異世界に転生したら子爵夫人になりました

海星

異世界に転生したら子爵夫人になりました

「私はお前が嫌いだ。憎んでさえいるというのに」


 侮蔑の表情で、ベッドの縁に腰掛けた私を見下ろす夫。初夜だからと綺麗に磨きあげた私に告げるには辛辣な言葉だ。だけど、何故だか、こう言われることがわかっていた気がする。その感覚と一緒に訪れたのは胸の痛み──ではなく、激しい頭痛だった。


「あ、ああ……っ!」


 堰を切ったように、記憶が頭の中を縦横無尽に駆け巡る。ここではない世界で、できのいい兄妹に囲まれて育った平凡な黒髪黒目の女性。いつも沈鬱な表情を浮かべ、それを見られないために前髪を伸ばして顔を見えなくしていた。両親から褒められることもなく、兄妹からは罵倒される。友人だと思っていた人たちは、彼女を利用するだけ。好きになった人たちは決まって彼女の妹を選ぶ。


 走馬灯のような記憶が流れ去り、薄れゆく意識の中で私は彼女の心の痛みが自分の痛みであることを確信していた。──彼女は前世の私なのだという事実と共に。


 ◇


 目を覚ますと寝室には誰も居なかった。夫のオリヴァーは気絶した私を放って自室へ戻ったのだろう。それくらい彼が私を嫌っているのだと思い知らされて、重い溜息を吐いた。


 気絶する前に思い出した記憶と、今の記憶を混同しないように情報を整理してみる。


 今の私はリサ・エインズワース。子爵夫人という肩書きを持っている十八歳だ。母親の美貌を受け継いで、蜂蜜色の髪に、ぱっちりとした翡翠色の瞳で、外見は可愛らしい部類に入るだろう。だけど性格は前世を思い出した今ならどれだけ酷かったかわかる。蝶よ花よと可愛がられたため、わがまま放題の怠惰で自己中心的な人間だった。


 オリヴァーと結婚した経緯でもそれがわかる。私は一目惚れしたオリヴァーにあの手この手で迫り、彼の近くにいる女性を排除し、格上の伯爵令嬢であることを笠に、結婚に同意させたのだ。そればかりでなく、子爵夫人になるというのに、その勉強も嫌でやっていない。これでは嫌われるのも当然だ。


 だけど、わかっていても胸が痛む。オリヴァーを好きな気持ちは本物だから。


 どうしてこのタイミングで前世を思い出したのか、なんとなくだけどわかる気がする。前世の私は誰にも愛されなかった。そしてよく聞いた言葉が「お前が嫌いだ」だった。そして同時に一番聞きたくない言葉でもあった。よりにもよって本気で好きな人に言われてしまったから、ショックで思い出したのだろう。どうせ思い出すなら、なんでもっと早くに思い出さなかったのか。もうここまで拗れたら取り返しがつかないのに……。


 ◇


 結婚してから一週間が経った。相変わらずオリヴァーには嫌われている。せめて関係の修復を、と思わなかったわけじゃない。だけど、前世も今世も、私は人に好かれる方法を知らないのだ。前世の私は卑屈で、穿った考え方をしていた。例えば「いい子」というのはその人にとって都合の「いい子」でしかないとか、「あなたのため」というのは好意を押し付けて思考を自分の都合のいい方へ誘導しているんじゃないか、とかだ。その上、家族に他意もなく言った言葉は、そんな風に全てネガティブに変換されてしまい、結局更に嫌われるという悪循環。それがだんだん怖くなってきて、最終的には対話を諦めたのだ。


 オリヴァーが私を嫌っている以上、前世の家族と同じになりそうで、何も言えない。こうなると離婚するのが最良の方法に思える。


 記憶が戻ったことで、これまでの傲慢さとわがままは鳴りをひそめた。その態度が明らかに嫌われるものだとわかっているのに、それ以上続ける勇気がなかったのだ。かといって、どうしたら好かれるのかを考える気力もない。前世と今世を合わせた何十年分の記憶は、私から気力を奪うには十分だった。


 それに、今の両親に私は愛されていると思っていたけれど、それすらもわからなくなった。悪いことを悪いことだと叱ってもらえず、綺麗でさえいればそれでいいとずっと言われてきたのだ。つまりそれは綺麗でなくなったら私には何の価値もないということ。前世の価値観に引っ張られ過ぎて、現世の私が信じていたものはことごとく壊れてしまった。


 そうして今の状態に至る。


 この一週間、オリヴァーと顔を合わせるのも苦痛で、あちらが食事を共にと言ってこないのを幸いに部屋にほぼ引きこもっている。世間体のために私につけてくれた侍女はいるけれど、前世の記憶が戻る前に彼女にきつく当たったことで怯えられているため、接触は最低限だ。謝ったのは謝った。だけど、それだけで許されるとは思わない。それは彼女と同じような目に遭ってきた前世の私がよく知っているから……。


