第十五話 鼓動に触れる ①
ううむ。
と、唸ってみる。
別にわざわざそんな事をしなくてもいいんだけど、一人暮らしをしてからなんて事ない言葉を口に出す癖が増えたような気がする。
目の前にはボウルの中に、ワカメとツナとレタスを和風ドレッシングで和えた海藻サラダがある。菜箸で摘み上げ、弁当箱の端に詰めて見るが、彩りは最悪だ。
パセリと春菊の天ぷら、ワカメごはん、ブロッコリー、海藻サラダ、オクラとはんぺんの炒め物。ちなみにもずくのパックを別に持っていこうと思ったが流石に思い直した。
弁当で茶色一色というのは良く聞くが、まさか緑一色の弁当なんて江月も見たことが無いだろう。
いや、しかしこれは江月が悪いのだ。と、責任転換してみる。
冷蔵庫にこんな物しか入ってきないタイミングでデートに誘う方が悪い。
普段しない揚げ物を作ってみたりとか、肉魚類が皆無だったのでツナ缶を使ってみたりと、それなりに努力はしてみたが、どうも微妙な中身の弁当が出来上がりそうだ。
昨晩、江月から急に電話が来てデートに誘われた。やたらとデートという単語を強調していたので、多分、そういうことなんだろう。
しかし、スーパーに買い物に行く時間もないため、冷蔵庫の残り物で弁当を作る羽目になってしまっている。
しかし、江月の性急な態度にも思い当たる節はある。
申し訳ないとは思う。告白をされて、キスも拒まずにいるのに、まだ彼女に恋をしているとは言えないのだ。
そのうち、江月に愛想を尽かされるのでは無いだろうか。そういう焦りも私にはあったりする。
好きという気持ちはどういう感情なのだろう。
かつての私は、好きとか愛とかそういう感情を理解できな物だと諦めていた。だが、江月に会って、私はそれを理解したいと思い始めている。
だからこそ、顔を真っ赤にしながら唇を近づけてきた江月に身を委ねたのだし、明日のデートだって、実を言うとかなり楽しみにしていたりする。
そりゃ、私だって江月を好きだと言いたい。でも嘘はつけない。
だから嘘じゃ無いと、本当に心の底から愛しているのだと、そう思えるその時を今も待ち焦がれている。
「おはよう、椎本」
今日は海浜公園で待ち合わせだった。広々とした公園には、家族連れやカップルの姿が多く見られる。
江月は秋らしくデニムジャケットを羽織っている。思わず笑う。デザインは違うものの、私もデニムジャケットを着てしまったからだ。
「上着被っちゃったね」
江月も同じ事を思った様で、私が近づくと笑いながらそんな事を言う。しかし、私の方は、小さい体型を隠す為のオーバーサイズだが、江月はもともとスタイルが良いので同じデニムでも与える印象は真逆だろう。
「それで、どこ行くんだっけ?」
「まずは、近くの水族館に行こうか」
言いながら江月は手を差し出す。反射的に握り返すと、江月の方が顔を赤らめた。
「今日はデート、だもんね」
「良かったよ、椎本がちゃんとデートだって認識しててくれて」
流石にそこまで礼儀知らずでは無い、と思う。いや、どうだろう。江月からすると、結構私は厄介な相手なんだろうな。
我ながら、なかなかに面倒くさい人間だと思う。
「じゃあ、行こうか」
江月は私の手を引く。周囲は私達のことがどう見えているのだろう。
一瞬、そんなことを頭に過ったが、関係ない、と思い直した。
既に私の世界は、江月だけがいればそれで良いのだと思い始めているのだから。
思えば水族館は、小学生の頃に行ったきりかもしれない。私も江月も、あまりこういう所ではしゃぐ様な性分では無いので、一つの水槽の前で二、三言を交わすだけだ。その大抵はなんでもない感想で、どういう訳か言葉が少ない筈なのに、お互いに何かを雄弁に語っている様な気もしてくる。
「わ、触れ合いコーナーだって」
見るとヒトデとナマコが子供用プールみたいなビニールの中に雑に置かれている。子供の多くは畏れ知らずで躊躇せず触っているが、ある程度の年齢までいくと、不思議と触るのに戸惑うようだ。
手を伸ばして見る。ナマコの滑りが妙に気色悪いが、それはそれで何となく貴重な気がする。
「うわ、椎本こういうの結構得意なタイプ?」
「どうだろう……。でも、折角だし触ってみようかなって」
言いながら、水の中に戻す。
そういえば、魚は人間の体温でも火傷をしてしまうと聞いたことがある。ナマコはどうなのか知らないけど、もしナマコも例に漏れず火傷をするのだとしたら申し訳ないことをした。
