第5話 Side-A
先生が「描けなくなった」と言い始めたとき、僕は耳を疑った。どう返せばいいのか逡巡しながら、年老いた横顔に視線を向けると、どこかぼんやりとした表情で先生は僕の方を見た。
「何を描けばいいのか、分からなくなってしまった」
先生はその数か月前から膝を悪くして――自宅の段差でつまずいたのだ――、日課の散歩に出ることができなくなっていた。僕と共同で使っていたアトリエからも足が遠のき、僕が二、三日に一度ご自宅を訪問したり、折に触れて電話したりすることで様子を見ていた。
先生は料理も手慣れたものであったし、晴れていて膝の痛みが少ない日には掃除もできていたから、家も特におかしな様子はなく、僕は深く心配していたわけではなかった。「こんな料理を作ってみた」などとスマートフォンで写真を送ってくるなど、むしろ傍目には、新しい余暇にも挑戦している様子すらあった。この日は特に膝の調子がいいということだったので、僕が自分の車に先生を乗せ、アトリエまで連れてきたのだ。
先生は白いキャンバスに向き直り、ゆっくりと筆を持ち上げ、そこに絵の具を絡めた。恐る恐る、といった様子で、繊細な線を描く。複数の絵の具を、混ぜ合わせずに筆に絡めているので、筆の角度を変えるだけで鮮やかなコントラストが生まれた。僕には、先生の技術が衰えたわけでも、何か肉体的な問題があるわけでもないように見えた。
「やはり、描けない」
蚊の鳴くような声でつぶやき、誰か親しい人のお墓に花を手向けるように、先生は筆を置いた。キャンバスの上には、とてつもなく美しい三本の線が残され、きっとそれはこのまま置き去りにされるのだろうと僕は悲しくなった。
それ以来先生は筆を断ち、そこから見えない糸が広がるように、料理や読書といったほかの趣味からも遠ざかってしまった。
そこからの展開は早く、先生の急速な老け込み方に不安を覚えた僕は、強引に受診を進め、そこで認知症の診断を受けた。ぼんやりしている時間の増加や会話のすれ違いだけにとどまらず、排泄の失敗や夜中の徘徊が見られるようになり、僕は先生の自宅へ泊まり込むようになった。周囲からは何もそこまでと言われたが、僕も独身だったから身よりのない先生を支援するには適任だったし、何より恩を返したいという思いが強かった。
ある夜、先生の左手首にミサンガを巻き、そこから伸ばした糸を僕の右小指に括り付けていつものように眠ろうとすると、先生が天井を見ながら口を開いた。
「世話をかけるね」
「いえ」
症状には波があり、先生はふと我に返る瞬間があった。そのときは、以前と同じように会話もつながり、表情もはっきりしていて、語る内容のつじつまも合っていた。
「明日、きっと私はよく分からなくなってしまっているだろうけれど、台所の床下収納を開けてみてくれないか? そこに、大事な絵を入れてあるから」
突然の話に驚きながらも僕は「分かりました」と返し、先生は「ありがとう」と言って深く息を吐いた。
「その絵はずっと前にデザインしたもので、いつかどこかで使用したいと思っていたのだが、機会がなかった。しかし、先日ある事件が起こり、世に出すのがはばかられるものになってしまった。自分の作り出した意匠が、世の流れでまったく別の意味合いをもつ。よくあることだ。何の気なしに描いたマークが、どこぞの宗教団体が作り出した偶像とそっくりだとか、ね」
先生は、落ちくぼんだ目をこちらに向けた。闇の中で、それは猫のように光って見えた。
「君には何とかして、それを展示してほしいのだよ。万人に見られなくてもいい、ただ個展の片隅でひっそりと、飾ってくれればそれでいいのだ。絵に、罪はない」
床下収納には、過去に漬けたのであろうピクルスや梅酒に混じって、新聞紙でくるまれた画板が入っていた。ほのかに酢の匂いがするそれを紐解き、そこに描かれたシンプルなデザインを目にしたとき、僕は言葉を失った。
横並びになった赤い四角と緑色の四角、その内側に伸びる黒い曲線。デフォルメされていたが、それは疑いようもなく、数か月前に円盤が引き起こした黒風船事件の様相を呈していた。
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