納得した。

「そうしたら、お店で、わたしにこっそりメモを寄越したンです」

「メモ?……」

「今夜、11時にホテル・シャンピリオンのスカイラウンジで待っている、って。だから……」

 行きたくない。だから、一緒に……。そんないじらしい気持ちだったのか。

 平塚は、沙良がグ、グッと接近してきた気分に陥る。

「そんな誘い、すっぽかせばいい……」

 平塚は初めて強い口調で言った。沙良は、エッと初めて驚いた表情をみせる。

「でも、あのひと、お金持ちでしょ」

「金持ち……」

 金にはからきし弱い。平塚は懸命に結婚資金を溜めているが、まだ5百万円にしかなっていない。

「お金持ちだから断れないということじゃないンです」

 そりゃそうだ。金で魂が売れるかッ。

「ひとを使って、何をされるか、わからないから……」

 沙良は、平塚の目をジーッと見つめる。平塚の理性は、彼女の瞳でズタズタになりそうだ。

「だから、店長にご一緒していただければ、あのひともヘンなことはしないと思うンです……」

 沙良が最後まで言い終わらないうちに、

「運転手さん。申し訳ないけど、ホテルシャンピリオンに行ってください」

 平塚はタクシー運転手にそう告げていた。


 ホテルシャンピリオンは14階建て。この街いちばんの高層ビルだ。1階と2階には商店が入り、3、4、5階が会社関係の事務所、6階から13階までがホテルフロント及び客室、そして最上階に午前3時まで営業しているスカイラウンジがある。

 平塚はいまの店に勤務が決まった直後、勉強のために、値段が安いランチタイムを狙って一度行ったことがある。

 30卓ほどあるテーブルはそれぞれ直径1メートルほどの円形。その丸テーブルどうしは間隔が広くとってあり、BGMにクラシックが静かに流れ、高級感を演出していた。

 昼と夕は食事が中心だが、午後9時以降は、ほとんどがアルコールを求めるお客になる。

 平塚はラウンジの入り口では沙良と一緒だったが、迎え出たウエイターに、

「ちょっと事情があって、ぼくは彼女の隣のテーブルにして欲しい」

 と、告げた。

 時刻は、まだ早く、蒲鉾会社の5代目は来ていない。

 沙良は夜景がよく見える窓際のテーブルに、平塚はそこから5メートルほど後ろのテーブルに案内された。彼は、沙良の顔が見える椅子に腰かけた。

 沙良はテーブルの紙ナプキンをとって、何やら書いている。

 平塚は、あとでおれに寄越すメモなのだと考えた。「わたしのマンションで先に待っていて……」

 とでも、書いていれば……。

 平塚は柄にもなく、生ハムとマティーニを注文した。

 少し酔いたい気分だが、強い酒では沙良に嫌われる。沙良は、水の入ったグラスだけだ。オーダーは5代目が来てからなのだろう。

 その男は、午後11時きっかりに現れた。黒のタキシードを着て。こんな田舎で、結婚式でもないのにタキシードはないだろう。

 平塚は腹で笑ったが、沙良は真向かいに腰掛けた5代目をうっとりした目で見つめている。

 平塚には5代目の背中しか見えない。2人は、何かささやきあった。平塚の耳には聞き取れない。

 入り口で出迎えた同じウエイターが注文をとりに行く。

 すると、5代目は、

「悪いが、すぐに失礼する」

 と言って立ちあがる。平塚には、そうはっきり聞こえた。

 沙良は5代目に続いて立ちあがる。そして、ウエイターに何かささやき、さきほどの紙ナプキンをウエイターに握らせ、平塚のほうにチラッと目配せをした。

 ウエイターは頷く。

 沙良は5代目と一緒に立ち去った。平塚にとってはアッという間の出来事だった。

 やがてそのウエイターが平塚のテーブルに来た。

「いまお帰りのご婦人が、こちらをお渡しくださいとのことです」

 そう言って、折りたたまれた紙ナプキンを平塚の目の前に置いた。

 平塚に、悪い予感が走る。

「待っていてください」なのか。あるいは……。

 平塚は、震える手で紙ナプキンを広げ、走り書きを読んだ。

「店長、決心しました。わたし、今夜でお店をやめます。蒲鉾会社も悪くないと考えたのです。しばらくのおつきあい、ありがとうございます。お元気で……」

 平塚はテーブルの生ハムを鷲掴みにして口に入れ、マティーニを一気飲みした。

「ウエイター、焼酎だ!」

 そのとき、平塚は足下にある紙袋に気がついた。

 2人でお祝いをしようと駅前の洋菓子店で3日前に予約して、今朝買ったデコレーションケーキだ。

「こんなもの。いまさら……」

 乱暴にケーキの箱を開く。

「なんだッ。これは……」

 ケーキの箱を開けた途端、平塚は呆然となった。

 ワンホールのデコレーションケーキが、4分の3近く食い荒らされている。

 そこへさきほどのウエイターが飛んできた。

「お客さま。こちらは持ち込み禁止です。どうぞ、お引き取りを……」

 ウエイターはそこまで言ったものの、ケーキの状態を見て、口を閉じた。

 食べ残しの持ち込みなら、まァいいか、とでも考えている風に。

 そのとき、平塚の携帯が鳴った。

 画面を見ると、沙良だ。平塚は、一縷の望みを掻き起こして、聞き耳をたてた。

「もしもし、沙良ちゃん?」

「店長、ごめんなさい。ナプキンに書き忘れたことがあって。あのケーキ、店長のものと知らなかったンです。店長が本店に行かれた時間があったでしょう……」

 午後2時から4時の間だ。

「そのとき、妃子ちゃんが冷蔵庫に、駅前の洋菓子店の名前が入った紙袋を見つけて、『お客さんの忘れ物みたい』と言ったンです。生ものだし、取りに来ないのだから、処分しなければいけない。みんなで食べようということになって、いただいてしまったンです。ヨッちゃんも入れて3人で……」

 名前は描かせなかったが、「誕生日、おめでとう」の文字がチョコレートで描いてあったはずだ。

「店長のお誕生日だったンでしょう? 本当にごめんなさい。でも、4分の1だけ残しましたから、どうぞ、お召し上がりください」

 平塚に怒りが湧いた。

「きょうはおれの誕生日なンかじゃないゾ」

「エッ、店長の誕生日は明日ですか?」

「キミ、キミはいつ生まれたンだ」

「わたし、ですか。そうか。わたし、履歴書に、本当の誕生日は書かないことにしているンです」

「どうしてだ?」

「わたしの本当の誕生日は、2月29日。4年に一度しか来ないから、履歴書にはそのときの気分次第で、適当に書いているンです。店長、まさか、わたしの誕生祝いだったンじゃないでしょう?」

「当たり前だ。店長がどうして、恋人でもない部下の誕生祝いをしなけりゃいけないンだ」

「だったら、だれの誕生祝いですか?」

「そ、それは……」

 平塚は、パニックになった。

「……この先、現れるぼくの花嫁だ」

「それは、どなたですか?」

「それは、それは……それが、わからないから弱っているンだ」

                 (了)

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