六章 運命が集う

 「三の爪さんのつめ颶風ぐふう

 スヴェトラーナの左手の薬指。その爪に刻まれた魔力の紋が輝き、膨大な魔力が解き放たれる。解き放たれた魔力は解放されたことを喜ぶように空を舞い、風となって吹き荒れる。ほとんど固形物と化した、息をすることさえ許さないすさまじい風が鬼部おにべの軍勢に襲いかかる。あまりにも強烈な風を叩きつけられ、さしもの屈強な鬼たちも一瞬、怯んだ。その隙を見逃すような熊猛ゆうもう将軍ウォルターではない。髭に包まれた大きな口が大きく開き、大地も割れよとばかりに巨大な声が指令を発する。

 「弓兵! 矢を放ていっ!」

 命令一下、身長ほどもある長弓を構えた弓兵たちが弦を引き絞り、鋼鉄の矢を一斉に射放した 。単なる鋼鉄の矢ではない。炎の呪がかけられた特性の矢だ。突き刺さった途端、鏃から炎を放ち、相手を内側から焼き尽くす。いくら人間とは比べものにならない頑健な肉体をもつ鬼たちであろうとも、内部から焼かれてしまえば抵抗できるはずもない。撃ち込まれたが最後、死ぬしかないのだ。

 その必殺の矢がいま、スヴェトラーナの起こした颶風に乗り、通常では考えられないほどの疾さと勢いで鬼部の軍勢に襲いかかる。普通であれば、人間の放った矢など天井から吊した球を打つように払いのけることのできる鬼たちだ。しかし、目も開けていられない風に襲われているとなれば話がちがう。そこへ、通常の何倍もの疾さで無数の矢が射込まれる。さすがに、対処のしようがない。

 無数の矢がうなりをあげて鬼たちの肉体に突き刺さり、鏃が炎を発して内部から焼き尽くす。鬼たちの苦悶の叫びがあがり、前線が崩れる。ウォルターの、颶風さえ吹き飛ばすような大声が響き渡る。

 「よしっ! 敵の前線が崩れた。いまだ! 全軍突撃いっ!」

 その命のもと、鎧兜に身を包んだ騎士の一団が鬼部の軍勢に襲いかかる。

 もちろん、ウォルターのことであるから命令するだけして自分は後方に控えている……などということをするわけがない。自慢の大剣を背中から抜き放ち、全軍の先頭に立って突撃する。

 「ガハハハハッ! 勝った、勝った、勝ったぞおっ!」

 そう叫びながら大剣を振りまわし、むやみやたらに突撃する。その声も態度もやけに楽しそうで、ついついまわりの苦笑を誘う。この陽気な猛将の声が聞こえる限り、配下の騎士たちは自分たちの勝利を信じることができるのだ。

 「勝った、勝った、勝ったぞおっ!」

 将軍にあわせて配下の騎士たちも同じ叫びをあげながら突撃する。騎士たちはあるいは剣を、あるいは斧を、あるいは槍を振りまわし、風と矢に攻められ、すでに怯んでいる鬼たちを草でも刈るかのように打ち倒していく。

 騎士たちの振るう武器ももちろん、ただの金属の塊などではない。魔力を付与され、その切れ味を極限まで高められた特性の武器たちだ。その効力のおかげで鬼よりはるかに膂力で劣る人間の騎士でさえ、鬼たちの頑健な肉体を易々と切り裂けるのだ。

 「ガハハハハッ! 勝ちだ、勝ちだ、勝ちだあっ!」

 心の底から楽しそうに笑いながら、ウォルターは突撃を繰り返す。

 その姿を後方から見ていたガヴァンが思わず苦笑を浮かべた。

 「……我が兄ながらまったく、どうしようもない戦好きだな。あれではまるでオモチャを前にした子供と同じだ」

 「でも、効果的です。あの声を聞くことで騎士たちは勝利への確信をもつことができるのですから」

 フィオナの言葉にガヴァンはうなずいた。その表情には勇者としての揺るぎない自信が満ちている。

 「ああ、その通りだ。フィオナ。さあ、ダメ押しをくれてやれ。兄貴たちが好きなだけ鬼どもを斬り刻めるようにな」

 「はい。ガヴァンさま」

 フィオナもまた自信の笑みを浮かべると、聖なる杖を天高く振りかざした。杖の先端に付けられた水晶に膨大な魔力が集中する。

 「全能にして至高なる神よ! 汝の栄光のために戦う忠実なるしもべにご加護を!」

 杖から光が放たれ、天へと昇り、雲までも射貫く。無数の光の粒が雨となり、熊猛ゆうもう紅蓮隊ぐれんたいの騎士たちに降り注ぐ。

 細胞という細胞を賦活化し、身体能力を格段に高める強化魔法。決して高度な魔法ではない。しかし、これほどの広範囲にわたって、これほどの効果を与えるなど、レオンハルト王国広しと言えどもそんな真似ができる人間は他にはいない。

