四二章 白鳥宮のひととき
「くそっ。気にいらん報告ばかりだ」
レオンハルト王国国王レオナルドは膨大な書類の山に囲まれながら忌々しさを込めて呟いた。もともと、猜疑心が強くて――ふたりの弟を例外として――他人を信用すると言うことがなく、すべてを自分で決済する型の人物であったから、以前から山ほどの書類に囲まれるのが常ではあった。しかし、ここ数日の繁雑振りは異常なほどだった。
部屋は書類に埋め尽くされ、主であるレオナルドの姿も見えないほど。もはや、空気の存在する隙間さえないのではないかと思えるほど、山積みになった書類で空間という空間が埋め尽くされている。その重みでいまにも床が抜けるのてはないかと思えるほどだ。石で出来た堅牢な床がだ。
レオンハルト王国王都。その中央にある王宮。その王宮のなかの執務室のことだった。
鬼部の大規模侵攻の報を受けて最前線の町エンカウンに居を移していたレオナルドだったが、すでに王宮に戻っていた。エンカウンの町を守ってきた警護騎士団が団長のジェイ、副団長のアステスとともに離脱、さらに、町の住人たちも続々と逃げ出しており、それを押しとどめることも出来なくなった。いまや、エンカウンはほとんど空っぽで、その場にとどまり、指揮する意味がなくなったからだ。
いま、エンカウンの町に残っているのは熊猛紅蓮隊と勇者ガヴァン、そして、わずかに残った警護騎士団の残留組。
ただ、それだけ。
そのうち、熊猛紅蓮隊は鬼界島遠征の準備に専念しており、侵攻してくる鬼部と戦う状態にはない。事実上、勇者ガヴァンひとりで押し寄せる鬼部の群れを相手にしなくてはいけないという状況だった。
――さすがに、これはまずい。
いくら、軍事に関しては素人同然で、弟たち任せのレオナルドであっても、それぐらいはわかる。むしろ、素人同然だからわかると言うべきかも知れない。ウォルターやガヴァンはあまりにも強すぎるために『自分ひとりで勝てる』と思いがちだが、平均以下の強さしかもたないレオナルドの場合、ひとりの力では大群を相手に戦えるわけがない、という当たり前のことを当たり前に理解出来る。
早急に国内の軍を再編成し、エンカウンに送り込み、防衛体勢を整える。それが国王としてのレオナルドの役目なわけだが、それがまったくうまく行かない。
「くそっ。どいつもこいつも『人が足りない、人が足りない』と、そればかりを言いおって。エンカウンの町が陥ちたらそれどころではないことがわからんのか」
忌々しさを込めてそう呟く。
王宮に戻ってから矢継ぎ早に文書に署名し、各地の領主や諸侯に兵を送るよう命令したのだが、返ってくる返事は常に同じ。
「人手が足りず、兵を送る余裕がない」
その一言。
「だから、女どもを家庭においてどんどん子を産ませておけばよかったのだ。そうしていれば人手不足などにならずにすんだものを、馬鹿どもが」
持論を振りがさし、そう罵倒するレオナルドである。
しかし、そんなことをいくら言ってみたところで国内の人の数が増えるわけではない。それならば、と、他の国に支援を要請してもやはり、なしのつぶて。どこも応じようとはしない。
そもそも、レオナルドのしていることは『同盟国への支援要請』などではなく『属国への命令』に過ぎない。そんな扱いを受けて腹を立てない相手がいるわけがないのだが、『人類軍の盟主』をもって任じるレオナルドにはそのことがわからない。
「おれは全人類の代表だ。命令するなど当然ではないか」
そう思い、疑っていない。
その態度がいかに人を怒らせるか。
そんなことには考えを巡らせたこともないレオナルドである。
それでも、かつては『レオンハルトは人類最大最強の国家であり、対鬼部戦役の要』という思いから腹立たしさを押さえつつ、協力していた。レオナルドの『命令』に対しても従い、兵を送り出していた。ところが――。
レオナルドの関与しないところで外交に尽力していたハリエットやアーデルハイドを追放したときから状況は一変した。
「外交に尽力してこられた功労者を追放するような愚か者など信用できるか」と、すべての国がレオンハルト王国とレオナルドに愛想を尽かし、従わなくなった。結果として、レオンハルト王国はいまやどの国からも支援を受けられず、独力で鬼部の侵攻に立ち向かわなくてはならなくなっていた。
「そのハリエットはいまや、自分の国を作り、女王を名乗っているらしいが……」
レオナルドは関連する報告書を手早く手元に集めた。
