幼水夢

小林

第一話 夏と少女

 夏の湿気を含んだ風が田んぼの真ん中の小さな一軒家の部屋に入り、小さく寝息をたて、眠る少女に朝を知らせる。


 目覚まし時計がけたましく鳴り響く部屋の中の少女は大きく屈伸をして起き上がった。窓の外はもう夏らしく入道雲が上がり、蝉が元気よく鳴いている。


 むわりと熱い部屋を出て階段を降り、洗面台へ向かう。鏡には髪の長い幼い少女がひょっこりと顔を覗かせている。踏み台を上がると冷水で顔を洗う。ひんやりとした水が少女の熱い顔を包み込み、気持ちまで新しくしてくれるようだった。




 人の声のするリビングへ向かい、扉を開けると冷たい人工的な冷気が少女の頬を撫でた。その冷気に全身でつつまり、ソファーにとすっと座ると目の前にはテレビと呼ばれる小さな箱があった。テレビの中では原稿を読んでいる人の姿が映し出されている。彼女の母は、これは小さい小人がリアルタイムで演じる劇なのだと言っていた。少女は食い入るように小さな箱をじっと見つめた。


 ふと、台の上を見るとスイカが乗っていた。赤い果肉に真っ黒の種が映え、きらきら光り、まるで宝石のように少女を誘いかけてきた。テーブルに近づき、ぱくっとその小さい口で頬張る。口の中甘い液がジュワッと溢れ、口の中全体にスイカ独特の味が広がる。


 少女は咀嚼しながら、不意に硬いものに気がついた。危ない。種を飲み込むところだった。先程も種を誤飲して、スイカが体内で生成され死んだ人のニュースが流れていた。危ないところだった。


 スイカを数個食べると、少女はお気に入りのワンピースを着て家を出た。ふわふわと真っ白のスカートが青々とした空に舞う。少女の白い肌は周りの景色に溶け込むほど透き通っていた。頭にかぶったピンクのリボンの麦わら帽子は強い日差しを遮り、少女はそれでも防ぎきれない太陽の熱い熱を感じながら、田園を歩く。


 少女が上を向くと、田畑の所々に赤と白のタワーが立っていた。彼女の母は言っていた。あれは東京タワーなんだと。ここは東京ではないのに面白い名前だなとふふっと笑い、スキップしながら風を切り、ふわふわと歩く。




 切符を改札に通し、挨拶する。改札の小さい銀色の箱の中には小さいおじさんがいて、切符を切っているのだ。「こんにちは」と挨拶すると、中の人は「こんにちは。いってらっしゃい」と返してくれた。少女は浮き足立ちながら電車に乗り込んだ。じんわりと汗が滲んだ額は電車の中の冷気で冷やされていく。


 ガタンゴトンと電車が揺れ、田園の緑翠を窓ガラスに反射させ、まるで小さな映画館のようだった。幸い、この幸せな時間を邪魔するものはいない。ガラリとした車内には少女を含めて数人の乗客しか乗っていなかった。


 電車は心地よい音と共に揺れ、少女は眠気に耐えきれず、目を閉じた。目を開けると、田園風景に打って変わって無機質な四角いビル群が顔を出した。


「次は夢中駅、夢中駅」


 電車のアナウンスがそう告げると少女は立ち上がり、電車を降りた。少女の乗った駅よりよほど都会である駅のホームに降り立つ。そう、少女は彼女の母に会いにきたのだ。


 彼女の母は都心の病院にいるそうだ。昨日彼女の祖母がメモしていた紙には一件の病院の名前があった。漢字を読めない少女にはイラストの地図だけが頼りだ。




 改札を挨拶して通り抜けると地面からじりじりと熱が伝わり、またじんわりと汗をかいてきた。少女は大きな交差点を横切り、小さな公園へ入った。彼女のような小さい体にはたった1キロの道のりでも相当な時間をかけなくてはいけない。


 公園では1組の男女がベンチで会話をし、数人の子供が鬼ごっこをして遊んでいた。蛇口を捻り、水道に口をつけ飲む。水は真夏の太陽に熱され、それほど冷たくはなかったが、炎天下の中歩き続けた少女の体には今まで飲んだことのないくらい美味しく感じられた。


 生憎、ベンチは空いてなかったので少女は木陰の下に座り込んだ。日向は暑いが木陰は思ったよりも涼しかった。少し風が吹き、空の入道雲が顔を覗かせる。ぼんやりとしていると公園の時計が12時を指しているのが見えた。慌てて腰を上げ、純白のスカートについた砂を手でさっと払うと日向へ出る。そのまま公園を抜け、病院への道を急ぐ。


 少し歩くと大きな建物が見えた。白に赤の十字架。あれが病院だろう。自動ドアを抜けて院内へ足を進めた。


 カウンターの看護師に声をかけるが幼い体はカウンターの向こうから見えなかったらしく看護師たちは反応を示してくれなかった。


 どうしようかと悩む少女は、はっと思い出して、メモを取り出した。メモには病室番号が書かれていた。二つ折りにしたメモを広げ、病室番号を確認する。しかし、彼女は文字を読むことがまだできなかった。


 熱気が入ってくる方を見ると1人の男が院内に入ってくるのが見えた。彼は少女の父親だった。少女は歩き出す父親の後をついていった。




 父親の後に続き、階段をトントンと駆け上がり、病室の前で止まる。病室の前にあるプレートには漢字が書かれていた。漢字でしか名前は書かれていなかったが、家の前にある名前と一緒なので、ここだと少女は確信した。名前は1人分しかないからきっと個室なのだろう。1人でいるから寂しかったかななどと考えながら中を覗く。


 中には影が二つ見えた。大きな影と小さな影だ。太陽の光は大きい方の影の顔を映し出した。


「お母さん!」


 少女はそう叫ぶと母の元へ走り出した。女性はハッと少女を見るとほんのりと笑った。少女はそれがうれしくて駆け寄ると母の顔を覗き込んだ。母は自分ではなく遠くを見ているようだった。


 少女は違和感に気づいた。母が入院しているはずなのになぜ母がベットの横の椅子に座っているのか。パッとベッドを見ると1人の少女が様々な器具を体に取り付けられながら眠りについていた。


 少女はあることに気づくと、ベッドに近づき、少女の顔を覗き込んだ。


 誰が見ても彼女たちの顔は全く一緒だった。


 硬い革靴の音を響かせながら病室の中に花を持って入ってきたのは彼女の父親だった。両親はまるで少女がいないかのように話を続ける。ベッドに半身乗り込んでいる少女を気にも止めず、ベッドの中にいる少女をチラチラと見ながら話を続けた。


「今日も変化はないのか」

「ええ、今日でこの子が眠りについてからもう5年が経つのね」

「お義母さんはまだなのか」

「もうすぐのはずだけれど、迷っているのかもしれないわ」


 少女はようやく気がついた。自分はこのベッドで眠る少女と同一人物なのだと。




 ふらふらと窓際に近づき、足をかけ長い長い髪の間から両親を見た。彼らは自分の娘がそこにいることを知らない。ただ、ベッドの上の少女を愛おしそうに見つめていた。


 先ほどまであんなに爛々と輝いていた太陽は姿を消し、厚い厚い雲が空を覆い、ジメジメをした空気が充満していた。


 夏の雨は落ちていく少女を叩きながらその姿をふっと消していった。

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