第6話 #5
「こんばんは。可愛いお客様だね」
その人がそう言うと、ハルカさんは軽く手を叩いて笑った。その人の声はまるで、声帯に風鈴がついているのかと思えるほど綺麗だった。そして、地毛とは考え難いほど鮮やかなピンク色の髪の毛が風に揺れてサラサラとなびいている。好きなマンガのキャラクターに寄せているのか、尊敬しているピンク色の髪の毛の人がいるのだろうかと色んな想像が僕の頭を駆け巡る。その髪が何よりも印象的だった。
「チハル、私と同じようなこと言ってる!」
「だってさ、ここに私たちぐらいのお客さん来るの久々じゃない?」
「まぁ確かにね。大体いつもヒデさんぐらいのオジサンが来るもんね」
ヒデさんと呼ばれたカウンターに座る男の人は、ハルカさんの方を向いて右手を上げた。ここの常連さんなのだろうか。すると、ハルカさんと話す女の人が再び僕とダイキをじろりと見た。印象に残った髪の毛もさることながら、マンガのキャラクターのように人間離れしているくっきりとした二重瞼。けれど、どこか親近感を感じる優しい垂れ目が僕の心を和ませてくれる。その目を見つめていると、またその人と視線が合い、僕は直視しきれずに慌てて視線を逸らした。
「初めまして。チハルです。キミたちは?」
「オレはダイキ! んでこっちは親友のカケル!」
「こ、こんばんは。初めまして。カケルです」
「髪の毛、綺麗なピンク色だな!」
「ふふ、ありがとう。私も気に入ってるんだ」
普段より大きな声で彼女の髪を褒めるダイキ。ダイキが大きい声を出している時はテンションが高い時か、焦っているのを悟られないようにする時。今はどっちだろうか。むしろ両方だったりしそうだ。チハルと言ったその人は、じーっと僕らを見つめると、ふふふと落ち着いたトーンで微笑んで羽織っていたコートを脱いだ。紺色のドレスが彼女の美しさを一層際立たせていて、そのドレスから覗かせる肩の白い肌が彼女の色気を何倍にもしているようだった。
「カケルくん。ダイキくん。よろしくね」
彼女はそう言ってカウンターの中に入り、奥の方へ消えていった。再び戻ってくる頃には両手には何も持っておらずそのままの流れでハルカさんの隣に立った。つまり、僕の目の前に来た。彼女から漂ってくる薔薇みたいな上品な匂いが僕をさらに刺激する。カウンター越しなのにさっきよりも距離が近くなった気がして僕の脳内は今にも破裂寸前の緊急事態に陥っていることは彼女は知る由もないだろう。
「カケルくんが飲んでるの、ハルカスペシャルだよね」
「あ、はい。さっきハルカさんが作ってくれて」
「めっちゃ美味しいよね。それ。私も好きなんだ。ハルカ、私の分も作ってよ」
「チハルはすぐ酔うからダメ。また今度ね!」
「酔わないって。最近、めっちゃ強くなったから」
「いやいや! いつもそう言ってすぐに潰れてるから!」
あははと笑いながらチハルさんは自分用のグラスにも飲み物を入れた。さっきハルカさんが使っていたひょうたんみたいな形をしている特徴的なペットボトルの中身を一気飲みしていた。
「今私が飲んだシュワシュワしたやつ、お酒に見えるでしょ」
僕がじっと見つめていると、チハルさんはグラスを持ってそう言った。
「そ、そうですね。違うんですか?」
「これはね、ただの炭酸水なんだ。こういう場所で得体の分からない飲み物を見たら大体お酒だって思っちゃうよね」
「た、たしかに」
くいっとグラスを傾けてチハルさんはその炭酸水を飲み干した。刺激が強いのか、飲んだ後に体をぶるぶるっと軽く震わせていた。その仕草ひとつで僕は文字通りイチコロになりそうだったので慌てて目線を変えた。その流れで彼女の顔を見ていると、今世間で流行っているアイドルグループの女の子に見えた。名前は覚えていないが。名字は西野?だった気がする。隣のダイキとハルカさんは知らない間に話が盛り上がっているのか、ダイキの話をハルカさんが手を叩いて笑っていた。僕もチハルさんを笑わせなければと思うと、妙に体に力が入った。
「チ、チハルさんはっ!」
「うん?」
焦る僕をチハルさんはじーっと見つめる。その目を見ているだけで僕は彼女に魔法をかけられそうになりそうで焦る。
「お、おいくつなんですか?」
しまった。第一声がそれか。女性に年齢を聞くなんてデリカシーが無さすぎる。僕は思いっきり自分を殴りたくなった。できるのなら5秒前に戻してほしくなった。するとチハルさんは何かを悟ったように優しく笑った。
「よく聞かれるの。カケルくんは何歳だと思う?」
「え……」
僕は世界で一番難しい質問の回答を迫られた。正常に機能していない脳を必死にフル回転させて1つの答えを導き出した。
「は、ハタチとか?」