部屋を埋め尽くす書類のなかから目当ての書類だけを迷うことなく抜き出すあたりはさすが、内政の辣腕家という貫禄だったが、それで事態が解決するわけでもない。
「……ハリエットの国にはもともとエンカウンの警護騎士団のほとんどが流れ込んでいる。そこに加えて、鬼部に故郷を追われた難民たちが続々、参加している。おかげで人口は増えつづけている。おまけに、スミクトル、オグル、ポリエバトルと言った国が積極的に協力し、連携を強めている、か」
レオナルドは苦虫をまとめて噛み潰した。
スミクトル。
オグル。
ポリエバトル。
いずれも、もともとはレオンハルトの同盟国――レオナルドの主観で言えば属国――であり、対鬼部戦役の中核だった。それがいまや、レオンハルトを見限り、ハリエットの主催する『新しい国』に協力している……。
「……なぜ、そうなる? いくら、人口が急速に増えつつあるとは言え、しょせん、都市ひとつにも及ばぬ小国、いや、国とも呼べんような烏合の衆だろうが。なぜ、そんな連中に協力する?」
もとより、レオナルドにとってハリエットは国王に楯突いた反逆者であり、追放された罪人。その罪人が自分の国を作り、女王を名乗っていると言うだけで腹立たしい。それに加えて、『属国』である国々が自分を差し置いて協力しているとなれば……。
「人口でも、軍事力でも、我が国の方が遙かに上回る。より強いものに従うのが当たり前だろうに、あえて弱者に与するとは。世の連中は馬鹿ばかりか」
内政家としてはきわめて有能ではあっても、外交というものを理解しないレオナルドである。なぜ、他の国々が自分ではなく、ハリエットを選ぶのかなど理解出来るはずがない。各国と連携していく上で重要なのは強さよりもむしろ、粘り強い交渉であり、信用なのだと言うことがどうしても理解出来ないのだ。まして、嫌われる傲慢さがなく、愛される謙虚さこそが重要などとわかるはずがない。
レオナルドとしては、目障りなハリエットの国も、生意気にも従おうとしない国々にも、まとめで軍を送って制圧し、併呑することで従わせてやりたいところである。しかし、そんな軍事力はどこにもない。対鬼部だけでももはや足りていないのだ。
その程度のことは理解している。
だからこそ、不満は高まり、噛み潰す苦虫の数は増えていく。
部屋を埋め尽くす書類の山を見てさしもの内政の辣腕家も溜め息をついた。
「……まったく、どうしろと言うのだ。いくらおれでもこれだけの量の書類をひとりでこなすなどとても出来んぞ。まわりの連中が役立たずばかりなせいで」
他にどんな欠点があろうとも、こと内政にかけては天才級と言っていいレオナルドである。そのレオナルドがこんな弱音を吐くのは、このときがはじめてだった。
実際にはまわりの人間が無能なわけではなく、レオナルドが他人を信用することが出来ず、任せようとしないのが原因なのだが、そんなことがわかるレオナルドではない。
扉がノックされ、レオナルドの後宮を管理する責任者であるデボラが現れた。
部屋を埋め尽くす書類の山にも驚かず、常人では見つけることも出来ないような隙間を選んで軽々とレオナルドの御前に参上するあたり、さすがに長い付き合いだと言うべきか。
「失礼いたします、陛下。後宮の準備が整いましてございます」
「……ああ」
レオナルドはさすがにうんざりした様子だった。
ひとりでも多くの強い我が子を得るためにいまだに後宮通いを欠かしたことのないレオナルドだが、さすがにいまの状況では子作りに励む気にはなれなかった。
「……今日はやめだ。女どもにはそう伝えておけ」
「かしこまりました」
デボラはうなずくと、部屋を出て行こうとした。
その背に向けてレオナルドが声をかけた。
「ああ、まて」
「何か?」
「そんな雑用は他の誰かにやらせておけ。少し、付き合え」
「陛下のご命令とあれば喜んで。ですが、どこに行かれるのです?」
「白鳥宮だ」
「は、白鳥宮?」
ギクリ、と、デボラの胸が鳴った。
白鳥宮。
それは王宮の中庭に作られた広大な施設である。鬼部の侵攻に備えて王都の人々の避難場所を作る……というデボラの提案、その実、『無数の白鳥に囲まれて暮らす』というデボラひとりの勝手な夢の実現のために作られた、一〇〇万羽の白鳥を住まわせるための鳥たちの宮殿である。
レオナルドはいままで白鳥宮に興味を示すことはなかった。だからこそ、デボラも安心して自分ひとりの夢を追い求めることが出来たのだ。それがなぜ、いまになって?
――まさか、真相に気が付いたの?
