【35】黒ノ森のその先

 ◆◆◆◆


「本当、気味が悪い森……」


 馬を走らせ帝都を飛び出した私は、人と夜叉の地を分断する〈黒ノ森〉へとやってきた。

 日が高いうちに着いたにもかかわらず、森の中はまるで夜のように闇が支配していた。木漏れ日すら射し込まないほど鬱蒼と木々が生い茂る様子から、一度踏み入れたら二度と出ては来られないという、あの言葉も強ち嘘ではないと思わざるを得ない。


「怖気づいている場合じゃないのよね。この森を抜けられるかどうか、確かめなきゃ」


 〈常闇ノ謌〉は私に牙を向くか、それとも導く歌を歌ってくれるのか。震える手を握りしめ、自らを奮い立たせるように力強く頷いて一歩を踏み出した。

 それからしばらく進んでみたけれど、捕まえた夜叉の男が言っていた〝歌〟とやらは一向に聞こえてこない。静寂が支配する夜の森が目の前に延々と広がっているだけで、枯れた枝葉を踏みつける渇いた音だけが虚しく響いていた。


「……本当に、歌なんて聞こえるのかな?」


 何の変化も起きないことに不安が過り、私は立ち止まって振り返った。まだ入口の光が見えるから、ここで引き返すこともできる。諦めることも――ふと弱音を吐きたくなるほどに、この森に広がる闇と静寂は心を弱らせていく。


「どうして歌が聞こえないの? もしかして、生粋の夜叉じゃないから〈常闇ノ謌〉は私を導いてはくれないのかな……?」


 そうだとしたら、別の方法を考えなければ。黙っていても反応が無いのなら、残された方法は後一つしかない。〈常闇ノ謌〉は、私が人間だと判断して導いてくれないのだとしたら、夜叉の力を使えば導いてくれるのではないだろうか。


「うん……迷ってる暇はないよね」


 きっと上手くいく、そう言い聞かせて目を閉じだ。

 呼吸を調え、周囲に耳を傾け、自らの内側にある妖力に神経を集中させた。白狼(ハクロウ)の力を解放しようとしたけれど、まだ手に入れたばかりで、どう扱えばいいのか全く感覚が掴めなかった。

 祈ればいいのか、解放しろと心に命令すればいいのか。どちらも試したけれど、力はうんともすんとも反応しない。


「もうっ! ここで使えなきゃ手に入れた意味がないのにっ!」


 頬を叩いたり、腕をつねってみたりしてみたけれど、それでも力は表れない。じれったくて、腹立たしくて、私は傍にあった木の幹を思いっきり蹴飛ばした。

 おそらく、その湧き上がった苛立ちの感情に反応したのかもしれない。悪寒のような感覚が背筋を駆け上がり、その後を熱が追いかけてくる。気づけば、肩から胸元に下がった髪が銀色に染まっていた。


「そっか、白狼(ハクロウ)の力は怒りに反応するのね」


 この感覚を憶えておかなければ。そう思った矢先のことだった。



 ―― リーンッ……



 風の音すら届かなかった森の中に突如として音が響いた。それは玲瓏な鈴の音に欲似ている。それに呼応するかのように、突然、辺りが薄らと明るくなり始めた。

 闇の中に黄金の光が一筋現れ、闇の奥へ奥へと、遥か先に向って伸びていく。まるで、こっちに来いと呼んでいるかのようだった。


「〈常闇ノ謌〉は、夜叉の里へ導く歌を歌ってくれる……あの夜叉が言っていたことって、このことだったのね」


 私はその光と音を頼りに、黒ノ森の奥へと足を進めた。

 それからどのくらい歩いただろうか。慣れない道のせいか疲労で足は棒のようだし、息も切れて今にも立ち止まりそうだった。

 あとどのくらい歩けば夜叉の里に辿りつけるのだろう。言葉にできない愚痴を心の中で呟いて、溜息をつきながらも先へ進む。ふと聞こえていた鈴の音が止み、導いてくれた光が消えると共に、森の出口へと辿り着いていた。


「黒ノ森を抜けたの……? それじゃ、この先が夜叉の地!」


 さっきまでの疲れが嘘のように、一瞬にして体から吹き飛んで無我夢中で森の外へと駆け出した。

 目の前に広がった光景に、私はただただ言葉を失い魅入っていた。

 夜叉族の住む大地は草木一本生えないほど荒れ果てていると聞かされていたけれど、実際は全く違っていた。豊かな緑が広がり、見渡す限りに花々が咲き乱れる、まるで桃源郷のような美しい場所だった。そして、その地に根を張る木々は銀色に近い白い幹と葉をつけている。それが〈月下大樹〉だった。



