3題SFファンタジー短編集

Ri.Coil

待ち人

 月にも海が存在する事はご存知だろうか。地球上から宇宙に浮かぶ月を眺めた時に、模様の様に映る濃い色の箇所を指す。国によってはこの模様をウサギと呼んだり、カニと呼んだり。本を読む婆と表現する人もいるようだ。無論、実際にはその様な生き物どころか、魚1匹この海には存在しない。そう、本来であれば──


『ハッ…ハッ…ハッ…』


 船外用のヘルメット内で自分の呼吸が鈍く響く。当然だが酸素の消耗は抑えねばいけない。だが今の私にはそんな宇宙飛行士の常識など頭に無かった。


『ハッ…ハッ…もう少し、近場で、車を、停めるべきだなっ…!』


 思わず愚痴が溢れるもペースは乱さず無心に歩を進める。そもそも仲間達にはただの観測任務だと偽って来ているのだ。GPSを辿られないように我慢するしかない。このクレーターを越えればもう静かの海だ。この辺りに居るはずだが中々見つか──


「やぁやぁやぁ!今日も来たね!良い天気だなっ!」

『うわっ!?』

 背後から飛びつかれ思わずバランスを崩し。麓へ転げ落ちる寸前で、何か細長いモノが巻きつき難を逃れた。またこれか。


『ッ──危ないだろ!?何度言えばわかる!』


 振り向き様に文句をぶつける私を、宇宙服も無しに宙に浮かぶ“奴”はケラケラと笑い眺めていた。


「いやいやだってさ。毎度毎度反応が可愛くてそっちが悪いよね?だからついついやっちゃうんだよ。ほら、許して?」

 

 大きく真っ赤に裂けた口からはすらすらと聞き馴染んだ日本語の言い訳が垂れ流され、腰元から伸びる尻尾が少しずつ私を手繰り寄せる。彼が手の本数を除けば人間らしい動体と、比較的──爬虫類の様な目と巨大な口、それとやたら太く長い巻角以外は──友好的な顔立ちを持っていなければ、今頃私は猛ダッシュで基地へと逃げ帰っているだろう。


『全く…明日から来なくてもいいか?』


 バイザー越しに思いっきり不満げな顔を奴に見せつける。途端、余裕ぶった笑顔が焦りだした。

 

「あーそれは困る困る困る!謝るから明日もちゃんと来て来て!」


 ふわふわと近づいては忙しなく手を振り回し、謝罪の意思を全身で表現する。いつもこう素直であって欲しいのだけども。それにしたって慌てすぎだろう。6つもある腕が絡まりかけている。


『ふふっ。冗談だよ。さ、早く“海”へ行こう』

「!うん、行こう行こう!ほらこっち!」

『あっちょ──』

 

 思わず笑い出した私を見て、ホッとしたのだろうか。表情がパッと明るくなると同時に私を勢いよく持ち上げ急上昇を始めた。そして、何度経験しても相変わらずビビり散らす私なぞ全く気にせず、海に向かいまっすぐと飛翔するのであった。



………

……



「えっとね、今日はあの辺りで!さぁ早く早く早く!」


 暫く空の旅を楽しまされると、目的地を見つけた奴が一気に降下する。地面に突き刺さりたいのかと思うほどの落下速度だったが、地表ギリギリで速度を殺し、優雅とも感じる程静かに着陸した。


「この辺りに植えて欲しいんだ!今回も沢山沢山食べたいの!」

『はいはい、わかってるよ。だからまずは降ろして?』


 硬い玄武岩の上に立つ。周りを見渡せば平坦な地形が続いている。静かの海のちょうど中心辺りだろう。酸素メーターを確認する。まだ7割。補給は暫く必要なさそうだ。バックパックを降ろし、作業に取り掛かる。

 バックパックの中身を取り出す。掘削用のドリルに、小さい胞子の様な物が入ったガラス玉を幾つか。彼から受け取ったこの胞子だが、どうやら奴自身の食糧らしい。だが常に浮いている都合で奴はどう足掻いても植えられない。そこで代わりに植えて回るのが最近の私の日課になっている。手際良く穴を開け、ガラス玉を割り、中身を放り込む。手慣れた作業だ。