 王国一の聖女。

 その銘に偽りなし。

 そう言い切れる力だった。

 フィオナの魔法によって強化された騎士たちはさらに勢いに乗り、鬼部の軍勢を圧倒する。ウォルターの陽気な叫びが響く。

 「全軍を魚鱗の陣に編成! 瀑布と化して襲いかかり、敵を分断! 敵大将までの道を切り開けいっ!」

 騎士たちの練達振りは褒められてしかるべきものだった。鬼部を相手の混戦にも関わらず即座にウォルターの指示に従い、全軍の陣を再編成し、戦力を一点に集中して叩きつけたのだ。並の練度の部隊ではこうはいかない。熊猛紅蓮隊がいかに鍛えられた部隊かを示す出来事だった。

 熊猛紅蓮隊はそれ自体が一本の巨大な矢となって鬼部の軍勢に襲いかかった。さしもの鬼部の軍勢がたまらず、真っ二つに両断される。その奥に見えるのは軍勢を指揮する鬼将。

 「よし! おれの出番だっ!」

 それまで後方に控え、見物に徹していた白き鷹の勇者ガヴァンが叫んだ。有象無象の相手など一般の騎士の役目。雑魚敵など目もくれず、敵大将と一騎打ちしてこれを討ち果たす。それこそ、人類最強の戦士たる勇者の役目。

 ガヴァンは人とも思えない速度で駆け出した。たちまちのうちに突撃する熊猛紅蓮隊を追い抜き、鬼将に迫る。自分たちの将を守ろうと周囲の鬼たちが殺到する。魔女スヴェトラーナがたおやかな左手をあげ、厳かに口にする。

 「一の爪、劫火ごうか。三の爪、颶風。共鳴。炎の嵐」

 スヴェトラーナの左手の人差し指と薬指、その爪に刻まれた紋から魔力が放たれ、すさまじい炎と風に姿をかえる。ふたつの力は空中であわさり。共鳴し、より強力な炎の嵐となって荒れ狂い、鬼たちに襲いかかる。

 魔爪まそうもん

 爪に魔力の紋を刻み、魔力を蓄えておくことで強力な魔法をたやすく、しかも、立てつづけに放てるようにする呪法。戦いにおいて極めて有効な手段だが、危険も大きい。何しろ、膨大な魔力を爪という損傷しやすい場所に込めているのだ。生半可な制御力ではたちまち魔力が吹き出し、自分の身を焼いてしまう。

 その魔爪の紋をしかも、これほどの威力で完璧に使いこなす。スヴェトラーナの底知れない魔力容量と制御力の高さを示す出来事だった。スヴェトラーナこそは紛れもなく、王国随一の魔女だった。

 鬼将の取り巻きたちはスヴェトラーナの生み出した炎の嵐によって一掃された。残るは敵大将たる鬼将ただ一体。そこへ、ガヴァンが余裕の笑みを浮かべて襲いかかる。鬼将は太刀を抜き放ち、立ち向かう。しかし、遅い。信じられないほどの速度で肉薄したガヴァンは腰の剣を引き抜くやいなや、水平斬りの一撃で鬼将を真っ二つに両断してのけた。

 鬼部の頑健な肉体も、将軍用の重厚な甲冑も関係ない。ガヴァンの振るう剣はもちろん、ただの剣ではない。膨大な開発費を注ぎ込んで作られた傑作、剣身に込められた魔力によって物質の結合力そのものを裁ち切り、分断してしまう無敵の剣。その無敵の剣を人類最強の戦士が振るうのだ。この世に斬れないものはない。

 自分たちの大将があっけなく倒されたことに、さしもの鬼たちも衝撃を受けたのだろう。鬼部の軍勢は見るからに怯んだ。そこへ、ウォルター率いる熊猛紅蓮隊が襲いかかり、海へと追い落とす。鬼部の軍勢は壊滅し、鬼部に制圧されていた城は人類の手に取り戻された。

