黒き龍の香術師~偽りの婚約者、承ります~

野口祐加

第1章 偽りの婚約者、承ります

【1】黒き龍

 日が沈み、町に薄らと夜の色が落ち始める。

 昼の賑やかさを残しながらも、妖しさと危険さが入り混じった夕暮れ独特の賑わいが町を包み始めた頃、田舎町〈ショウジョウ〉の外れにある私の調香屋〈菫青堂きんせいどう〉には、今日も己の恋の行く末を占ってもらおうと、酒屋の娘が一人、店を訪れていた――


「アオバ、どうなの?」

「焦らなくても大丈夫だよ。反応はこれからだから」


 そう言い聞かせてみたものの、アヤメの耳には届いていないみたい。机を挟んだ向かいの席から身を乗り出し、目の前に置かれた香炉を食い入るように見つめている。

 唇をぎゅっと噛みしめ、握り合わせた手に力を込める様子を見ても、アヤメの思いがどれだけ強いのかが窺える。ゆらゆらと立ち昇る細い煙の向こう側で、じれったそうにしている姿を見やりながら、私は香炉に手を翳した。

 ゆっくりと宙で円を描きながら、そっと問いかけるように内なる妖力を香に注ぎ込む。香はそれに呼応するように、チチッと燃えながらさらに煙を放った。

 白色の煙は瞬く間に玉虫色へと変わり、生きているみたいにアヤメの体をぐるりと包み込む。しばらくゆらゆらと波打ったあと、蝋燭の炎を吹き消すようにフッと途切れた。


「……ど、どうなの?」

「今の反応からすると、幼馴染みの彼はアヤメに気があるのは確かだよ」

「本当!?」


 さっきまで不安な顔をしていたのが嘘みたいに、アヤメの表情はパァっと眩しいくらいに明るくなった。言葉一つで一喜一憂するのは、きっと恋に心を支配されている者だけが患う風邪みたいなものなのかもしれない。


「確かに気があるんだけど……でも、少し迷ってるみたいだよ?」

「えっ!? ま、迷ってる?」

「煙の動きが不安定だったから。想いを伝えてしまったら今までのような仲のいい関係が壊れるんじゃないか、自分のせいで気まずくなってしまうんじゃないかって思ってるみたい」

「あいつ、そんなこと考えてたんだ……そんなことないのに」


 アヤメは相手の想いを知って嬉しい反面、躊躇いを覚えていることにどこか不満の入り混じる溜息を小さく吐いた。

 受け身でいればいるほど、煮え切らない相手の行動に苛立ちと不安は募る。だからといって、自ら強引に行動を起こして嫌われてしまったらと考え、結局は二の足を踏んでしまう。女心とはとても複雑なものだ。