 何もしないのが一番なのかもしれない。そう思っていたけれど、最近はそれが限界になりつつある。

 前世の私は、認めてもらうためとはいえ、いつも何かしらやっていた。いつからか、それが楽しいからに変わっていた。


 ──そうだ。愛されるかどうかが大切なんじゃない。私がどうしたいかが大切なんだ。


 視界が開けた気がした。いつまでも何もせずに引きこもっていたところで何かが変わるわけじゃない。もう十分に落ちるところまで落ちている。だったら自分がやりたいことをやってやる。


 ◇


 開き直った私は、執事長に声を掛けた。自分の仕事が何なのか、教えてもらうためだ。前世と今世はまるっきり世界が違う。前世の知識があっても役に立たない。今世も勉強不足でわからない。わからないのならわかる人に聞けばいい。


 執事長は一瞬ものすごく嫌そうな表情になった。だがけど、すぐに困惑の表情に変えたのはさすがだと思う。私に人の顔色を伺う癖がなければきっと気づかなかった。気づいて怯みそうにはなるけれど、気づかなかった振りで自分を押し通し、何度かの問答でようやく教えてもらえた。


 もうそこには前世の臆病な私も、今世の面倒なことから逃げる怠惰な私もいない。少しだけでも前進できた私がいた。そのことが私の背中を押してくれた。


 それからは子爵夫人としての仕事の一つである、屋敷の管理について教えてもらっている。管理と一言で言っても、予算管理に使用人の人事管理まであって、覚えるのは大変だ。ただ、ここでようやく前世で経理の勉強をしていたことや買い物の知識が役に立った。金額は桁違いだけど、理論さえわかれば理解が進む。おかげで執事長が私を見る目も変わってきたような気がする。


 それに最近は執事長だけでなく、侍女の態度も変わってきたように思う。最低限の会話だったのが、向こうから提案をしてくれたり会話を広げようとしてくれるので、つい嬉しくなってたくさん話してしまう。嫌われたくないと頑張っていたときよりもうまくいっているのが皮肉だ。


 そのうちこの屋敷を追い出されるかもしれないけど、そのときはそのときで、それまでは今のまま、やりたいことをやるようにしよう。そう意気込んでいたのだけど──。


 ◇


「何の真似だ?」

「何のことでしょう?」


 しばらく放置していた夫が、唐突に夕食を一緒にと言い出し、実現した席で開口一番に問い詰めてきた。


 だとしても、そんな曖昧な問いでは答えに窮する。答えに窮したときは質問に質問で返せばいい。これで相手を不愉快にさせたとしてももう私には関係ないもの。


「とぼけるな。執事長や侍女を懐柔して何を企んでいる? この家を乗っ取るつもりか?」


 ただただ難癖をつけたいだけなのだろう。ここまでくると、以前の私はどうしてこんな男が好きで結婚したのかと自分に呆れるわ。うんざりしていることが伝わるようにとわわざとらしく大きなため息をついてやった。


「あのですね。当主であるあなたを無視して、どうやってわたくしがこの家を乗っ取れるんです? それに懐柔って何ですか? 彼らがそんなことを言っていたんですか?」


 オリヴァーの眼光が鋭くなった。


「そうか。お前は使用人に無実の罪を着せていたぶりたいだけか」

「は? 意味がわかりません。わたくしはただ聞いただけです。彼らがもしそう言ったとしても、主人であるあなたに報告する義務があるからそうしただけでしょう? 悪いことをしたわけじゃない彼らに何故罰を与えなければならないんです?」


 やれやれ、と肩を竦める。前世の経験でこういう聞く耳を持たない人の相手は慣れている。これにもまた言い返してくるのだろう。面倒くさい。そうなる前にと、私は続ける。


「話がそれだけならもういいですか? ああ、そうだ。一緒に食事をしてもこうやって言い合いになるのがわかっているから、もうこれで最後にしましょう?」

「何だと?」

「あなたには申し訳ないことをしたと思っています。わたくしを無理矢理押し付けられて、さぞ不快な思いをされたことでしょう。なので、離縁していただいて結構です。人の心までは縛り付けることなんてできませんから」


 立ち上がってにっこり笑ってカーテシーをする。唖然としたオリヴァーの顔を見て溜飲が下がった。ざまあみろ。


 罪悪感はあるけれど、それで言いたいことを飲み込むことはまた違う。言わなければわからないだけだ。自分と相手は違うのだと。


 これできっとオリヴァーと離縁して、私は実家に帰されるのだ。そう思っていたのだけど──。


 ◇


 約一ヶ月後。


「ねえ、あの人、あれで隠れているつもりなの?」


 本人は隠れているつもりなのだろうけど、柱から完全にはみ出している。気づいてくださいと言わんばかりだ。「みーつけた」とでも言って欲しいのだろうか。いい歳をした大人の男が。


 執事長が苦笑して私に耳打ちする。


「旦那様は奥様を監視されているそうです。心配なのでしょうね」

「ああ、私が使用人を虐めないかって? 相変わらず信用ないのね、私。まあ、仕方がないけれど」

「以前はそうだったかもしれませんが、恐らく今は違うかと──」

「おい!」


 隠れていたはずのオリヴァーが、私の肩を掴んで自分の方に引き寄せた。これじゃ隠れてた意味がないでしょうと突っ込みたくなる。


「信用がないのはわかっていますけど、執事長を虐めたりしませんよ。見張っていたのならわかるでしょうに」

「それにしても距離が近いだろう! 主人と使用人の距離じゃない!」

「何を言ってるんだか……」


 そんなことを言われても仕事の話をしていただけだ。どこまでも理不尽な難癖に頭痛がする。こめかみに人差し指を当てて首を振った。


 引き剥がされた執事長は私たちに背中を向けて、何故か小刻みに震えている。そんなに泣いた振りしなくても……。


 って、あれ、笑ってる?


