フリージア

葉島航

第1話 Side-A

 午後から雨になったその日は、雨だとか晴れだとかそういう些細な事柄とは関係なしに、いつにも増して最低な日だった。当時中学生だった僕に、「最低」はひどく優しそうな顔をして近づいてきた。

「お母さん、こういうのはよく分からないけれど、あなたの絵は少し暗いものが多いわね。なんて言うのかしら、やっぱり親としては、少し、心配になっちゃうわね」

 家で絵筆をとるのは、その頃すでに、僕にとって食事や入浴と並ぶほどの習慣となっていた。理論的なことはよく分かっていなかったが、ゴッホのように繊細で荒々しい筆脈、ダリやキリコのような不穏な世界観、ムンクの常軌を逸した色遣いに憧れ、彼らを真似た作品をいくつも生み出していた。

 自慢ではないが、僕は人並み以上に真面目でそつのない中学生だったはずだ。分け隔てなく人と付き合い、学級委員を務め、成績は上から十位以内をキープし、誰に促されなくとも帰宅後には課題に取り組み、ゲームやインターネットとやらに現を抜かすこともなく、それでも健全な中学生らしく部活動や漫画に熱中し、友人の悪ふざけにも時には巻き込まれ、教師からも「大人しいが牽引力のある真面目な生徒」というお墨付きを三者懇談でもらっていた。そんな僕の、数少ない内発的な余暇活動が、たまたま絵画という媒体であって、好みの絵柄や色彩がたまたまダークな系統のものであっただけなのだ。そこにはストレスや人格のゆがみと言った原因はなく、単純に黒色が好きだっただけ、不安をかき立てるような絵柄が好きだっただけ、それはもしかしたら、幼いころに観た黒ずくめの男たちがかっこよく活躍する映画の影響だったのかもしれない。見た目が怖いけど優しい人、裏がありそうだったけれど実は助けてくれていた人、何を考えているのか分からないけれど誰よりも鋭い感性をもつ人、そういったポジティブな結論をもつ二面性に人は惹かれるもので、僕の好みも結局はそこに帰属されるものであったのだと思う。

 だからこそ、母の言葉に僕は言い知れぬ不快を感じた。普段あれだけ頑張っているのに、とか、僕の好みを理解してくれないのか、とか、そういった自己防衛に走るつもりはない。別に学校で無理しているつもりはないし、絵を描いていない時間、たとえば友人とバカをやっている時間やサッカー部の練習に打ち込んでいる時間、勉強ですら、苦に思ったことはなくて、それも一つの自分自身だと理解している。だから自分の絵画をとやかく言われることが自分自身の否定だと感じられるほど、僕は絵画を中心に生きていなかった。加えて、人の好みはそれぞれだということは小中の学校教育で嫌というほど刷り込まれていて、たとえ家族だからと言ったって、僕の好きなものを親が気に入るべきだとはつゆほども思わないし、その逆も然りであるはずだ。

 結局は、母の言い方にカチンと来ただけのことなのだ。僕が趣味で絵を描いていて、たまたま僕の好みが、ダークな調子の絵として表現された、それだけのことなのに、その背景を邪推され、丁寧にも「親としては」という枕詞付きで、「暗い絵ばかりを描いているあなたが心配だ」と宣う。結局のところ、母が僕に何を望んでいるのかをシンプルに言い換えれば、「もっと明るい絵を描いたらどうなの?」であり、実際にそうすれば母は満足するはずなのだった。お花畑で手をつなぐ少年少女。川沿いの美しい道を飛ぶ蝶の群れ。自然と平和、そして調和。

 僕はそのとき、「そうだね」と言ったのか「そうかな」と言ったのか、今となっては思い出せない。静かにイーゼルの前から立ち上がり、手早く道具を片付ける様子を、母はどのような気持ちで見ていたのだろうか。繊細な母のことだから、余計なことを言ったと自責に走ったのかもしれないし、あるいは親の心子知らず、いつかあの子にも分かるはず、と言い訳を重ねたのかもしれない。いずれにしても、脳内で言葉を紡ぎすぎて心ここにあらずの状態であることは間違いなかった。

話が逸れてしまったが、この話の要点は母と僕との確執でも関係性でもない。この後、散歩に出た先で、僕が先生と出会ったことこそが重要なのだ。

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