第四話 落下文字 ①

 私の目から見た人間という生物は、醜い訳でも美しい訳でもなく、等しく全てが自然とそこにある風景のようなものだった。

 勿論、そこに人がいると認識できるし、知人や顔見知りであれば、それぞれ個々人として認知している。しかし、どうしても景色と融和しているような気がしてならないのだ。

 風景画のリアリズムを表現するためだけに疎らに配置された人影のようで、きっとその感覚こそが、私自身の他人に対する認識の表れなのだろう。もしかしたら、それは他人だけに収まらず友人や親兄弟が含まれるのかもしれない。

 それを疑う余地がある程度には、私は他人との繋がりを求めない性格だった。

 過去形の表現になってしまうのは、私の視界が絶えず映し出していた風景画の中に、突如として人物画のように存在感を放つ者が現れたからだ。

 忽ちそれが視界に入るものなら、無意識のうちに視線で追ってしまうし、包含的な景色ではなく一個人に対して大きな価値を感じてしまう。

 それはリアリズムのみ求めた街の風景画ではなく、山水画に描かれるたった一人の人間のように存在感がある。

 人間、素晴らしい絵画を発見すると当然の如く作者を知りたくなるしそのバックボーンも気になってしまう。

 私にとって素晴らしい絵画とは椎本楓のことで、そんな彼女を育て上げた両親や彼女がこれまで歩んできた人生そのものが多少なりとも気になりだしていた。

 というのも、同じ中学出身の塚本が語った「被害者」というワード、高校生には不自然な一人暮らし、彼女が時折見せる翳りのある表情。しばしば顔を覗かせる彼女が背負っているであろう暗い影を、私は不謹慎にも覗いてみたくなったのだ。

 それは悪趣味なのだろうか。

 しかし、出来ることならその背負う物を少しでも軽くする事ができたなら、と。

 少し前の私であれば、考えもしなかったそんな想いが、私の背中を押していた。



 駅前の混雑ぶりは、平日だというのに何故かいつもより多く感じられる。

 私の知らないだけで、意外と平日の昼間から大人は遊び歩いたりしているものなのだろうか。

 滅多なことでは会社を休むことのない父を想像しながら、私は暑さとそれを増長させるかのような人の雑踏に少しだけ顔を顰めていた。

 ウインドウショッピング、なんて洒落た言葉を使う程でもなく、街を散策していた私は、不意に一つのポスターが目に入った。

 ファーストフード店の壁に貼られたバイト募集のポスターだ。バイト中の椎本がやけに大人っぽく見えたせいか、それとももっと邪な理由なのか。

 私自身定かではないが、どうせ予定の一つもない夏休みを利用してバイトの一つでもやってみるのはいいかもしれない。

 珍しく自主的にアクティブなアイデアが浮かんできたが、愛想笑いを振りまいて接客する自分を想像つかないし、出来る気もしない。

 裏方に回れるようなバイトであればありがたいのだが、と、思ったところで、意外な姿を見つけた。

 小柄な体躯を上下に揺らしてひょこひょこと少々滑稽にも映る歩き方は、塚本に違いなかった。いつも一緒にいる矢嶋が側に居ないのは珍しい。

 街をぶらつくだけなのも、飽きてきたところだ。

 暇潰しの相手として塚本はこれ以上ないくらい最適だ、あまり気を使う必要もない。

 ドーナツ屋へ入っていく塚本を追いかけていくと、待ち時間の少ないメニューを注文したのか、混み合う店内で既に腰を下ろしていた。

 まるで旧知の人物に話しかけるように隣の客に塚本は喋りかける。知り合いなのだろうか、よく見れば私と同じ制服だし、背丈も後ろ姿もどこかで見覚えがある。

 話しかけられた女性は、塚本の方を向いた。その横顔は、私にとって見覚えがあるなんてものではなかった。

 椎本楓。

 私の中の何かを変えた、あの椎本だった。

 椎本は塚本の顔を見て、僅かにまつ毛を伏せるように俯いた。

 塚本も塚本で、どこかバツの悪いような表情を見せてはいるが、二人の会話は途切れ途切れでも続いているらしい。

 確か二人は同じ中学校の出身だったはずだ。となれば、積もる話でもあるのだろうか。

 注文もせず、席にも座らない私がその時感じた居た堪れない感覚は、ドーナツ屋への配慮という形で生まれでたものではないことは明白だった。

 なんとなく。

 なんとなくだが、自分の知らない椎本の過去を共有できる人間が存在していて、それを目の当たりにしていることが、不思議と私の心をざわつかせていた。

 心情を事細かく描写した一人称視点の小説の主人公のように、私も自分の心の動きを寸分の差異なく把握できたらいいのに、と思ってしまうことがある。特に最近はそれが多い。

 まるで私の心が、私とは違う自我に目覚めたように、私自身すら理解できない心情を私の理解を得られぬまま湧き上がらせるのだ。

 そして、その理解できない心の動きは、やがて私の意に反して身体をも支配してしまう。

 気づけば私は視線を逸らしたまま、踵を返して再び雑踏のなかに紛れ込んでいた。

 私の両の脚がどこへ向かっているのか分からない。

 ふと気づけば、収まりのつかない身体の火照りが、妙な苛立ちが、僅かな不安が、私の全てを支配している。

 それは衝動というのだろうか。薄暗い感情に分類されるような理由であるくらいなら、衝動という青臭い理由の方が幾分かマシだ。

 そうでなくては、私は私が最も忌避している醜い感情を讃歌する人間になってしまっているのと同義だから。

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