△    ▽

 ――よかった。

 戦いの終わりを見てハリエットは安堵のあまり、額の汗を拭った。ハリエットは剣も魔法も使えない。戦いの場では出番がない。戦いのときは常に後方に控え、勇者一行のみの場合はアイテムや装備品を管理し、今回のように熊猛紅蓮隊との合同作戦の場合は救護班を指揮し、怪我人の救出と搬送、治療に当たっている。

 自分の役割が戦場で直接に戦うフィオナやスヴェトラーナに劣っているとは思わない。人々の生命を繋ぐ大切な役割だ。その自負がある。それでも――。

 共に戦うことができず、後ろで見ているしかないのはやはり、辛い。

 「さあ、皆さん! 戦いが終わったいまこそ救護班の出番です。人類を守る騎士たちの生命を救うため、励んでください」

 内心の思いを振り払うかのように救護班に向かって声をかける。補給担当がよってきて心苦しそうに報告する。

 「その……医薬品の数が足りません。すでに、底をついています。これでは全員に充分な治療を施すことなどとても……」

 「……そう」

 「水も足りません。傷を洗うための清潔な水が。かと言って、飲料水を使うわけにはいきませんし……」

 「傷口を覆うガーゼも、包帯も足りません。みんなの衣服のなかから清潔な部分を切り取って、煮沸消毒した上で使っていますが……」

 「それから、食糧も不足しています。干し肉どころか、パンや、非常用のビスケットさえ尽きかけています。このままでは帰り道では全員、道ばたの雑草をむしって食う羽目になります」

 相次ぐ報告にハリエットは溜め息をついた。どうにかしなくてはならないが、どうにもならないことばかりだ。補給路に対する鬼部の攻撃が激しさを増して以来、物資の供給はひどく滞っている。民間人のための物資はおろか、優遇されている軍、そのなかでも最優先の扱いを受けている熊猛紅蓮隊でさえ、満足な物資を得られない。このままでは戦いが続けばつづくほど補給は難しくなり、戦えなくなっていくだろう。一見、圧倒的な勝利を得たように見えても、その裏ではすでに破滅の足音が近づいている。

 ――それなのに、ガヴァンさまも、ウォルターさまも、そのことに気付こうとしない。このままでは……。

 ハリエットはかぶりを振った。いまはとにかく、限られた医薬品を最大限に効率よく使い、ひとりでも多くの騎士を救うことだ。それが、戦場に立つことのできない自分の役割なのだから。

△    ▽

 ウォルターとガヴァン一行、そして、配下の騎士たちによって奪還されたウィスラー城ではいま、豪勢な勝利の宴が開かれていた。とは言っても、床や壁は激しい戦闘によってボロボロだし、あちこちに血の跡も残っている。普通ならば『宴を催す』などと言う雰囲気ではない。それでも、

 「この血の跡こそ我らの勝利の証明、我らの強さの証よ!」

 と、高らかに笑いあげるウォルターの声によって、後始末ひとつしないままに宴が開かれたのだ。

 宴の場には酒と肉が山と積まれ、出席を許された少数の上級騎士たちの哄笑が響いている。

 「いや、しかし、お見事な戦い振りでしたな。心より感服いたしましたぞ」

 ウィスラー城のもともとの持ち主であるスミクトル公国。そのスミクトルから派遣された将軍がウォルターの杯になみなみと酒を注ぎながらそう口にした。

 「我々が総力を結集しても奪還できなかったこのウィスラー城をこうもたやすく制圧するとは。さすが、人類最強の熊猛紅蓮隊と勇者さま。あなた方さえおられれば人類の勝利も時間の問題ですな」

 「ガハハハハッ! そうとも、そうとも、もっと褒めろ!」

 「その通り。勇者の名にかけ、必ずや人類に勝利をもたらしてみせる」

 ウォルターが叫び、ガヴァンが宣言する。その言葉に周囲から歓声が巻き起こる。

 「おおっ、頼もしい、素晴らしい。さあさ、どんどん飲んでくだされ。これからも頼りにしておりますぞ」

 宴はいつ果てるともなくつづく。ウォルターのまわりには美女たちが並んで酌をし、ガヴァンの左右にはいつも通り、聖女フィオナと魔女スヴェトラーナが控えている。しかし、そこに、ハリエットの姿はない。

