八章 参戦するは勇者たち

 「ぬぐっ!」

 突然、吹いた一陣の風。

 その風に押され、声をあげたのはたて鬼部おにべである殴殺将軍ナックルベアだった。

 強靱な肉体を誇る鬼部、それも、将軍級をして声をあげさせる。それはもちろん単なる自然の風などではなかった。木々さえなぎ倒す烈風、いや、烈風と言うのさえ生温い。大地をえぐり、山さえも削る颶風ぐふう。大気そのものが実体をもった壁となってぶつかってくるような、そんな風だった。

 「三の爪、颶風」

 血と鉄の匂いが満ちる戦場にそれとは似つかわしくない妖艶な声が響いた。怒鳴ったわけではない。大きな声、と言うわけでさえなかった。むしろ、小さくささやくような声。それなのに、その声はたしかに広大な戦場全体に玲瓏と響き渡ったのだ。

 その声につづくのは何千という槍がいっせいに打ち鳴らされる音。何千という音が一糸乱れることなく同調し、たったひとつの音かと思うほどの規律正しい音だった。

 日の光を浴びて、燦然と煌めく甲冑を身にまとった軍勢がそこにいた。

 誰も彼もが汚れひとつない磨き抜かれた甲冑を身にまとい、血の曇りさえない真新しい武器を手にしている。何千という騎士たちが一糸乱れることなく整然と列を成している。その姿はまさに『精強』と呼ぶにふさわしいものだった。

 その軍勢の威風堂々たる凜々しさ、美しさは、鬼部の侵攻を受けてボロボロになったエンカウンの騎士団とはあまりにも見事な対照を成していた。

 軍勢のそこかしこに見上げるばかりに大きなレオンハルト王国の旗が掲げられ、風に吹かれてはためいている。

 レオンハルト王国の切り札、人類最強の軍勢、熊猛ゆうもう紅蓮隊ぐれんたいがそこにいた。先頭に立つのは象と見まごうばかりに巨大な黒馬にまたがった熊猛ゆうもう将軍ウォルター。

 その隣に聖女フィオナと魔女スヴェトラーナを従えて立つのは人類最強の戦士、勇者ガヴァン。

 そして、軍勢の一番奥、八頭立ての巨大な戦車に乗って戦場全体を睥睨へいげいするのは国王レオナルドその人だった。

 「ガッハッハッハッ!」

 先ほどの囁き声とは対照的な、粗暴なほど豪快な大笑が響いた。

 「またせたな、鬼部ども! ここからは、このウォルターさまか相手だ! せいぜい遊んでやるぞ!」

 熊猛将軍ウォルターが豪快な笑いと共にそう宣言する。

 その横では勇者ガヴァンが、抜き放った自慢の愛剣を肩にかけて相手を見下す笑みを浮かべて立っている。勇者に従うふたりの女性、聖女フィオナと魔女スヴェトラーナも、聖なる杖と、先ほどの颶風を解き放った魔力の紋を刻んだ爪とを掲げて並んでいる。

 そして、その奥では八頭立ての巨大な戦車に乗った国王レオナルドが腕を組みながら戦場全体を見下ろしているのだ。

 熊猛将軍ウォルターの号令が響いた。

 「さあ、出番だぞ、我が最強の軍団よ! 瀑布と化して襲いかかり、鬼部の群れを海へと追い落とせいっ!」

 叫びと共に、部下たちの誰が動き出すよりもはるかに早く先陣を切って飛び出し、鬼部の軍勢に突撃する。

 「うおおおおっ、勝った、勝った、勝ったぞおっ!」

 いつも通りの叫びをあげて鬼部の群れめがけて突き進む。普通に言えば後先考えない無謀な突撃。しかし、この男にとっては自信の表れ。常勝不敗の実績に裏付けされた余裕の象徴だ。

 「ガハハハハッ、勝ちだ、勝ちだ、勝ちだあっ!」

 そう叫びながら手にした大剣を風車のように振りまわす。行く手をふさぐ鬼たちを片っ端から殴りつけ、叩きつけ、吹き飛ばす。本来ならば相手を斬るための武器である大剣も、この男にかかっては殴打用の武器と化す。当たるを幸いなぎ倒すその姿はまさに、大好きな遊びに興じる子供そのもの。心の底から楽しそうで、血と鉄の匂いに満ちる殺伐とした戦場にはあまりにも似つかわしくない。しかし、その姿こそが部下たちに無敗の信仰を抱かせ、勝利への確信を与えるのだ。