僕の問いに対してチハルさんは、ハルカさんと同じように手を叩いて笑った。流石に若く見積もりすぎたか。逆に失礼なことを言ってしまったかもしれない。僕の背中に冷や汗が流れて、顔からもそろそろ汗が出てきそうになるくらい額がじんわりとしてきた。
「ハルカぁー! 私、ハタチに間違われちゃった!」
「えぇー!? カケルくん、優しすぎでしょ」
「え?」
僕はチハルさんに時間を止められたように彼女の目を見つめた。呼吸をすることさえ忘れて慌てて呼吸を整えた。
「私とハルカはね、来年で30になりますっ!」
「え……」
「ええぇえー!?」
僕とダイキは同じタイミングで明らかに声量を間違えた声を出した。さっきハルカさんがミクさんと言った女の子とその前に座る男の人、ヒデさんと言っただろうか。その人たちも驚いた顔で僕の方を見ていた。
「す、すいません」
「ホントだよ! 耳の鼓膜破れそうだった!」
ハルカさんが笑いながらダイキの使っているグラスにあの液体を再び注いでいる。そしてチハルさんも笑いながら僕を見ている。
「キミ、意外と声大っきいんだね」
「い、いやちょっとびっくりしちゃって」
「私、ハタチに見えるの?」
「い、いや、決して子どもっぽいとかそんなんじゃなくて! ただ、芸能人に似ている人がいて、その人がハタチくらいだった気がして」
「あぁ、西野綾瀬ちゃんだよね。よく言われるんだ」
そうだ。綾瀬だ。西野綾瀬だ。僕はその名前をこれからずっと覚えていられる気がした。やっぱり彼女はその人に似ていると言われるんだ。話題が繋がって安心したのを悟られないように意識した。
「や、やっぱり! 似てますもん」
「あの子はもっと若いよ。私なんか、もう三十路だし」
「いやいや。でもガチでおれよりは年下に見えたんですけど」
「正直、ハタチには見えなかったでしょ?」
「は、はい」
そう答えた僕を見たチハルさんは、ダイキみたいに口を大きく開けて笑って僕の肩を軽く叩いた。
「正直か! カケルくん!」
「あ、あはは……」
楽しい気持ちは本当だ。この人ともっと話したい。この人のことをもっと知りたい。その気持ちは本当なのに、表情や自分の気持ちを上手く表現出来ない。普段の生活で笑ったりすることなんか滅多に無いし、こうして女の人と話すのもいつぶりになるか分からない。僕はこんな時に自分をコントロールしきれない自分を心底嫌になった。僕もチハルさんを楽しませたいのに。嫌悪感と罪悪感を抱きながらチハルさんを見ると、チハルさんは、まるで桜が咲いたように綺麗で優しい笑顔を僕に向けていた。僕はこの瞬間、心臓が再び飛び跳ねた。心臓と一緒に体全体が飛び跳ねた気がする。
「カケルくん、面白いね」
「お、面白くないですよ、おれなんて」
こういう時、ダイキなら彼女の言葉に対してユーモアを絡めた発言が出来るんだろうけれど、何せ僕は女の人に面白いと言われたことが無かったのもあり、彼女の言葉を否定することしか出来なかった。僕がモジモジ頭の中で色々と考えているとチハルさんの隣にいるハルカさんがぐいっと僕の席に近づいてきた。
「チハルー! そっちだけで盛り上がらないでよー!」
「えー? ハルカもダイキくんと盛り上がってたじゃん」
「じゃあオレも入れてもらって4人で喋ろうよ! 絶対、そっちの方が楽しいだろ」
「えー? ダイキくん、さっきから自分の話しかしないからなぁー」
「え? い、今からハルカのこと色々聞きたかったんだけど」
「ふふ。調子いいこと言ってさ。分かった! じゃあ2人のこと、教えてよ」
「オレたちのこと?」
「うん! 何でもいいからさ! チハルも興味あるよね?」
「うんっ! 聞きたい! 最近、BLのマンガにハマってるから尚更!」
「ハハ! その期待には添えられないと思うよ」
「冗談だよ。じゃあダイキくんから話してくださいっ! それで! そのあとはカケルくん!」
チハルさんの軽やかに話す声を聞いていると、不思議と心が暖かくなって楽しい気持ちになる。僕は少しずつ体温も上がっているように体が熱くなっていた。
「交互に話していく形かぁ。けど、オレもハルカやチハルのことについて色々聞きたいんだけど」
「じゃあカケルくんが話したら私たちも自分たちのことを話そっか」
「そうしよっか。じゃあ、ダイキくん、カケルくん、ハルカ、私の順で話をしていこう。じゃあスタート!」
何の前触れもなくそれが始まった。僕は何を話せばいいのだろうか。チハルさんがさっき、ダイキからと言ってくれて本当に助かった。ダイキが話している間、僕は必死に話題を探した。ダイキが話していることを聞く余裕なんかあるはずもなく、ダイキが話し終えそうなタイミングに差し掛かると、僕の心臓は分かりやすく脈を強く打ち始めた。
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