 『勝利の宴とはあくまでも戦い、勝利したものだけが参加できる場所だ。戦いもせずに安全な場所に引っ込んでいたやつに出席する資格はない』

 という、ガヴァンの方針によって出席することを許されていないのだ。これまで、一度も許されたことはなかったし、これからも決して許されることはないだろう。ハリエット自身、ガヴァンの言い分を認めて勝利の宴に顔を出すことはなかった。しかし、今回ばかりはこれまでとは事情がちがった。

 歓声の場にそれとはちがうざわめきが起きた。宴の席を突っ切って、小柄で華奢な女性が、その愛らしい顔に真剣な表情を浮かべ、静かな怒りを宿しながらやってくる。

 ハリエットだった。

 ハリエットは迷うことなくガヴァンたちの前に出ると、小さな体で堂々と胸を張り、言ってのけた。

 「熊猛将軍。勇者さま。あなた方は一体、何をなさっているのです?」

 「なにをだと? 見てわからんか。我らの勝利を祝っているのだろうが」

 「ハル! きさま、何をしにきた⁉ ここは勝利を祝う宴の席だ。戦えもしない役立たずが来ていい場ではないぞ」

 ウォルターが答え、ガヴァンが叫ぶ。その表情にはあからさまな怒りと嫌悪感が表れている。フィオナとスヴェトラーナのふたりもガヴァンに同調するように言い放った。

 「ガヴァンさまの仰るとおりです。あなたにはこの場にいる資格はありません」

 「自らも肩を並べたいなら、戦場で役に立つようになることだな」

 ジロリ、と、ふたりの美姫を睨み付けて黙らせると、ハリエットはウォルターとガヴァンに向き直った。ハリエットはあくまでこのふたりと話をしにきたのであって、取り巻きを相手にする気などなかった。

 「熊猛将軍。勇者さま。わたしは宴に出席しにきたのではありません。抗議しにきたのです」

 「抗議だと?」

 「そうです。いま、我が国では鬼部による補給路の攻撃が激しさを増し、物資の供給が滞っているのはご存じのはず。我が軍でもすでに食糧が不足し、一般の兵たちはひどい耐乏生活を強いられているのですよ。それなのに、あなた方をはじめ、上級の騎士だけがこのような豪勢な宴を開くなど……」

 「この肉と酒は我々が生命を賭して奪ったもの、鬼部どもに勝利し、奪い取ったものだ! それを飲み食いして何が悪い⁉」

 轟、と、ウォルターが吠えた。名にしおう熊猛将軍の怒声である。大の男であっても魂の奥底まで縮みあがり、逃げ出すことだろう。しかし、ハリエットはちがった。小柄で、華奢で、どう見ても荒事の場になど立っていられなさそうな男爵令嬢はしかし、ウォルターの怒声にもびくともせず、真っ向からにらみ返した。

 「生命を賭して戦ったのはあなた方や上級騎士だけではありません。一般の兵も同じです。この山のような肉をかの人たちに分ければ、それだけで一般兵の栄養状態は改善されます」

 「黙れ!」

 もう耐えられん、とばかりにガヴァンが思い切りテーブルを叩いた。さしもの頑丈なテーブルも勇者の一撃には耐えられず、粉々になって崩れ落ちる。上に載せられていた酒や肉も一緒に落ちて砂利混じりのゴミになってしまった。

 「一般兵がどうしたと? 鬼部の王を倒すのはおれだ、この白き鷹の勇者ガヴァンだ! そのおれが誰よりも食い、飲むのは当然のことだろうが。きさまの言う一般兵のことなど気に懸けて、おれの体力が衰えたら誰が鬼部の王を倒す? もっとも強きものが、もっとも強き敵を倒すために、もっとも食い且つ飲む。その当たり前のことがなぜ、わからない⁉」

 「自惚れないでください」

 「なんだと⁉」

 それは、勇者たる身に対してあるまじき暴言だったろう。ガヴァンは気色ばみ、椅子を蹴倒して立ちあがった。フィオナとスヴェトラーナも美しい顔に怒りを露わにした。まるで邪眼の主でもあるかのようにそろってハリエットを睨み付ける。

