No.2038
二日ゆに
エンドロールが始まる前に
No.1 - エンドロールが始まる前に
大海原の中にぽつりと浮かぶ高層ビルの屋上には、わずかに生き残った植物たちが命をつなぐためにびっしりと生えている。美しい緑に囲まれた屋上に腰かけながら、キキョウは海風に銀髪をたなびかせながらその澄んだ瞳を水平線へ向けていた。うっすらとした雲に遮られた控えめな太陽光に照らされて、彼女の長髪はきらめいて見える。足元の壁に打ち付けられて砕けた小さな波のしぶきが時折足元を濡らす他はなんの変化もない穏やかな天候だった。
キキョウの後ろには一隻の宇宙船が屋上に繋がるようにして停泊していた。外装はボロボロで、美しかったであろう流線型の船体のそこかしこがひしゃげている。わずかに見える船の地肌には丁寧な塗装が見て取れたが、それも今は意味をなしていない。彼女の肌の白さとは、きわめて対照的だった。
キキョウが視線を下げると、廃墟の屋上からほんの少し下には黒々とした海が広がっていた。かつてこの星でどんな文明がどのような栄華を誇っていたのか、その証拠は既に水底にありもはや確かめようがない。足元はるか下に水面に映る自分の影を眺めながら彼女はふと、この星でただ平和に暮らす姿を想像してすぐにやめた。渇望は既に彼女にとって、途方もなく無意味なものであることを身に染みてわかっていたからだ。
「時間だ。答えを聞こう」
背後から聞こえた声に、キキョウははっとして顔を挙げる。振り返ってみると、少し後ろに純白の髪の男が立っていた。決して老いているわけではなく、単に髪の色素が自然に抜け落ちたようであり、肉体は若々しい。コツコツと靴の底から音を鳴らしながらゆっくりと近づいてくる彼の目を、キキョウはじっと見つめていた。
「オブ、今度は何の映画からとってきたの?」
「たまたま見つけたアニメ。結構売れたらしい。実際、面白かったしね」
「そう、〝著作権〟って言葉、知ってる? この星では当たり前に保証されている権利よ」
「今更そんなこという必要ある?」
「それはそうね」
キキョウが立ち上がろうとすると、オブと呼ばれた青年がすっと手を差し出す。
彼女はその手を借りて立ち上がり、スカートについたわずかな埃をはたいて落とした。その様子を、オブはじっと見つめている。最後に自分の手についた土をふっと息で飛ばして、キキョウは顔をあげた。目の前でこちらを見つめる、端正な顔つきの青年と視線がぶつかる。
(見た目は変わらない。でも、ねぇ。〝あなた〟はどこにいるの?)
オブの中から、別の存在をキキョウは必死に探したが、彼の瞳はただオブの意思だけを宿していた。ほんの少しの寂しさと、不躾な視線を向けてしまった罪悪感とを内に抱えてキキョウは歩き始めた。オブの脇を通り抜けて、屋上を横切っていく。
「そういえば、生け簀はどうかしら? あの子たちの顔もたまには見ないと」
キキョウの視線の先には、停泊した船の傍に設置された生け簀があった。この星にわずかに生き残った水中生物たちが殖えるささやかな手伝いという名目で、日々の彼女たちの食料源になっている。だが、最近ではむしろ愛玩動物として育てているような節もあった。
「待って」
本来なら、二人で仕事に取り掛かるはずだったその時。先ほどより少し鋭い言葉にはっとして、彼女は声の主に振り返った。
「本当に、時間だ。あと半年で、この生活もおしまい。」
「……」
黙り込んだキキョウに対して、オブが話し続けた。
「その時までに答えを聞かせてほしい。覚悟、はちょっと重すぎるかもしれないけど」
「そう、ね……。わかったわ」
思ったよりもすんなりと言葉が出たことに自分でも驚きながら、キキョウは頷いた。
「うん。残された時間で納得できるようにしっかり考えてほしい」
オブはほっとしたように笑い、その身を翻して空へ翔けだした。
「あー、よかった。君が取り乱したりしたら、どうしようかと思ってたんだ!」
締め切りが人を狂わせるのはいつの時代も同じだからね、とオブは付け足す。重荷から解き放たれた反動からか、柔らかく笑っていた。