 「うおおおおっ、勝った、勝った、勝ったぞおっ!」

 部下の騎士たちもまた主に従ってその叫びをあげ、鬼部の軍勢に襲いかかる。その勢いはウォルターの叫びどおり、まさに瀑布。山を削り、大地をえぐる懸河の勢いそのままだった。

 そのあまりの勢いに、人間よりもはるかに強靱な体力を誇る鬼たちも一瞬、怯んだ。剣に、槍に、斧に、そして、馬蹄の響きに追い立てられ、次々と海へと追い落とされていく。そこへ、弓兵たちが矢を射かける。誰に指図されたわけでもない。あまたの戦場を共に戦い抜いたものたちだからこそできる阿吽の呼吸。

 放たれた矢は次々と鬼部の肉をえぐり、骨を砕き、海面を血の色に染めていく。そのなかにあって熊猛将軍ウォルターはかわることなく最前線を駆け抜けている。

 「ガハハハハッ、勝ちだ、勝ちだ、勝ちだぞおっ!」

 そう叫びながら疾駆するその様はやはり、あくまでも楽しい遊びにのめり込む子供そのもの。無邪気で、脳天気で、そして、もはやおとなの手には負えない。そんな姿を見せられてはガヴァンならずとも苦笑せざるを得なかっただろう。

 「……やれやれ。相変わらず、子供とおんなじだな、あの兄貴は」

 「はい。ですが、頼もしゅうございます」

 そう応じるフィオナも聖女の仮面の裏でついつい苦笑をもらしている。

 「ガヴァンさま。我々もそろそろ……」

 スヴェトラーナがそう声をかけた。

 ガヴァンは苦笑をおさめ、真顔になってうなずいた。

 「そうだな。よし、行くぞ。勇者一行の出番だ」

 「はい!」

 「ああ」

 聖女が答え、魔女がうなずく。そして、ガヴァンは歩きだした。自分の獲物に向かって。

 有象無象の雑魚の相手は一般兵の役目。勇者の役目はただひとつ。敵の首魁を倒すこと。その使命を果たすため、勇者は聖女と魔女を従えて敵の首魁のもとへと歩む。殴殺将軍ナックルベアのもとへと。

 戦場に斃れたあまたの騎士たちの死体に対して一顧だにせず、靴の底で死体を踏み砕き、起きあがろうと必死にもがくアステスや、崩れそうになる膝を必死に支え、意地だけで立っているジェイに一瞥もくれることなく、まっすぐに殴殺将軍ナックルベアのもとへと向かう。

 自慢の愛剣を肩にかけ、自分よりもはるかに巨大な体躯を見上げるその表情には、相手を小馬鹿にするかのような余裕の笑みさえ浮いていた。

 「またせたな。お前を殺す男の名はガヴァン。勇者ガヴァンだ。覚えておけ」

 「ほう。勇者とな。そうか。きさまが噂に聞く人間界最強の戦士とやらか。しかし、おれを殺すとはずいぶんと大きく出たものだな。所詮、人間風情にこのおれを倒せるつもりか?」

 「『つもり』じゃなくて倒せるんだよ。何しろ、おれは勇者だからな。選ばれた勇者。お前たちの王を倒すために運命に選ばれた人間なんだ」

 「ふっ、言いおるわ。自信と無謀をはき違えたものは長生きできぬぞ」

 「過小評価ってんだよ、そう言うの。この勇者ガヴァンさまをいままで殺してきた雑魚どもと一緒にするな」

 ふたりの戦いに合図など必要なかった。お互いに相手に向けた殺気がその場に充満し、帯電して限界に達する。爆発した。その瞬間――。

 ふたりは互いに相手に向かって襲いかかった。

 ガヴァンの剣が鋭い音を立てて大気を裂き、ナックルベアの巨大な拳が唸りをあげて襲いかかる。剣と拳。人間同士であるならば勝負になるはずもない戦い。しかし、鬼部の強靱な筋力と底なしの体力、そして、分厚く頑丈な皮膚とがあれば互角以上の戦いとなる。しかし――。