 よく見ると笑いを堪えているだけだった。酷い。


「旦那様、奥様には何一つ伝わっておりませんよ」

「わかっている!」


 真っ赤な顔で憤慨しているオリヴァー。一人だけ除け者みたいで寂しい。


「……執事長、ひどいわ。あなたとはわかりあえたと思っていたのに」

「なっ!」

「お、奥様! その言葉には語弊が……!」


 息を呑むオリヴァーに、慌てふためく執事長。というか、これのどこに語弊があるの?

 首を傾げてしまう。


 すると、オリヴァーが地を這うような低い声で言った。


「お前たち……浮気をして……」

「そんなわけはない」


 即座に切り捨てたのは私。思わずスンという表情になったのは許して欲しい。執事長はタイプじゃないのよ。まさかそんな勘違いをしていると思わなかった。


「奥様、答えるのが早すぎます……」

「いや、だってあり得ないから」

「それは私も傷つくのですが」


 執事長が胸を押さえる。その動作がわざとらしくて半目になった。


「そもそもあなたは何がしたいんです? 私に浮気女と不名誉な称号を与えて追い出したいんですか? そんなことをしなくても離縁には同意しますと言っているじゃないですか」


 そうだ。一ヶ月前にはもう私の気持ちは伝えてある。だというのに、オリヴァーは私を追い出すどころか、屋敷にいるときは私のそばにいるのだ──隠れて。


「旦那様。もうこの機会に素直になられてはいかがですか? 私は間男と誤解されたくありません」

「う、うむ。リサ……悪かった」

「執事長と浮気していると誤解したことですか? それは絶対にあり得ませんから」


 大事なことなのでもう一度。視界の端で執事長がまた胸を押さえている。いや、もうその嘘くさい演技はいいから。


「いや、まあ、そのこともなんだが……これまでのこと全部だ。初夜にお前にひどいことを言ったことや、何かを企んでいると決めつけたことや、あれこれだ」

「いいえ。それは私もあなたにひどいことをしたのでお互い様ですから。気にしなくていいですよ。むしろ、私こそ申し訳ありませんでした。無駄遣いはするわ、侍女を虐めるわ、逃げられないようにして結婚させるわ、我ながらひどいですね」


 一つ一つ挙げていきながら自分でドン引きだ。許してくれとは言えないわ……。


「ああ。だが、最近は以前とは違うから……。どうしても信じられなくてつい見張るような真似を……」

「まあ、そうだろうなとは思っていたので」

「それで、だな……」

「はい?」


 顔を真っ赤にして、目を泳がせるオリヴァー。視界の端になんだか期待するような表情の執事長がいる。というか、まだいたのね。これ、聞かれても大丈夫なのかしら、と心配をしてしまう。


「初めからもう一度やり直さないか?」

「へ?」


 執事長に気を取られて、変な声が出てしまった。それがオリヴァーに誤解を与えたようで顔が歪んだ。


「やっぱり許してはもらえないか……」

「あ、いえ。そうではなくて……初めからやり直すってどの初めなのかなって。えっと、初夜から、ですか……?」


 こんなことを聞くのって恥ずかしい。オリヴァーの顔をまともに見れなくて、俯き加減で尋ねてみる。すると、オリヴァーがむせた。


「ぶふぉっ、い、いや、出逢いから、その、段階を踏んで、と思っていたんだがっ」

「ああっ! そうですよね!」


 これだと私は痴女みたいだ。恥ずかしくて穴があったら埋まりたい。頭を抱えてその場にうずくまる。


 頭上から笑い声が聞こえた。少しして、オリヴァーがしゃがむ気配がした。


「最悪からやり直すんだ。ゆっくり始めればいい。そう思わないか?」


 間近でした優しい声に恐る恐る顔を上げると、オリヴァーが右手を差し出していた。


「そう、ですね」


 私も恐る恐るその右手を握り返す。

 気がついたら執事長は居なくなっていた。きっと気を利かせてくれたのだろう。このどことなく居心地の悪い空気を壊してくれてもよかったのに、と内心で悪態をつきつつも、前世を通して初めて味わう甘い感情に悪い気はしなかった。


 こうして、私の最悪から始まった結婚生活は変わることになった。


 変わることは怖い。それがいいものでも悪いものでも。だけど、一歩踏み出さなかったらこうして新しい世界を見ることなんてできなかった。


 これからどうなるかはわからないけれど、きっとまた変わっていくのだろう。環境だけでなく気持ちも。好きだった夫をまた好きになるのか、愛していると言えるようになるのか──それはきっと近い未来にわかるはず。

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