そうやって空を舞うオブを、キキョウはじっと見ているしかない。キキョウが同じように振舞おうとすれば、すぐに海の底へ沈んでしまうだろう。キキョウの視線の先、澄んだ空と濃紺の海の境界線で、彼のふるまいは自由だった。重力にも、大気にも、足元に沈んだ文明にも、ましてや本人の心にさえも縛られない。そんなオブの姿に、キキョウは自分の愛した人の姿を重ねていた。
「あなたの代わりに能天気な宿主が我が物顔でしてるわよ」
ぽつりと呟いた彼女の瞳に映ったのは、今はもういない誰か。そのつぶやきに答えるように、爽やかな海風が彼女の髪をすくい上げた。キキョウは視線を感じた気がして、風が吹いてきた方向を振り返ったが、そこには誰もいない。ただ星巡る方舟の汚れた外装が見えるだけだった。
――そんなこという君だって、楽しそうじゃないか
ふと、そんな声が聞こえたような気がして。口元に浮かんだ笑みをうかべ、潤み始めた目じりをそっとぬぐいながら、キキョウは空を舞うオブへ声を張った。
「しばらく書斎にいるから! 夕食の時間になったら呼んで!」
オブは言葉の代わりにくるくる大げさに空を舞って見せた。
◇◆◇
朽ちかけた宇宙船の中は外装とは打って変わって清潔だった。コツコツと小気味いい音をたててキキョウは書斎へと歩く。彼女の歩いた跡にはほんの少し海水が垂れていたが、すぐにアームが伸びてきて水たまりを消し去った。
キキョウが書斎の前に立つと、自動で扉が開く。彼女は自然な足取りで壁際に設置された机に向かって歩いた。彼女の机は船内と同様、生活の痕跡を感じられない。キーボードとモニター、数枚の紙と古ぼけたペン。数えられる程度の道具が丁寧にそろえられて置かれている以外は、何もなかった。
モニターには日記が書きかけの状態で表示されている。正しい姿勢でキーボードに向き合い、点滅するカーソルを見つめて彼女はぽつりと呟いた。
「こんなに長生きするつもりじゃなかったんだけどね」
デスクの上に備えられたキーボードは、キキョウの意思を正しく受け取る。彼女の入力を受け取って、モニター上の真っ白な画面は文字を次々と表示させた。
日記を書き終わったキキョウは、小さく息を吐いてキーボードから手を離した。持ち主の意思を感じ取って、キーボードはすぐにその姿を消す。
空いた机の上に、キキョウはぐったりと突っ伏した。
「案外落ち着いてるわね、私。もうちょっと取り乱すのかと思ってた」
そう呟いた彼女の指先は、小刻みに震えている。自分の気が付いていなかった本心に気が付いて、キキョウは苦笑いした。
彼女が画面を触ると日記は滑らかに透過され、裏側から壁紙が表示された。まだ綺麗な状態の宇宙船の足元で、キキョウをとオブを中心に数人の仲間たちが映っている。少し汚れた作業着やよれたシャツを着ている、そんなごく普通の日常を切り取った写真だった。彼女は、ぎこちなく笑うキキョウの隣で、屈託のない笑顔をした青年の顔をそっと撫でて呟いた。
「戻れたらいいのにね」
キキョウが見つめるその先で、壁紙は次々に切り替わっていく。永い永い思い出の積み重ねが、次々と彼女の視界を彩った。
「この頃みたいにみんなではしゃいでさ」
写真の日付が進んでいくにつれて、宇宙船は少しずつ壊れ、メンバーも次々に減っていく。やがてじっと画面を見ているキキョウの前で、最後の一枚が表示された。たった一枚だけ、室内で撮られた写真だった。
ベッドの上に横たわり、上体だけ起こしたキキョウと、その隣で佇む青年が映っている。キキョウは今よりもずっとやつれていて、腕には点滴の針が刺さっている。青年はそんなキキョウを優しいまなざしで見つめ、じっと立っていた。
グレイヘアーのその青年はオブにそっくりだったが、キキョウの思い出の中ではまったく別の存在が生きていた。
「ねぇ、マコト」
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