 ハリエットはそんな視線を無視してガヴァンに言い放った。

 「ガヴァンさま。あなたはたしかに世界で唯一の勇者、人類最強の戦士です。ですが、あなたお一人で無限に出現する鬼部を倒すことなど叶いません。まして、あなたお一人で世界中の人々を守ることなどできないのですよ。あなたがこうして制圧された城を奪還して回っていられるのもその場その場で軍が踏みとどまり、鬼部の侵攻を防いでいるからです。こうしてウィスラー城を奪還できたのもエンカウンの町が防波堤として鬼部の主力を引きつけてくれているから。だからこそ、鬼部はこの城に援軍を送ることもできず、攻略できたのです。そして、そこで戦っているのは勇者でもなければ上級騎士ですらない。名も無い一般兵なのです。一般兵の働きがなければあなたは討伐の旅などできないのですよ。その一般兵をないがしろにしてどうしますか!」

 「きさま……」

 ガヴァンの怒りが危険な水準にまで上昇した。

 その暴発を防いだのはウォルターの面倒くさそうな一言だった。

 「ああ、もうよい!」

 ウォルターは『シッシッ』とばかりに手を振りながら言った。

 「黙って聞いておれば補給がどうのと。そんなことを聞かされるのは、あの口さがない女ひとりからで充分だ。ガヴァン。お前は自分の女房となる女にどんなしつけをしている?」

 「悪い、兄貴。すぐに追い出す」

 「熊猛将軍。勇者さま。わたしは……」

 「黙れ! すぐにこの場から出て行け。さもなくば力ずくで叩き出すぞ!」

 「そう叫ぶガヴァンの目には本物の憎悪さえ浮いていた。

 ――これ以上は斬られる。

 ハリエットもさすがにそう感じ取り、引き下がらざるを得なかった。内心の悔しさを隠すために大きくうつむき、スカートの裾をつまんで優美な貴族風の挨拶をしてその場を後にした。身をひるがえして歩き去るハリエットの可憐な唇からは、くやしさのあまり噛みしめた血がにじみ出ていた。

△    ▽

 ウィスラー城の中庭。

 そこでは勝利の宴に出席することを許されなかった一般兵たちが、地面に上に直接、座り込み、食事を取っていた。

 ――宴との何というちがい。

 兵たちの食事風景を見てハリエットは小さい拳を握りしめた。

 ――ここには肉もない、酒もない。みんな、ふすまと豆の粉でできたボソボソとした非常用のビスケットを黙々とかじり、乏しい水で飲み下しているだけ。人間の健康に不可欠な野菜すらここにはない。しかも、血や肉片の飛び散ったままの地面に座り込んで。こんな環境で食事などしていてはいつ、大規模な疫病が発生してもおかしくない。それなのに、ウォルターさまは『この血と肉片こそ勝利の証!』と、叫んで、清掃さえ許さない。こんなことでは……。

△    ▽

 「先行しての道中での魔物退治、補給地点の設営、敵主力をウィスラー城から引き離すための陽動。ご苦労さまでした。あなた方の働きに比べればあまりにもわずかですが、お約束の謝礼です。どうか、お納めください」

 ハリエットはスミクトル公国の将軍に財貨のたっぷり詰まった木箱を差し出した。スミクトルの将軍モーゼズはその箱を神妙な面持ちで受け取った。その表情は、宴の席でウォルターたちにおべっかを使い、ご機嫌取りに終始していたときとはまるで対照的な、重みと風格のある、まさに『武人』と言ったものだった。

 ハリエットはモーゼズ将軍に向かって深々と頭をさげた。

 「申し訳ありません。勇者パーティーや熊猛紅蓮隊が道中、魔物の襲撃に煩わされることもなく、城に残った千鬼長と親衛隊だけを相手にできたのは、あなた方が生命を懸けて戦ってくれたからだというのに、ガヴァンもウォルターもそのことにまるで気付こうとしない。それどころか、自分たちだけで勝利を得たかのように振る舞い、スミクトル公国の宿将たるあなたに、まるで太鼓持ちのような役目をさせる始末。その非礼はとうてい許されるものではありません。ふたりにかわって謝罪します。また、改めて、みなさまの働きにお礼申し上げます」

 「何の。お気になさるな、ハリエットどの。千鬼長とその親衛隊は我ら、スミクトルの騎士団では手に負えないのは事実。その難敵を倒してくださったのは間違いなく勇者どのと熊猛紅蓮隊。強きものに敬意を払うのは武人として当然のこと。当たり前のことをしただけです」