とはいえ、触れ合いコーナーにあるのだから、多分問題はないのだろうけど。
「どう?」
「なんていうか……、ちょっとクセになる感触だったかも」
私も江月も、魚のようなものだ。他人と距離を置きすぎて、今は互いの心の温度で互いに火傷をしている。きっと、その傷を舐め合える関係を江月は望んでいるのだろうけど。
水族館もそこそこに、今度は再度公園に戻り、昼ご飯を食べることにした。
日は出ているが、少し寒い。最近の秋はやたらと足早で、この調子ならすぐに冬が訪れそうだ。
ビニールシートを敷いて、江月の前で弁当箱の蓋を開ける。ワカメごはんは、二つに分けてあるが、オカズは一つの大きな弁当箱に詰めておいた。
「なんか渋いね」
江月はパセリの天ぷらを摘んで苦笑した。パセリは育てるのが楽なので、窓際の鉢植えで育てている自家製だ。
「私から作るって言っておいてなんだけどさ、スーパーも閉まってて、ウチにある材料使ったらこんなんになっちゃった」
「でも残り物でこういうちゃんとしたオカズを作れるのって、ちゃんと料理できる人って感じで尊敬するなぁ」
「本当はさ、卵焼きとか唐揚げとか弁当っぽい物食べさせてあげたかったんだけどね」
まぁ、今後もそういう機会はあるだろう。そう思うと、何となく帰りはスーパーに寄って料理の練習でもしてみようかなと考え始めてしまう。
「で、味は?」
「うん、美味しいよ。椎本に毎日ご飯作って貰いたいくらい」
「それってプロポーズ?」
さりげない江月の言葉には、深い意味はなかったようだ。私が冗談めかしてそんな事を言った途端、江月は頬を紅潮させた。
私は、もしかしたら江月のこういう表情も好きなのかもしれない。
「え、いや、そういう意味はないけど、でも、そうだね。椎本と毎日一緒にいたい、それに……一緒に暮らしたいくらい…好き」
恋は女の子を大胆にさせる。
なんて昭和なキャッチフレーズは本当の様だ。段々と江月は私に対して無防備になっていく。そしてそれは、私にとって、キスをするよりもずっと心を動かされるもので。
なんというか、誰かに想われることのくすぐったさが、異様な程に私を純真にさせていく。
でも
想われることは嬉しいけど、それは好きだという気持ちを向けられたことによる高揚感に過ぎない。
多分恋とは、愛とは、尽くすことなんだろうと思う。お互いに想い合わなくては、不公平だ。それでは、あまりにも江月に対して不義理過ぎる。
「ね、椎本。触ってもいい?」
昼食を食べた後、近くの自販機で買った温かいお茶を飲みながら、何となしに寄せては返す波を眺めていると、江月が身体を少し寄せた。
「いいよ」
どこを?とは訊かなかった。多分意味ないと思ったからだ。
紅月に触れて欲しくない部分なんか無い。それに、心とか過去とかそういう抽象的な形の無い部分に於いても最早そんなものは無かった。
私の諾意を受け取ると、紅月の細くて長い指先が私の首筋に触れる。
「ね、椎本。普段あんまり食べてないでしょ」
「え?どうかなぁ、どうして?」
「首の血管。普通はさ、脈測る時って結構時間かかるじゃん?集中しなきゃ感じ取れなかったりするし。でも指当てただけで直ぐに分かるからさ」
「太れないって訳じゃ無いんだけどね。どっちかって言うと、食べられないって言った方が正確かも」
多分、同年代の女子と比べると少食な方だろう。それに食欲より怠惰が勝つときも多々ある。
しかし江月は急にどうしたのだろうか。
そんなことを思っていると、首筋に触れたまま、江月は唇を寄せた。
以前とは違う、ディープなやつだった。少し驚いて、目を見張る。
「——少しだけ、ドキドキしてくれたね」
悪戯っぽく笑う江月は、赤面した江月の次くらいに可愛い。
それは今日一番の発見なのかもしれない。とはいえまだ、午前が終わっただけだ。
午後はどれだけの新しい江月を知ることが出来るのだろう。
そして、どれだけの新しい江月を知ることができれば、私は彼女に素直に惚れているのだと思えるようになるのだろう。
いつか、と私は言った。
そのいつかは、間違いなく近づいてきている。そんな気だけはしていたのだった。
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