 ―― 私は自分の目で見て確かめたものしか信じないのよ



 ふと、お師匠様の言葉が耳の奥で響いた。

 そういえば昔、お師匠様は夜叉の地に行ってみたいと言っていた。言い伝えを信じて反対した私に〝それが事実だって証拠は何もないわ。世の中に出回る全てのことが正しいとは限らない。だから自分の目で確かめに行く〟と、言うことを聞いてくれなかった。

 お師匠様の言うことはきっと間違っている。あの頃はそう思っていたけれど、間違っていたのは私の方。何だか悔しくて、少しだけおかしい。やはり、まだまだお師匠様には勝てそうにない。


「お師匠様が帰ってきたら、ここの話を聞かせてあげなきゃ」


 疲れていたこともすっかり忘れて、群生する〈月下大樹〉のもとへ駆け寄った。

 私が想像していた以上に、それは何もかもが白に染まっていた。葉は薄氷のように白く透き通り、幹は雪を包み込んだ水晶のよう。触れると壊れてしまいそうで恐る恐る幹に触れた。


「綺麗……この世界にこんな美しい植物があるなんて。近くで見ると、ますますこの世のものとは思えないわ」


 どのような環境が揃うと〈月下大樹〉が生まれたのだろう。寒さに強いのか、それとも暑さに強いのか。寄宿舎の薬草園で育てることはできるのか、その仕組みや条件を夢中になって探っていたことで、周囲の気配に気づけていなかった。

 風を切り裂く鋭い音を響かせ、一本の短刀が〈月下大樹〉の幹に突き刺さった。

 驚いて振り返ったとたん、目の前に刀の切っ先が突き付けられる。気づいた時にはすでに遅く、十数人の夜叉に取り囲まれていた。


「なぜこの地に人間が……お前、どうやって黒ノ森を抜けた? あの森は我ら夜叉の者しか抜けられないはずだ」


 この状況はさすがにまずい。

 刀を突き付けている男の言葉に間違いがなければ、この地に人間が来ることはほぼ皆無。おまけに古の時代から対峙してきた種族が夜叉の地に踏み入れたのだから、穏やかでいられるわけがない。命を奪われるか、囚われの身となるかのどちらかだ。

 せっかく〈月下大樹〉が見つかったというのに、ここで捕らえられては元も子もない。けれど、ここは下手に動かない方がよさそうだ。

 刀を向ける男と目が合ったとたんに睨みつけられ、さらに刀を突き付ける。ここで怯んではこっちの負け。少し大袈裟に胸を張り、目の前にある刀を指先で軽く押し退けた。


「どうやってって、歩いて抜けてきたんです。自分の足で森を抜けました」

「お前が? 馬鹿を言うな! お前は人間だろう」

「〈夜叉ノ契〉を受けました。だから、人間だけど白狼の力も使えます」


 それを聞いた男の表情が一変する。今にも噛みつきそうな形相がふと緩み、一瞬驚いたように目を丸くしたかと思えば、今度はフンッとわざとらしく鼻で嘲笑した。


「なるほど〈半狼はんろう〉か」


 半狼――どうやら夜叉族の間では、生まれながらの夜叉ではない者のことをそう呼ぶらしい。私にとって呼び方などどうでもよかったのだけど、なぜかその言い方が癇に障る。明らかに馬鹿にしている態度が腹立たしい。


「ここへ来た目的はなんだ? この地に攻め込むための偵察か?」

「違います! 私は〈月下大樹〉の花を採りに来ただけですっ」

「……なぜ人間のお前がこれを必要とする?」

「知り合いに、夜叉の血で苦しんでいる人がいるんです。その人を助けるために――」

「嘘をつくな!」


 割り込んできたのは若い少年の夜叉だった。歳は私と同じくらいだろうか。黄金色の瞳と白い肌に映える赤毛が美しくて、思わず魅入ってしまうほどだった。

 若いせいなのか、それとも夜叉という種がそうさけるのか。少々血の気が多いらしく、食ってかかってきたかと思えば、彼はすぐさま白狼(ハクロウ)の力を解放して威嚇してきた。


「よせ、力を使うな」

「でも!」

「いいから、おさめろ」


 仲間に叱られ、彼は舌打ちをして渋々力をおさめた。それでも怒りが治まらないらしく、今にも飛び掛かってきそうな勢いを残したまま、瞬きひとつせずに私を凝視していた。


「人間の言うことなんて信用できません。きっと何か企んでるに決まっています!」

「……女子供といえども、人間に変わりはないか」


 何を企んでいるのか、それを見透かそうと見つめる視線ほど居心地の悪いものはない。

 企むも何も、私は一度たりとも夜叉を襲ってやろうなんて考えたことはない。どれだけ見つめられようと、企みなんて滲み出るわけだないのだ。


「里へ連れて行くぞ。長の判断を仰ぐ」


 それを合図に、夜叉達は私を取り押さえた。

 力では圧倒的に不利。ここで下手に抵抗すれば命はないかもしれない。とりあえず、今は大人しく従って様子を見ることにした。

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