 モーゼズはそう言って笑ったが、その言葉を額目通りに受け取るにはハリエットはおとなすぎた。そしてまた、強く握りしめられたモーゼズの拳が小刻みに震えているのを見逃すには敏感すぎた。

 「それより、ハリエットどの。あなたこそ大変でしょう。何しろ、各国との交渉やら、協力関係の構築やらをたったお一人でなさっておいでなのですからな。勇者どのはあなたにもっと感謝するべきだ」

 その言葉にハリエットは優しく微笑んだ。

 「ありがとうございます。ですが、剣も魔法も使えないわたしにとってはこれが唯一、勇者パーティーのために出来ること。自分の役割を果たせることは幸せと思っております」

 「やれやれ。あなたはまさに妻たるものの鑑ですな。いや、ガヴァンどのがうらやましい」

 モーゼズはそう言って部屋を辞した。ひとり、残されたハリエットはそのまま執務台に向かった。

 宴の後、ガヴァンたちが寝室に引き取り、男女の時をたっぷりと楽しんでから夢の園に埋没した後も、ハリエットはひとり、仕事に追われていた。

 不足する物資を補うためにウィスラー城周辺での狩り、薬草の採集、海水を蒸留しての真水作り……と言った仕事を手配し、怪我人を休ませるための医療室を整備し、戦死者の遺体を埋葬し、墓を作り、遺品を整理して、感謝の手紙と共に遺族に送る。捕虜にした鬼たちを尋問して得た情報をまとめ、王都に送る……それらの膨大な仕事が『戦えないから』という理由ひとつでハリエットひとりに押しつけられるのだ。ハリエットの仕事量は膨大なものだった。

 「……城周辺の鳥や獣たちは予想通り、鬼部に狩り尽くされていてほとんど収穫はなかった。でも、海の魚や貝は採れたし、薬草もある程度は集まった。真水も時間さえかければ海水を蒸留して作ることができる。これで、どうにか急場はしのげる。でも……」

 こんなその場しのぎの補給で長続きするはずもない。対鬼部戦役を戦い抜き、勝利するためにはもっと根本的な補給体制の見直しと強化が不可欠だ。それなのに……。

 「……ガヴァンさまもウォルターさまも補給のことなんて頭にない。あのふたりはたしかに強い。でも、強すぎる。そのために戦場で剣を振るうだけですべてが解決すると思い込んでいる。戦場から一歩、出た場所のことに気が向かない。説得しようにもわたしはまったく信用も評価もされていないし。いまは、アーデルハイドさまが私財をなげうって補給の維持に努めてくださっているけど、エドウィン家の資産だけでいつまでも持つはずがない。一体、どうしたら」

 まさに深刻きわまる疑問だった。ハリエットが頭を振ったとき、音高く扉を開けて、ひとりの伝令兵が転がるように室内に入ってきた。

 「エンカウンより急報! かつてない大規模な鬼部の軍勢が動き出したとのこと!」

△    ▽

 ハリエットが伝令兵からの急報を聞いた、同じ頃――。

 レオンハルト王国の王宮にも同じ報告が届いていた。

 「陛下!」

 いつも通りの騎士装束に長剣という出で立ちのアンドレアが、凜々しい顔立ちをさらに引き締めてレオナルドの前に現れた。

 「エンカウンより急報が届きました。鬼界島にてかつてない規模の鬼部の軍勢が出撃準備しているとのこと。一気に決着を付けようとの腹づもりではないかとのことです」

 「ほう、そうか」

 その戦慄すべき報告にも一切あわてる素振りさえ見せず、その一言だけですませたのはレオナルドの王としての胆力を示す出来事として評価されてよかっただろう。レオナルドは獰猛な笑みを浮かべると言った。

 「いよいよやつらも本気を出したというわけか。ならば、その本気の軍勢を蹴散らせば戦局は一気にこちらに傾くというわけだ」

 レオナルドは立ちあがった。笑みをたたえて宣言するその姿にはたしかに、王者としての風格が漂っていた。

 「おれ自ら行くぞ! 全軍を率いてエンカウンに赴き、鬼どもを蹴散らしてくれる!」

 前線の町エンカウン。

 そこに、宿命の男女が集まり、世界の運命が動き出そうとしていた。

               第一話完

               第二話につづく




 

 

 

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