「彼が躊躇っているのは、それだけアヤメを想ってるってことだよ」

「そうなのかな……ねぇアオバ、私はどうしたらいい?」

「お互いを想ってることはわかったんだから、焦る必要なんてないよ。後は彼から想いを伝えるように仕向けるか……」

「仕向ける? 例えば?」

「まずは二人きりになる場を作らないとね」

「ふ、二人きりっ!」

「強引にでも雰囲気を作って、相手に意識させるのも必要だと思う」


 スッと勢いをつけて席を立ち、窓際にある作業場の机から練香ねりこうが三つ入った巾着を持って戻り、それをアヤメの手に握らせた。

 淡い桃色の絞り柄の巾着を手の平に乗せ、右から見たり左から見たり。鼻を近づけて犬みたいに匂いをいで柔らかく微笑んだ。


「いい香り。これは何に使うの?」

「火を灯すとね、香りを放ちながら星みたいに輝きながら光るの。私に貰ったから一緒に見ようって誘ってみたら?」

「……わかった、やってみる。アオバ、ありがとう。私、頑張るね!」

「あっ、そうそう。お婆ちゃんに、これ渡しておいて」


 勢いよく立ち上がったアヤメに、もう一つ用意していた包みを差し出した。

 淡い紺の麻袋に入ったそれを手に取ったアヤメは、最初こそ首を傾げていたけれど、微かに洩れ出す香りで気が付いたらしく「あっ」と声をあげた。


「いつもの薬香。少し多めに作っておいたから」

「ありがとう! これでお婆ちゃんの機嫌も直るわ」


 と、アヤメはニッと微笑んで麻袋を胸に抱きしめた。


「一昨日に切らしちゃって、急遽きゅうきょ別の薬香を買いに行ったの。でもお婆ちゃんが〝アオバちゃんの薬香やくこう以外は使いたくない〟って、子供みたいに駄々こねちゃって」

「そう言ってもらえて嬉しいわ」

「すぐに帰って、お婆ちゃんに渡すね。それじゃ、今日はありがとう! また来るね」


 占い代を香炉の傍に置き、アヤメは足早に店を飛び出していった。

 パタンと戸が閉じ、先程までの賑やかさが嘘のように、店内は静けさを取り戻す。

 香炉を片付け始めた丁度その時、静寂を割るように、遠くの方で時刻を知らせる鐘が鳴った。一つ、二つ、三つと鳴り響く。アヤメと話し込んでいたから気づかなかったけれど、すでに巳ノ刻みのこくを過ぎていたらしい。


「この時刻なら、もうお客さんも来ないだろうし。今日は店じまいね」


 手早く香炉を片付けて外へ出た。

 店の向いにある酒場から微かに漏れ聞こえる男達の笑い声を聞きながら、軒下に吊るした提灯ちょうちんの火を消して今日の仕事はおしまい。再び店へ戻り、注文票を片手に作業場の机に向かい、依頼された香の調合に取りかかった。

 乳鉢に香料のもととなる粉末と蜜蝋を入れ、丁寧に混ぜながら練香ねりこう作りに没頭していると、不意に、キィと音をたてて戸が開いた。


「すみません、今日はもう店じまいで――」


 そう断りながら、手元に落としていた視線を入口へ向けた。そこには漆黒の闇を切り取ったような、黒い外套を羽織った男が立っていた。

 歳は30くらいだろうか。すらりと背が高く、戸に頭が掠りそうなほどだった。顎から首筋にかけて斜めに縦断する大きな古傷が痛々しく、ついそこへ目をやってしまう。

 その姿に圧倒されつつも、頭からつま先までなぞるように身形を確認した。外套がいとうの胸元には紅い薔薇と黒龍の紋様の刺繍が施されている。それだけでもかなりの高価なものだけど、その足元もまた下駄や草履ではなく編み上げの革靴だった。

 知っている――あの紋様は間違いない。カイドウ帝国軍〈黒龍隊こくりゅうたい〉の剣士の証だ。それにしても、黒龍隊の剣士がこんな夜更けに何の用だろう。


「すまない、ここは調香屋だよな? あんたは香術師?」

「えぇ、そうですけど……?」

「ならば、妖術を扱えるな?」


 あまりにも当たり前な問いに首を傾げながら、こくりと頷いた。

 調香屋を営む者は〈香術師こうじゅつし〉と呼ばれ、生まれながらに妖の力である〈妖力ようりょく〉を操ることができ、その力を用いて特殊な香を作る。それは私に限らず、調香屋の看板を掲げている者ならば扱えて当然。むしろ、その力がなければ店を開くことすらできない。なぜそんなことを訊ねるのかわからず怪訝けげんな顔をしてしまった。


「一応……香術師ですので」

「助かった! 実は、頼みがあるんだ」


 少々険しい顔つきだった彼が、明るい笑顔を見せたかと思うと、外套の下からぐっと力強く、私に向けて手を突き出した。その手にはだらりと力なく下がった腕が握られていたものだから、驚きのあまり心臓がドクンッと跳ねあがった。

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