『そういやよ。これってどっから持ってきたんだ?』



 半分くらい植えただろうか。ふと気になっていたことを聞いてみた。辺りを漂っていた奴は一瞬キョトンとしたが、すぐにニコニコと答える。


「あぁ?コレはねー。僕が住んでいた星の海で育つ海藻なんだ!これが美味しくて美味しくてね。僕らはみんなみんなコレを主食で食べるんだよ!」


 海藻。つまりワカメや昆布を米と同じ感覚で食べているって事なのか。しかも真空でも数日で育つ繁殖力の化け物の様なコレを。というかまず奴らの星に海があるのか?よくわからん生き物だ。


『ふーん…美味いのか。私も食べられるか?』

「どうだろ?多分食べられると思うよ!僕らはそのまま食べちゃうけど、地球人はリョウリって文化があるし!なんとかなるなる!」


 そう笑いながら奴はクルリクルリと宙返りを繰り返す。


『料理か。なら味噌汁とか良さそうだな』

「ミソシル?よくわかんないけど、とてもとても美味しそう!今作れないの?」

『無茶言わないでくれ。月面には味噌も豆腐もないし、そもそも調理器具すらロクな物ないんだから』


 だがまぁ実際の所、私も飲みたいのは事実だ。何しろ月面では基本的にパック詰めされた保存食メニューのローテーションだ。そして今現在、私の基地に味噌汁というメニューは存在しない。つまりは次の補給物資が来るまでメニュー内容に味噌汁が追加されることがないなのだ。


「なんだなんだ、作れないの。つまんない」


 奴が退屈そうに口を尖らす。だが無理なものは無理なのだ。


『ま、諦めな。ほらそれより、全部埋め終わったぞ』

「ホントホント!?やったやった!ありがとう!」

『わかった、わかったから抱きつくな』


 先程までの不満は何処へやら、嬉しそうにまとわりついてくる。胴を強く抱きしめられるのはちょっと苦しい。

 酸素メーターを再度確認する。4割。まだ余裕はあるけど、そろそろ戻るべきだろう。


「さ、とりあえず車まで連れて行ってあげるよ!ほらこっちこっち!」

『あぁ、頼むよ』


 再び尻尾が巻き付き、体が宙に浮かび上がる。今度は行きと違いゆったりとした飛行だ。徐々に離れる地表を眺める。見渡す限り動く物は何もない静寂の海。音もなく離れていく。

 視界に何か青い球体が映る。地球。私の故郷。豊かで、騒々しく、そして全てを育む母なる星。


『なぁ。お前はなんで地球に降りないんだ?こんな石ころしかない土地よりよっぽど良いと思うんだが。食糧も豊富にあるし、森の中とかに身を隠す事も出来るだろ』


 何故か今日は良く舌が回る。また疑問を投げてしまい──


「あー…」


 奴が目を逸らす。初めての反応だ。表情に僅かに影が差す。地雷だっただろうか?若干の後悔に襲われる。私を抱える尻尾の力が増した気がした。


「まぁまぁまぁまぁ、僕にも色々と事情がね?いや降りれるよ?降りれるけど今は降りたくないだけなの」

『そうか……案内したかったんだがな。地球』

「え?いや、いやいやいやダメダメ。君だけじゃない、君の仲間達にも迷惑かけちゃう」

『アイツらか?何、大丈夫さ。信じて降りてみない?それとも未知のウイルスとか持ってたりする感じか?』

「ないない、それはないよ。ほらほら、流石に急だし危ないし今で割と満足してるし。そこまでわがままじゃないよ」

 