デボラはドレスに包まれた背中に冷や汗をかいた。
厳格で冷徹なレオナルドのことだ。騙されていたと知れば迷いなくデボラの首を刎ねることだろう。それを思うとデボラは生きた心地がしなかった。
「は、白鳥宮がどうかいたしましたか?」
「ずいぶんと多くの白鳥を飼っているらしいな」
「は、はい……」
「おれもさすがに、このところの仕事の多さにはうんざりしていてな。たまには人からも、仕事からも解放されたい。鳥たちに囲まれて一時を過ごすのもよかろう思ってな」
デボラはホッと安堵の息をついた。どうやら、デボラの企みに気付いて処罰する、と言うわけではないようだ。
「そう言うことでしたら喜んでお供いたしますわ。良き酒も用意させましょう」
「ああ、頼む」
白鳥宮。
そこはその名に恥じない場所だった。
広大な湖が作られ、数えることも出来ない無数の白鳥たちが乱舞している。
それは確かに見事な光景だった。
「ほお、これはたしかに壮観な光景だな」
風雅など興味のないレオナルドでさえそう認めた。それほどの光景だった。
「はい。わたしの自慢の設備ですから」
「しかし、ここは王都の住民の避難場所として作った場所であろう? なぜ、このように多くの白鳥を飼う必要があるのだ?」
「それは……鬼部の侵攻に震える人々の慰めになってもらえばと思い……それに、いざとなれば人々の食糧ともなりますから」
あわててそう取り繕った。
もちろん、本心で言えば王都の住人たちが鬼に食われようが、飢えて死んでいこうが、白鳥たちを食わせてやる気などない。下賤な民衆など、貴族である自分の夢のために喜んで死んでいくべきなのだ。
「ふむ、なるほどな」
レオナルドはそれで納得したようだっさた。
本来の、内政の辣腕家であるレオナルドならすぐに気が付いたはずだ。白鳥をいざというときの食糧に供するよりも、この膨大な数の白鳥に飼料として与えられる穀物をそのまま食用に回した方がずっと効率的であり、多くの人間の腹を満たせるという事実に。
そんなことにも気付かないあたりやはり、連日の激務に忙殺されて判断力が低下しているのだろう。ともかく、レオナルドはデボラとふたり、ささやかな酒宴を開いた。
美しく、広大な庭園のなか、無数の白鳥を眺めながらただふたり、静かに酒を酌み交わす。
それは確かに風流そのものの姿であり、いま、この国の、そして、人類の置かれている状況を忘れることの出来る一瞬だった。
「……ふむ。ときにはこんな一時を送るのも悪くないな」
「もちろんですわ、陛下。白鳥ほど美しい生き物は他におりませんもの」
「ふむ」
レオナルドはデボラの手で注がれた酒を飲み干した。
「思えば、お前とももう長い付き合いだな」
「はい?」
「おれがまだ女を知らぬ一〇代の小僧のときからの付き合いだからな」
「まあ、どうしたのですか、陛下。いきなりそんなことを仰ったりして」
「なに、ちょっと思い出したのだ。お前はおれのはじめての女であり、おれの最初の子の母親でもある」
「はい」
「だが、お前が歳をとり、子を産むのに適した年齢ではなくなってからも関係はつづいてきた。他にそんな女はいないと言うのにな」
「そうですわね」
レオナルドは三〇代半ば。対して、デボラはすでに五〇代。ふたりの間には親子ほどの年齢のちがいがある。
「おれにとって女とはあくまでも子を産ませるための道具だ。より強い子を産ませる。それ以外の理由で女を求めたことなどない。あの口うるさいアンドレアを妃にと思ったのも、あやつが王国で五本の指に入る剣士と聞いたからだ。そんなやつならさずかし、強い子を産むだろう。そう思ったからこそ正式に妃とすることにした。そのなかで、お前だけは子作りとは別に関係をつづけた」
「……はい」
「……もしかしたら、お前だけはおれにとって『妻』と言うべき存在だったのかも知れんな」
「まあ、どうなさったのです、陛下。急にそのようなことを仰って。陛下らしくございませんわよ」
「……ああ、わかっている。だが、無性に言っておきたくなった。さすがに少々、疲れているのかも知れん」
「まあ、それはいけませんわ。今日はごゆるりとなさってください」
「ああ、そうしよう」
レオナルドはそう言って杯の酒を飲み干した。
内政の辣腕家。
希代の法治主義者。
『獅子王』レオナルド。
そのかの人がこのように人間らしさを見せてのどかな一時を過ごすなど生まれてはじめてのことだった。そして、それは、人生最後のことでもあった。
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