第2話 Side-B
母は朝から上機嫌だった。ありふれた美術展だが、久々の外出を心待ちにしているのが分かった。
「いつぶりの外出かしらね。お買い物に行ったのが五月だったから、もう半年前にもなるのかしら」
車いすに乗った母が、それを押す私に尋ねる。
「そうだね。一時期、発作が多くて大変だったじゃない。でも、木村先生もがそろそろ美術展くらいなら大丈夫だろうって言ってくださったから。ショッピングモールだと人が多くてまだ心配だけど」
私の答えを聞いて、母がこちらを振り向く。
「迷惑かけたわね。自分でもどうなることかと思ったけれど、思ったよりしぶといみたい」
母が入院してもう二年になる。まだ六十代だけれど、ひどいころには一日に二度、三度と発作を起こしていた。母に言わせると、「心臓と喉を誰かに握りつぶされる感覚」なのだそうだ。周囲にも同じ症状の入院患者が多い。病名は、黒風船症候群。現在、日本全国の入院患者の三割はこの病なのだそうだ。明確な原因はいまだ不明だが、数年前のあの事件が関係しているのは間違いない。
先週、母の発作は一度しか起きなかった。予断は許されないが、静かな美術展程度であれば問題ないだろうと、主治医の木村医師も外出を許可したのだ。
「『松村フリージア』、知らない人の個展だけど、行ったら行ったできっと楽しいでしょ」
私がそう言うと、母がにこりと笑う。
「実は、少し調べてみたの。松村フリージアって、実は二人のアーティストが共同で使う名前だそうよ。二人の合作もあれば、一人一人が描いたものもあって、それを一人の作品として展示している。詳しいことは分からないけれど、特に海外で評価されているみたいよ」
「へえ、漫画家と似ているわね。ほら、ペンネームは一つだけれど、実は原作担当と作画担当の二人で描いています、とかあるでしょう?」
「逆に私は、そちらの方を知らないわ」
美術展自体は、こぢんまりしたものだった。美術館の一フロアを貸し切ってあり、そこに仕切りを立てて、洒脱なフレームに入った絵画が飾ってある。
不思議な空間だ、と私は思った。二人で描いていると母から聞いた後だからかもしれないが、タッチや色遣いが一枚ごとに違っている。個展らしくない個展だ。
『夜の湖』という作品では、暗い湖のほとりで、男が一人たたずんでいるように見える。ように見える、というのは、男の首から紐と思しき線が伸びているからだ。紐は男の脇にある木へ伸びている。
芸術的な意図であるとは理解していたが、私は少しむっとした。久々の母との外出であるのに、あまりネガティブなものを見せられるのはたまらない。しかし、母はどこ吹く風で、楽しそうに絵を眺めている。
「これ、画面全体が黒っぽいのに、湖も人も木も空も、全部違う黒なのね。どうやったらこんなふうに描けるのかしら」
次の絵は『未来の扉』。ピカソのような幼稚な線で扉が描かれていて、それが極彩色で塗られている。ここだけライトが強いのではないかと思うくらい、激しいコントラストだ。母はこの絵を指さして楽しそうに言う。
「これは、さっきの絵とは違う、もう一人の方が描いたのだと思う? それとも、同じ人が趣向を変えたのかしらね?」
「ええ、別の人じゃない? 色も筆遣いも違うでしょう」
「いやいや、それを逆手にとっているのよ。ピカソも、あのはじけた絵柄だけじゃなくて、他の作家にひけをとらない写実的な絵柄も描けたでしょ?」
「たしかにね」
そうやって、誰が描いたのかを推測したり、何を表現しているのかを議論したりしながら絵を見て回るのは楽しい時間だった。
個展も終盤に差し掛かり、並んだ絵の横に、松村フリージアについての説明が小さく載せられていた。そこでは、松村フリージアの経歴は一切触れられず、彼らが二人体制の作家であること、「表現の自由」を重んじ、前衛的な表現や不謹慎だと思われる表現にも果敢に挑戦していることが記載されていた。たしかに、人によっては眉をひそめるような絵画も中にはあった。様々なタッチと色彩、それにテーマ性をもつ、共通項のないような絵が並べてあり、それらをすべてひっくるめて「自由」そのものを表現しているということらしかった。
「面白かったわね。芸術家の考えることは、やっぱりよく分からないけれど」
母の言葉に「そうね」とうなずきながら、出口へ向かう。出口脇に、最後の一枚が展示されていた。それを見た途端、背中をひやりとしたものが流れた。
その絵は『あの記憶』というタイトルだった。画用紙の真ん中に、二つの四角が横並びに接して描いてある。左の四角が緑色、右の四角が赤色だった。四角の内部には、それぞれ髪の毛のような黒い曲線が何本も引かれていた。
まずい、と思ったときには、母が胸を両手で押さえていた。呼吸が一気に荒くなる。全身が痙攣し、立ち上がろうとしたのか、母は前方に車いすから転げ落ちた。
「お母さん!」
叫びながら駆け寄る。母は胸と首を掻きむしりながら、泡を吹いていた。
あの絵のせいだ、という自分の声が、頭の中でわんわん鳴っていた。なぜあんなものを展示しているのか、あの絵のせいで、母が――。
救急隊が到着したころには、母の呼吸も、心臓も停止していた。
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