 一通り言い訳を並べて奴は沈黙した。居心地が悪い。ただでさえ物音一つ立たない場所なのに、音以外も失ってしまった気分だ。


『…あのさ──』

「あの!あっごめん…」


 暫しの沈黙の後、再び会話をしようと口を開いたのはほぼ同時であった。


『大丈夫。続けて』

「ありがとう。…明日なんだけどさ、いつもより早め早めに…そうだね、2時間くらい早くきてくれると、僕とてもとても嬉しいんだけど」


 珍しい。奴が時間帯を指定してくるのもまた初めてだ。一体どういう風の吹き回しだろうか。


『まぁ良いけど、なんでまた』

「地球に降りる条件の一つ、かな?来てくれるなら降りるのも全然ありあり、ってね」


 先程まであれだけ誤魔化していたのに、どういう風の吹き回しだろうか。まぁせっかくのその気になるのなら手伝うのもやぶさかではない。


『あぁわかった。でも一つ理由を聞いても──』

「いいのいいの!?やった!ありがとう!じゃあ明日待ってるから!」

『グォ!ちょ!わかったから!ぶん回すな!!オェ!』


 まるで誤魔化すように尻尾を振り回される。相当聞かれたくないのだろう。結局、この日は聞けずじまいのまま基地へ帰るしかなかった。


………

……


『お、いたいた』


 翌日。珍しく奴から絡んで来ない。おかげさまで探すのに手間取った。宙に浮く特徴的な2本の巻角の後ろ姿を見つけたので停車し近づく。ぼんやりと地球を眺めていたが、だいぶ近づくとようやく此方に気がついた様だ。表情が緩み軽く手を振ってくる。


『…うん?』

「やぁ、来たね来たね…どうしたんだい?間の抜けた顔をして」

『あぁ、いや…今日はなんか…やけに人間っぽいなって。お前変身能力もあったのか』


 後ろ姿の時は気がつかなかったが、今日の奴は本当に、二つの大きな角以外は人間の女性にしか思えぬ見た目をしていた。

 どこか落ち着きなさげに奴は、私から再び地球へと目を向けた。話を続ける。


「そーそーそー。実はいい加減地球に降りようかなって…ほらほら、昨日言ってたミソシルも食べてみたいし。あの大きい青い海にあるんでしょ?」

『いや味噌汁自体は地上にあるな。何にせよ、降りる気になったのは嬉しいよ。今度私が地上に戻ったら案内しようじゃないか』

「………」

『今日は海藻埋めなくてもいいのか?』

「え、あぁ。今日は大丈夫大丈夫…」


  様子がおかしい。いや昨日からおかしいとは思っていたが、明らかに挙動不審だ。


『…なぁ。大丈夫か?話があるなら聞くけどよ』

「………」


 沈黙は続く。何かを隠しているのは明白だが、それを問いただすべきか。ひとまず奴は放置するしかないかもしれない。


『ちょっと先に観測機器の設置をしてくるよ。やっとかないと怒られるしな』


 私は一度車へ戻ろうと立ち上がった。が、細長い物体に巻き付かれ引き止められる。


『おいおい…なんだってんだよ。らしくないな。何かあったか?』

「…違う──」


 そう呟くと急に奴が動きだす。目の前に逆さになった顔が垂れ下がる。




「──今から起きるの」




『…え?』



 “それはどういう事か”そう口を開こうとした、まさにその瞬間である。


《ザ──聞こえるか中尉!!此方226月面基地!!今どこにいる!!》


 突如無線が起動した。ノイズ混じりに基地司令の濁声がヘルメット内に響く。


『えっ、あ、ハイ!ただいま第三観測ポッド設置予定地点にて、観測機器の設置作業に取り掛かっております!』

《そうか!まだ無事なんだな!?》

『それはどういう──』


 やけに混乱した様子の指揮官に、何か、とてつもない嫌な予感が私を包む。


《直ちに救難信号を出せ!現在正体不明の生命体から攻撃を受け─ザ──ザザ─おい!司令室にはなんとしても─侵入させ──ザ────!!》


 再び無線がノイズに塗れる。


『司令!?司令!!!』


 状況がわからない。何かに襲われてる。だが一体何者が──いや。心当たりは一つしかない。


『おい!お前一体何をした!?』


 頭上に漂う“奴”を問いただす。奴はまた地球を眺めていた。ゆっくりと口を開く。


「うーん…別に私は何も。ただただあの星に降りたいって、僕の星に伝えただけ」

『じゃあ今、基地を襲っているのは──!?』

「そうだね。僕の仲間達だと思うよ」


 それが何か?と言わんばかりに、尻尾を私に絡め浮かぶ。絶句する私に、奴は続けた。


「僕ね、ただの観測員なんだ。色々な惑星を外から見続ける、ただただそれだけ。いつもの姿も、本来の姿じゃないの。本当は……」


 頭上の影が一気に肥大化する。尻尾は太くなり、手足に鱗が生え、一対の手は翼の様に変化していく。本来脚があるべき場所には無数の触手の様な物が伸び、口には鋭い牙がビッシリと揃う。物の数秒で、奴は、見たことのない、見るべきではない、異形の存在へと変わっていた。


