ハートボイルド

ラビットリップ

第1話 事件の発端

観光バスから吐き出された外国人観光客が、炎天下の中、市内を案内するボランティアガイドのまいどさんに連行され、大人しく兼六坂を上っていく。廣田郁恵は、金沢地方裁判所三階にある評議室の窓から、ぼんやりとその様子を眺めていた。 

評議室では、昨年七月に起きた「若草町IT企業社長殺人事件」の評議が朝九時から行われている。

この殺人事件は、裁判員制度が採用されており、昨日までの四日間で審理が終わり、今日から三階にある評議室で裁判官三名と裁判員六名による評議が始まっていた。午前中は荻原裁判長の進行で事実認定が行われた。

 この事件は、昨年の七月十四日、金沢市立野田中学校にほど近い、二十五階建ての高級賃貸マンション、セレーヌ若草町十四階の一室で起きた。被害者は、インターネット検索サービス「イーグル」の経営責任者、浮田弘泰(四十歳)であった。日本で有数の検索サイトの社長が殺されたとあって、マスコミを通して世間の注目を大いに集めた。

 浮田弘泰は、寝室で何者かに心臓を一突きにされ殺害された。第一発見者は、修学旅行で北海道から帰ってきた一人娘の和希(十三歳)。殺害に使用された凶器は、ベッド横に落ちており、和希が技術の時間に使用していた工具箱から抜き取られたマイナスドライバーだった。

 容疑者として逮捕されたのは、妻の浮田(旧姓:立花)京香(三十三歳)である。京香は夫の遺体が発見されたときから行方不明であり、捜索願が出ていた。妻は遺体発見から四日たった十八日、午後十時頃、金沢市と富山県南砺市を結ぶ山道・国道三〇四号線の県境辺りにぽつりと立っているところを、近くを通った住民から通報され、保護された。保護されたときは、TシャツにGパンという格好でありながら、血まみれの状態であったという。Tシャツに付着していた血液を調べたところ、殺害された夫・浮田弘泰さんの血であることが判明したため、容疑者として逮捕される運びとなった。

 取り調べにおいて浮田京香は、日頃から夫に執拗にDVを受けており、事件当日も夫が暴力をふるってきたため、そばにあったマイナスドライバーで刺したと供述し、自ら正当防衛を主張してきた。しかし動機以外の取り調べに関しては、

「昔、腹膜炎をやった。」

「男女間の愛は幻想であり、そのことが全ての過ちの原因になりうる。人は錯覚に基づき、感じ、考え、行動している。その錯覚が人間しか創造し得ない膨大な幻想を生み出しているとしたら、愛の過ちは素晴らしい人類への贈り物である。愛想のものが幻想なら、自分自身は案外、愛の真実の姿を典型的に、もっとも過激に生きているのかもしれない。」

などと意味不明な供述を繰り返し、取り調べは非常に難航したという。そして被害者に対する謝罪の言葉は、一切聞かれなかった。

 検察側による起訴後、裁判員裁判制度を取り入れて裁判が行われることが決まった。その後、弁護士による請求により、公判前整理手続きの中で、裁判所が選任した医師による精神鑑定が行われた。その結果、京香は犯行当時、心神喪失状態にあり、刑事責任能力がない、と診断された。

 

 七月二十八日から始まった「若草町IT企業社長殺人事件」の裁判員裁判では、まず四日間において審理が行われた。冒頭手続から始まり、証拠調べ手続、弁論手続と進む中、京香はずっと俯いた姿勢で、自身が幼い頃に流行していた歌を床にぽたぽたとこぼすように歌い続けていた。

 裁判長が途中、歌をやめるように制しても

「人は死ぬ、必ず死ぬ、絶対死ぬ、死は避けられない。」

と軽く笑いながら低い声で刺すように呟き続け、法廷の温度を一気に下げるような行動に出た。四日目にあった被告人による最終陳述では、

「全体的に、醒めない夢を見て起こったというか、夢を見ていたというか・・・。」

と語り始め、最後に裁判官三名と裁判員六名に対して満面の笑みを送ってきた。


 弁護士側は、被告人・浮田京香は日頃から夫・浮田弘泰から酷いDVを受けており、事件が起きた日も、浮田弘泰が暴力を振るってきたため、傍にあったマイナスドライバーで身を守ったから起きた事件であるとし、正当防衛を主張。また被告人の生い立ちにも言及してきた。被告人が十歳の時に、父親が強盗強姦事件を起こして逮捕され、刑務所に収監されたことがあり、この後、両親が離婚し、三歳上の兄と共に母子家庭で育つなど、恵まれなかった生育環境で育ったことを挙げ、こちらも考慮して欲しいと訴えた。そして精神鑑定により刑事責任能力なしとの診断も受けているため、この角度からも無罪を主張してきた。

 一方、検察官側は、公判前整理手続きに基づき、今回の争点に照らし合わせ、求刑を行った。

 まず、被告人・浮田京香が夫に殺意があったのか、と言う点について、凶器となったマイナスドライバーが心臓に対して垂直に刺さっており、即死状態であったこと、特に目立った争った形跡が見られないことを挙げ、明確な殺意を見て取れる点を主張した。

 二つ目、精神鑑定において心神耗弱状態にあり、刑事責任能力がない、と判断された点に関しては、夫からDVを受けていたと動機を語るときは、涙を流し詳細に語るのに、肝心な犯行状況等、逃走状況等の話になると、意味不明な供述を繰り返す行動を挙げ、作為性を被告人から感じるため、責任能力はあると判断したこと。

 三つ目、計画的犯行に関しては、娘が修学旅行中に起きた事件である点を挙げ、端からこの時期に殺害しようと計画していたのではないか、と主張した。

以上の点をふまえ、懲役二十年の論告求刑がなされた。

 浮田京香は検察官による論告求刑の間も、ずっと笑みを絶やさず、童謡を歌い続けていた。

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