 どちらが優勢かは素人目にも明らかだった。

 剣と拳が打ち合うたび、傷つくのはナックルベアばかりであってガヴァンはかすり傷ひとつ受けはしない。暴風のごときナックルベアの殴撃をことごとくかわし、剣を振るい、小さいが急所急所に傷を入れ、確実に戦闘力をそぎ取っていく。表情を見ればガヴァンの余裕の笑みはそのままで、ナックルベアの方は先ほどまでの豪快な表情はなりを潜め、焦りが浮かびはじめていた。

 「き、きさま、この力は……本当に人間なのか?」

 殴殺将軍ナックルベア。

 鬼部の将軍位にあるこの屈強な鬼部にして、思わずそう呟くほどガヴァンの強さは飛び抜けていた。

 「だから言ったろう! この勇者ガヴァンを、いままでお前が倒してきた雑魚どもと一緒にするなとな!」

 騎士団長ジェイが手も足も出なかった相手をいとも軽々と追い詰める。勇者の力はもちろんだが何と言っても条件がちがう。

 疲労度がちがう。

 腹具合がちがう。

 鎧がちがう。

 剣がちがう。

 何もかもがちがう。

 ガヴァンは疲れてなどおらず、全身が清新な覇気と活力に満ちていた。食事も質量共に充分なものをとっていた。まとう鎧は、内部に込められた魔力が、加えられた衝撃に応じて放出され、威力を相殺する対消滅鎧。振るう剣は物質の結合力そのものを断ち切る魔法の剣。

 ガヴァンの勇者としての力にこれだけの条件がそろえば、相手が将軍どころか鬼王であろうと負けるはずはなかった。そしてついに――。

 ガヴァンの剣が大木のようなナックルベアの腕を斬り飛ばした。

 怒りと、困惑と、そして、恐怖さえ込めた叫びがあがる。

 ナックルベアの腕を斬り落とした剣が宙で翻って首元を狙う。

 「覚えておけ! お前を殺したのは勇者ガヴァン! そして、お前たちの王を殺すのもこのおれ、勇者ガヴァンだ!」

 その叫びと共に――。

 ガヴァンの自慢の愛剣がナックルベアの首を刎ね飛ばした。

 そのときにはウォルターとその配下である熊猛紅蓮隊もまた鬼部の掃討を完了していた。地上にはもはやただひとりの鬼の姿もなく、そのことごとくが海へと追い落とされ、矢を射かけられ、単なる血と肉と骨の塊と化して海面を埋め尽くしていた。

 死力を尽くしたエンカウン攻防戦は、人類最強の将に率いられた人類最強の軍勢と、人類最強の戦士の参戦によっていともたやすく決着を見たのだった。

 「見事である!」

 国王レオナルドが朗々たる声をあげた。

 その口調から表情、指先ひとつに至るまで完全な満足感がみなぎっている。

 「その方たちがいれば人類は負けはせぬ! 鬼部など恐るるに足らん! さあ、今宵は盛大に勝利を祝おうではないか。遠慮は無用だぞ!」

 そして、レオナルドたちはエンカウンの門をくぐり、最前線の町へと凱旋した。整然と槍を構え、凱歌をあげながらの入場だった。

 戦場を横切り、門をくぐるまでのその間――。

 国王レオナルド。

 熊猛将軍ウォルター。

 勇者ガヴァンと聖女フィオナ、魔女スヴェトラーナ。

 そして、熊猛紅蓮隊の騎士たち。

 その誰ひとりとして戦場に斃れたエンカウンの騎士たちに注意を向けるものはいなかった。町を守るために命がけで戦い、戦場に斃れた騎士たちに敬意を払い、祈りを捧げ、遺体を回収する……そんな殊勝な真似をするものは誰ひとりとしていなかったのだ。それどころか、その遺体の数々を馬の蹄で踏み砕きながら入場したのだ。

 戦場に斃れたエンカウンの騎士たちに視線を向けているのは――。

 たった三人の令嬢たちだけだった。

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