『ドラゴン…!?』

「あー、君達にはそう映るかもね。間違いではないよ。過去に僕以外の間抜けが何度か落下して、人間に目撃されてるはずだし」


 数本の細い触手がバイザーに張り付く。恐怖で息が詰まる。殺されるのか。


「大丈夫。君は殺させないよ。僕の大事な大事な友達だし。それに君の仲間達は死んじゃうけど、記憶はちゃんと保存するから」


 スルスルと触手達が消え、再び見慣れた奴の笑顔が目の前に降りてくる。


「ほら、地球を案内してくれるんでしょ?僕とってもとっても楽しみにしてるんだ。そうでしょ?」

『………本当か?』


 違う。顔を見ればわかる。奴は、いや、彼女はこれっぽっちも楽しみになんかしていない。張り付いた様な笑みには似つかわしくない目の表情が、私に訴えてきている。


『本当は、こんなこと、したくないんじゃないのか?』

「…そんな訳」

『なら何故向こうの戦いに参加しない。明らかに今のお前には殺意を感じない。敵意を感じない』

『むしろ…戦いを拒んでいる。違うか?』


 尻尾を振り解き、少しずつ歩み寄る。彼女の表情は変わらない。ずっと目以外は笑っている



『何故…?』


「僕は。僕は……」



「僕は、君と、過ごしたかった。君が、悪いんだよ。とてもとても。僕を、地球に連れて行きたがった君が!」


 解かれた尻尾を地面に叩きつける。砂塵が舞う中、彼女の徐々に口調が荒ぶっていく。


「僕が、あの星に降りたいと願ってしまえば!地球上の人間達をみんなみんな!殺し尽くすしかないんだよ!それが、僕らの掟であり、本能だっ!!」


  彼女の足が再び無数の触手へと変貌し、一斉に襲い掛かる。


「そうさ!本当なら君もこの場で殺すしかない!僕の本能が君を殺せと命じてくるんだ!」


ヘルメット越しに、宇宙服越しに巻きつき締め上げてくる。ミシミシと、防護服を粉砕せんと圧殺してくる。


『───ッ‼︎』

「でも僕は!!僕は…っ。僕は、君を殺したりなんかしない!したくないの…!お願い、僕を信じて欲しい…。大丈夫、アイツらには手を出さないでと言ってあるし、だから、ねぇ、これからも一緒に──」


 ゆっくりと近づきながら捲し立てる彼女をバイザーを覆う触手越しに見つめる。笑顔とも泣き顔ともつかない、潤んだ目を真っ直ぐ見据える。


 私は、彼女になんて答えるべきだろうか。

 生き残りたいのならただ一つ、彼女の要望に応えれば良いだけだ。そう。自分の命が大切ならば。



 だから、私は。




 私は、……!




『すまない。君の、気持ちに、今は、答えられない。』


「──え?」



 彼女の目が見開かれ、全身を覆う触手から力が抜ける。


「なんで…なんでなんでなんで!?君、このままだと死ぬんだよ!?」

『ッ…ハー…ハー…別にそれでも良い。君の中で死ぬのなら、それも構わない』


 酸欠気味の脳が覚醒していく。そうだ。彼女とこのまま過ごす訳にはいかない。


『私はね。お前に、地球の騒々しさを味わって欲しいんだ。こんな灰一色な真空世界では想像できない程の喧騒を、豊かさを、彩を』

「………」


 彼女は微動だにせずに俯いている。表情が見えない。


 『君達の目的が何かは知らない。君達が降り人間が1人残らず消えた、あの星は、きっと今以上に美しくなっていくのだろう』

『…でも違うんだ。私は人間だからな。あの混沌とした世界の中じゃないと生き残れないんだよ』


「…じゃあ。ここでアイツらに殺されるの?容赦はないよ。必ず。必ず君を殺しにくる」


 ようやく上げた顔に映る感情は無かった。ただ淡々と事実を告げてくる。


『いや、死なない。必ず僕は地球に戻るし、人類も滅ぼさせない。そして──』


 彼女に更に歩み寄る。尻尾を、触手を、押し退け近づく。彼女の大きな口が、縦に長い瞳孔が、ヘルメットが無ければ触れられる程に接近する。


「え、ちょっと──」

『──君にも必ず、喧しい地球を全て案内してみせる』

「─はい???」


 真空世界にいるはずなのに、何故か彼女の心臓が高鳴る音が聞こえた気がした。


「あのあの、流石に無理だよ!もう戦いは始まっているんだよ?今更止められない!」

『終わらぬ戦争なんてないんだ。それが、人類が初めて経験する星間戦争だったとしてもね』

「なんで…なんでそんな事言い切れるの!?」

『そりゃ簡単だ。君という和平の要がいるからさ』


 今まで見たことのない程に動転した顔をする彼女に、愛おしさすら感じ始める。限界まで体を、顔を、心を近づける。もう体が宙に浮いている。彼女の触手と尻尾に支えられている状況だ。


『いいかい。君はこの戦いに参加する義務はないんだろ?それに、こう密着する人間を殺さないことも出来る。なら君を介して戦いを終えることも出来るはずだ』

「無茶な話を」

『それはやってみないとわからない』


 いつのまにか地に足がつく。岩の感触を踏みしめながら、今なお浮かび続ける彼女を抱きしめる。


『お前は私に“信じて欲しい”と言った。正直、嬉しかったよ。そう思われるならば、それだけの信頼があるって事だと思う。だからこそ、私の事も信じて欲しい』


 ヘルメットを掴まれる、触手ではない。尻尾でもない。彼女の6つの腕が、私の頭と肩を掴む。


「…僕は、どうすればいいの」


 声が、手が、震えている。同じだ。私と同じ恐怖心に蝕まれている。離れたくない。



『この星で、待っていて欲しい。今私と共に降りれば、きっと戦争に勝つ為の道具にされてしまう』


『だから。だから、約束する。私は必ずこの地に、この岩と砂しかないこの月に帰ってくる』


『すぐに戻ってくる事は出来ない。でも、君を置いて死んだりはしない。絶対にだ』



 時間的にはきっと30秒もなかっただろう。けれど、私達にとっては1時間にも感じ取れる程に長い。それ程までの静寂が、この場を包む。



「………わかった。約束、する。僕は、僕は。君が植えてくれた…君が育ててくれたあの地で、待ってる。だから──」




 彼女の真っ赤に裂けた唇が 

 真っ白なヘルメットに触れ

 彼女の声が空気を震わせる




『絶対絶対、逢いに戻ってきてね』






車の通信機器で救援を呼んだのはあれから10分後だった。窓越しに離れていく月にいくつもの小さな爆炎が確認出来る。船外服を片付けると、乗組員が水と携行食を持ってきてくれた。


「中尉、よくぞご無事でした!226基地唯一の生存者ですよ!」

「…あぁ。ありがとう」

「とにかく今はおやすみください!後は応援部隊に任せましょう。何、すぐ終わりますよ!」



「……そうだな。すぐ、終わらせないとな」





………

……



《中将!まもなく降下ポッドが着陸します!準備を!》



 

 月面に降り立つのは何十年振りだろうか。昔は重く感じた船外服も、技術の進歩で船内服とそう変わりない重量にまで軽量化されている。老体には有難い限りだ。


 共に降ろしてもらった月面車を飛ばす。あいも変わらず岩と砂の灰色と、太陽光が生み出す光と影。単調な景色はまさしく静かの海という名に相応しい。戦場になってしまい残骸と遺骸塗れになった他の月の海とは雲泥の差だ。


 遠くに、何か緑色の物が見える。ハンドルを切り接近すれば、すぐに広大な宇宙藻の群生地だと知る。荒らさないよう車を側に止め、携帯してきた銃を置き、私だけで静かに踏み入っていく。





 やがて私は中心に辿り着く。相当歩いただろう。軋む節々を堪え、将官の襟章のついた服を今一度整え、中心地に目を凝らす。

 

そこには、あの時と同じ巻角が2つ。一際藻が繁殖する中に座り込りこみ。




 私は あの時と何も変わらない とびっきりの笑顔を 投げかけてきた彼女に この気持ちを渡すのだ。



 作りたての味噌汁が詰まった この宇宙食と共に。






お題:竜 月 影 海藻 砂

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